自画自賛

大抵の人の人生において、それほど頻度のない「自画像を描く」こと。
人が「真の自画自賛」を得るタイミングは、まさにこのときにしかない。
「ちょっと今日の料理は、自分で言うのもなんだけど、すごいできだから!!」
「今日の話はうまくかけた。案外しびれるオチがついた!!」
「私っていつもかわいい着こなしができちゃってるのよね」
これらもいわゆる「自画自賛」ではあるが、「真」ではない。
「自画」が無いから。
ということで、これはどうだろう。
「あの橋を描いてみたんだけどさ、ちょっとヤバくね?。この手すりのところなんか」
「さっき描いた私の自画像、写真並みに描けてない?」
実はこれも「自画自賛」どまり。
僕の思う「真の自画自賛」は、以下のようなものである。
「自画像描いたんですけど、完璧に描けました」
「でも、鼻の高さを低くく描いちゃっているんですけど」
この二言目が発せられた瞬間がそう。
その、完璧であるとされた自画像を、既に超越している自分。
それを示唆するこの発言こそ、「真の自画自賛」だと思うのです。
と、こんな旨のことがメモに書かれていました。
書いた覚え、いまいちないんですけどねぇ。
追記
なお、鼻の高さどうこうが賛の対象になりうるかどうかは、アヤシイところであります。

一通あいさつ

ジョギングコースから少し外れた場所が登山道の入り口で。
まぁ登山とは言っても10分くらいで頂上付近に到達できる、そういった山でして。
ある時期の夕暮れですと、その山の頂上から町を見下ろしたとき、山の影が町を覆い、それは壮大な風景なのです。
その日、私は田んぼを散歩するついでに、山へ向かいました。
そこは涼しいですし、何より久しぶりでした。
登山道の入り口に着きますと、もうそこからひんやりとした空気が流れていることに気づきました。
自転車から降り、舗装されていない山道を歩いていきます。
そこは先ほども言いましたように、夏にも関わらず涼しく、快適です。
ここの空気を吸ったあとの吐息が暖かいことに、ちゃんと空気が自分の中のものと置換されたことがうれしくもあり、こことは相容れないものを排出する自分が残念だ、とか、そんなことを考えて歩いていました。
ふと、目の前を何かが上から下に通り過ぎ、足元に落ちました。
なんだろうと足元を見ると、どんぐりです。
青い、まだ未熟などんぐりが落ちています。
それを手にとって良く見てみると、奇妙な点がありました。
どうにも、ぽろりと落ちたようには見えなかったのです。
どんぐりは、それが着いていた小枝とともに落ちており、しかもその小枝は、何か鋭利なもので切られたかのような断面をしていたのです。
普通なら鳥の仕業、その植物の特徴か何かと思うのでしょうけれども、そのときは散歩中ですし「もっけ」も読んでいました。
山の精のようなものが、あいさつ代わりにどんぐりをよこしたのだと思うようにしたのです。
道行く人にあいさつをするなんて、律儀なものです。
さて、周りを良く見てみると、同じようなどんぐりが枝とともに落ちていました。
全ての人にあいさつをしているのかもしれません。
でも、これではどんぐりがなくなってしまうでしょうに。
それに、こんなあいさつじゃ、気づかない人の方が多そうですし。
そんなことを考えながら、手にしていたどんぐりを放って歩き出した私はそのあとすぐに、案外この考えがいいセン行っているかも、と苦笑しながら思ってしまいました。
何故かといいますと、その先の道に、今度は、青く未熟な栗がたくさん落ちていたのですから。

あるなし

あるなしクイズ!!
「家」はあるけど、「家族」はない。
「時間」はあるけど、「お金」はない。
「鍵」はあるけど、「ドア」がない。
これなーんだ!?。
=====
「これなーんだ、か・・・」
10年にわたって続いた内戦のせいでここ、タフツ・シティーの治安はひどいものになった。
それでも長年住んだ場所だからと、離れられない俺。
でも、帰宅してみてこれはどうしたことか。
家族を安全な場所に住まわせていたのは正解だった。
どうも家に賊が入ったらしい。
でもこの状況じゃあ。
あの子が問いかけを思い出したのは、ちょっとつらい。

反芻

日々のありふれた生活において、ちょっとしたイベントとしてよく知られていることに「歯にはさまっていた食材が口内に躍り出る」がある。
「小さい反芻」と別名を持つこの現象。
みなさんはどんな食材が出てきたとき、うれしいだろうか。
僕は、紅しょうがが出てきたときが一番うれしい。
一方、きゅうりが出てきたときはちょっといやだ。
このときのきゅうりは、やたらと青臭いのだ。
でも、いやだって言ったら「髪の毛」がある。
口から髪の毛をつまんで出すときの感触は、なかなか気持ち悪いもの。
あれが一番やだな。
あ、今回は「歯にはさまっていた食材が口内に躍り出る」ことについてだった。
髪の毛、そもそも歯にはさまるものでもないな。
それに、常時人を食ってるわけではないし。

除湿機

ひまだし、クイズでもする?。
ここにある除湿機。
電源の横に、こう書いてあるんだ。
除湿
満水
霜取
電源を入れたときは除湿。
水が満杯になったときは満水。
霜取モードでの運転は霜取。
それぞれのときに、そこにランプがつく仕組みなんだ。
で、問題。
この並びでもう一つ、書いてあるものがあるんだけど、それは何かな?。
はい、みっちゃん。
「関取」?
除湿
満水
霜取
関取
・・・いやだね。
あんまし僕はそういうの、嫌いだね。
「家庭教師のトライ」のCMよりは、マシだけどね。
はい、みっちゃん。
「分解」?
除湿
満水
霜取
分解
これは考えさせられるね。
空気中の悪いやつを分解、無害化してくれるのかな。
それとも除湿機自体がいくつかの部品に分解、片づけしやすくなるのかな。
僕としては、押しても特に何も起きないか、除湿機が分解しようと何か音を立てて、そのまま何も起きない、っていうのがいいな。
はい、みっちゃん。
「緊急」?
除湿
満水
霜取
緊急
これはいいね。
何を緊急で除湿することがあるのか、っていう感じだね。
じゃあこれを選ばなかったら、全力出してないんかい、っていう感じだね。
はい、みっちゃん。
「脱水」?
除湿
満水
霜取
脱水
これは怖いね。
さっきまで除湿を緊急でとか言っていたけど、これは容赦しない感があるね。
リミッター解除しているね。
はい、みっちゃん。
「純潔」?
除湿
満水
霜取
純潔
みっちゃん。
ひまだけど、クイズはもうやめようか。

ぼつ

なんとなく書かないようにした話を列挙!!。
●Exをつけてみよう。
何かにExとつけてみる。
例「あっしはしがない、ちんけなやろうExでやんすよ」
●「バイト募集」と「バイト大募集」で、どのような違いが現れるか。
「すいません、バイト募集の広告見て来たんですけど」
「すいません、バイト大募集の広告見て来たんですけど」
違い
「笹仲さんでしたっけ。じゃあ軽く面接しますね」
「笹仲さんでしたっけ。じゃあ番号が呼ばれるまで待っていてください」
「ごめんね。うち、ピアス禁止なんだけど、しなくても大丈夫かな?」
「ごめんね。うち、ピアスだけは禁止なんだけど、それ以外は大丈夫だから」
「じゃあ、さっそく明日からだけど、よろしくね」
「1?261番の方、合格ですので、明日からよろしくお願いします」
●プールバイキング
当園ではただいま、プールバイキングを開催しております。
もちろん、遊泳中に襲われる、といった方面のバイキングではございませんので、あしからず。
ご用意したプールは以下のとおりとなっております。
ご家族でお越しください。
流れるプール
流れないプール
25mプール
ウォータースライダー
幼児用プール
泥プール
うたれプール(効用:肩こり)
露天風呂風プール
サウナ風プール
間欠泉風プール
受付風プール
屋形船風プール
座敷風プール
子羊のムニエルプール仕立て
など
スタッフ一同、プールをふるってお待ちしております。
なお、園内では独自の通貨「プール」を用いた流通しか行われておりません。
園入り口にて換金をお願いいたします。
1プール = およそ1円
終わり。

ワンクッション その2

「空気読める度チェック」のようなものがある。
僕は読めているのか読めていないのか。
わからない。
さて、この「空気読める」について気になることがある。
この概念が認知される以前は、この「空気」とやらはどうなっていたのかということである。
?適切な言葉はなかったが、昔からみんな「空気を読む」ことを体得していたのか。
?そもそも「読むべき空気」はなかったのか。
社会生活を営む我々にとって、?はありえないだろうから、この「空気読める」は?であり、それは人間の基本的な能力であると言える。
となると、昨今の「空気読める」概念は、例えば以下のような位置づけとなるだろう。
●ある歩道を歩行中
【昔】
「あ、あの車、左折してくる」

「僕は本当はまっすぐ行きたいけど、左折するフリをする」

車は歩行者がまっすぐこないと認識、速やかに左折する

左折を終えた車を横目に、まっすぐ進む
【「空気読める」認知後】
「あ、あの車、左折してくる」

「僕は本当はまっすぐ行きたいけど、左折するフリをする」

「空気読める」

車は歩行者がまっすぐこないと認識、速やかに左折する

左折を終えた車を横目に、まっすぐ進む
昔は特に特別なことをすることなかったタイミングで、「空気読める」認知後には「空気読める」概念(ここでは「空気読める判定」と言うべきか)が発生している。
何もなかったところに「空気読める」概念が発生。これは別に交通についてのことだけではない。
日常生活のすべてにおいて、このワンクッションがおかれることになる。
「背伸びをする」→「みんなににらまれる」→「いっけねテスト中だ」
「背伸びをする」→「空気読める」→「みんなににらまれる」→「空気読めてませんでした」→「いっけねテスト中だ」
始まりと終わりは同じ。
しかし、2回も「空気読める判定」が生じたことが分かる。
それぞれの行動を細かくしたとき、そこに生じる他人との関わり合いの部分に「空気読める」が生じている。
このことから「空気読める」とは、日々の行動をより細分化することによって生まれた、集団生活を行ううえで必要な能力のことと考えられるのだ。
=====
「・・・話の途中だけど、ちょっといい?」
「あなたなら?を力説すると思ったんだけど」

ワンクッション その1

例えば電車内で、誰かからずっと見られるというのは気持ちのいいものではない。
しかし今、見られている。
ガラス越しに。
電車の窓はよく光を反射し、特に夜にもなると鏡のように車内を照らし出す。
冒頭にあるような、ガラス越しの直視。
このようなワンクッションおいた直視というものは、相手に気づかれることが少ないと思われているためか、けっこう多く行われているようである。
しかし、このことが相手にばれたら。
それはワンクッションおいているから気持ち悪さも半減、というわけにはいかない。
「隣の人、ワンクッションおいて私のこと見てる!!」
倍増である。
ワンクッションおいているがために、直視以外あるいは直視以上のうしろめいたい何かを内在していると捉えられてしまうためだ。
視線が直視、もしくはワンクッションおいた直視で他の人に迷惑を与えかねないのなら、それはただ自分を見つめなおすことくらいにしか使えないのである。

たぬき

少し前、信楽焼きのたぬきを誰かに送ろうとしている人がいた。
ネットで買い、そのまま相手先に送るつもりらしいのだが、このとき僕は「相手はいやがらせと勘違いするのではないか」と心配になった。
送ったことを言わないつもりらしいのだ。
サプライズなことをしたいらしいのだが、相手にしてみれば、突然たぬきの置物が届くミラクルが起きることになる。
僕は信楽焼きのたぬきがどういった存在意義を持つのか、疑問だった。
例えば玄関に置いてあるとき。
意図が見出せない。
表札を持っていたとすると、持たせる意味が分からない。
いらっしゃいませと書いてあったとすると、何をおまえがいらっしゃいませなのだ、と意味が分からない。
とにかくこの置物。
昔、たぬきと焼き物と徳利について、抱腹絶倒の物語でもあったのだろうか。
?????
昔話 たぬきと焼き物と徳利
むかしむかし、あるところに
おさけの大好きな、たぬきの陶芸家がおったそうな。
?????
網羅できました。
と、思い出した。
確か「たぬき」で「たをぬく」→「他を抜く」ということで、他人に先んじた繁栄を意味するものとして、その点、この置物はめでたいものだったはずだ。
よかった。この置物はいやがらせ以外の意味を持っていたのだ。
うーん、でももんやり。
たぬきが他人に先んじた繁栄をしているかどうかを考えると、どうも。

黄金回廊

僕の通った中学校には、ちょっとした渡り廊下があって。
そこは夕暮れ時になると、光に照らされてきれいだった。
そんなことを、不意に思い出した。
放課後、委員会なんかの帰りにそこを通るのが楽しみで、わざわざ遠回りしたりもした。
渡り廊下から夕日の方を見ると、学校に設置されている時計と、2階の理科室が視界に入って、もう鍵のかけられている理科室に入りたくなったものだ。
その渡り廊下を過ぎると、確か放送室があって、前に放送委員だったからそのことも思い出せた。
黒いコードが散乱した機材置き場があって、何故かそこに譜面を立て置くやつがたくさんあったんだ。
音楽室は全然違う場所にあるのに、なんでこんなところにそれがあるのか、不思議だった。
ちょうどこの部屋の下が下駄箱で、昔消しゴムを投げて遊んでいたときに非常灯の灯りを壊したことがあった。
先生に怒られたあと、緑色とガラスのかけらを集めて掃除した。
消しゴムを投げたやつは、確か美術室のあたりから投げたんだっけか。
僕は美術でスニーカーの絵を描いたとき、紐の絡み具合を褒められたことがすごくうれしかった。
美術室のにおいも好きだったな。
なんか木屑のにおいがするんだよな、あそこ。
音楽室は、ここからずいぶん遠い。
そこにいくには、職員室の前か2年生の教室前を通ることになる。
職員室はあまり入ったことがないからよく分からないけど、その前の廊下は妙ないろどりの石でできていて、気味が悪い。
かといって違う学年の廊下を歩くほど、勇気はない。
だから職員室の前を歩くことになるんだよな。
その廊下を突き当たった角に階段があって、ここを3階まで上れば、音楽室だ。
僕は音楽が苦手で、音符が読めなかったせいもあり、成績が悪い。
でも歌うのは好きだった。
音楽室は、そこに誰もいないことが不思議なくらい、楽器が散らばり、机はずれ、生活感があった。
机を避けて窓側に来ると、外はもう夕暮れだ。
窓を開けて身を乗り出してみても、譜面立てのある放送室は見えない。
けれども、あの渡り廊下には夕日が当たって、金色に染まっていた。
すごくきれいだ。
もうあそこに戻るころには、夕日は隠れてしまっているだろう。