ワンクッション その2

「空気読める度チェック」のようなものがある。
僕は読めているのか読めていないのか。
わからない。
さて、この「空気読める」について気になることがある。
この概念が認知される以前は、この「空気」とやらはどうなっていたのかということである。
?適切な言葉はなかったが、昔からみんな「空気を読む」ことを体得していたのか。
?そもそも「読むべき空気」はなかったのか。
社会生活を営む我々にとって、?はありえないだろうから、この「空気読める」は?であり、それは人間の基本的な能力であると言える。
となると、昨今の「空気読める」概念は、例えば以下のような位置づけとなるだろう。
●ある歩道を歩行中
【昔】
「あ、あの車、左折してくる」

「僕は本当はまっすぐ行きたいけど、左折するフリをする」

車は歩行者がまっすぐこないと認識、速やかに左折する

左折を終えた車を横目に、まっすぐ進む
【「空気読める」認知後】
「あ、あの車、左折してくる」

「僕は本当はまっすぐ行きたいけど、左折するフリをする」

「空気読める」

車は歩行者がまっすぐこないと認識、速やかに左折する

左折を終えた車を横目に、まっすぐ進む
昔は特に特別なことをすることなかったタイミングで、「空気読める」認知後には「空気読める」概念(ここでは「空気読める判定」と言うべきか)が発生している。
何もなかったところに「空気読める」概念が発生。これは別に交通についてのことだけではない。
日常生活のすべてにおいて、このワンクッションがおかれることになる。
「背伸びをする」→「みんなににらまれる」→「いっけねテスト中だ」
「背伸びをする」→「空気読める」→「みんなににらまれる」→「空気読めてませんでした」→「いっけねテスト中だ」
始まりと終わりは同じ。
しかし、2回も「空気読める判定」が生じたことが分かる。
それぞれの行動を細かくしたとき、そこに生じる他人との関わり合いの部分に「空気読める」が生じている。
このことから「空気読める」とは、日々の行動をより細分化することによって生まれた、集団生活を行ううえで必要な能力のことと考えられるのだ。
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「・・・話の途中だけど、ちょっといい?」
「あなたなら?を力説すると思ったんだけど」

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