せめて義父で。

好きな曲の一つに、相対性理論の「救心」というものがある。

このタイトルのつけ方が許されるのであるなら、不治の病と方々で言われている例のやつが、救心で治せるのかしら。

あるいは吊り橋へ行く前に予防薬として効果があるのか、はたまたそもそも「救心」って名前、なかなか良くない?など、こうしてみると気づかされることが多々あるが、今回注目したいのは最近、日の出ているときは暑いくらいだが、夜は意外に冷えることや、こう夜に書きごとをしていると森から聞こえるぎゃっ、ぎゃっという何かの鳴き声ではなくそう、「救心」の歌詞に出てくる「いますぐ神父を捜しに行くわ」の部分である。

別に、曲を聴いたときに勘違いをしたわけではない。

ないのだが、最初に聞いたとき、ふと同音異義語である「新婦」が思い出されてしまった。

おそらく、「新婦」「神父」という言葉に触れるのが、まず友人の結婚式であり、それらを目の当たりにしているので、その違いが一目瞭然、気にならないが、一方で曲として唐突に「しんぷ」とくると、さてどちらだろうと一瞬くらいは迷うことになったからなのだと思う。

それにしても、なぜ日本のブライダル業界は「同カテゴリに間違っちゃいけない同音異義語がある」ことを許しているのだろう、怠慢にもほどがある、と憤りを覚えたのだった。(あやつら、絶対隠語として「新婦」と「神父」に別名をつけているに違いない)

アナウンスで「新郎神父の入場です」。

まぎらわしい。神父の何割かは、このフレーズのせいで式場への入場に気を付けていると思う。いや、そもそも神父は式場には来ないだろうという向きもあると思うが、新婦のお父さんが神父だったりすると、わからないぞ。

「新郎と神父がキス」。

わかっている。誰が勘違いするんだ、わかっている。でも、とらえられなくもないじゃないか。この同音異義語のせいで、仮に1パーセントの新郎が「しんぷ」を間違ってしまった場合、日本の100組夫婦中1組が「一夫一父制」を形成してしまっていることに驚きを隠せない。

99組夫婦と、1組に夫父であるわけで、ちょっと「1組の夫父」ってのが、おもろいんじゃないかと思いますがいかがでしょうか。