いい話を聞いたあとには。

昨日からのつづき。
【あらすじ】
人は、いい話を聞いたときの感動度合いの自己表現としては「おー」というくらいしかない。
泣いてもいいが、多少きもい。
何かいい「わたしは今、感動しています」表現はないだろうか。
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そんな表現方法は、作ってしまって流行ってしまえばいいのだ。
たぶん、悲しいときに泣くことだって、最初は流行ってなかったのだ。
誰かが「俺は今、すごく悲しいんだ、を表現したい!!」と思い、彼は下まぶたに針をぐりぐりし、そこから液体を流した。
それが大ブレイクし、今日の「涙」に至ったに違いない。
(ブレイク寸前までは、人間に涙を分泌するための器官は存在しなかったという、信頼できる口頭伝承あり)
・・・2つばかり、考えてみた。
※シチュ
「いい話」系番組で、話の再現が終了後、映像がスタジオに戻ってきたシーン。
◆びんぼうゆすり
びんごうゆすりの度合いが、そのまま「感動している」パラメータとなる。
「それから、その坂は「ミツヨのこしまがり坂」と呼ばれるようになったとさ。」
スタジオに戻ると、すごくカタカタ言っているのだ。みな、感動している。
このやり方のいいところは、感動度合いがかなり定量化されており、客観的にそれがわかること。
「あ、あの人、両足のみならず、両手の指もゆすっている!!」
だいぶ、である。
ただ、これが採用されるためには「びんぼうゆすり」という言葉をどうにかしなくてはならないだろう。
改名いちおしは「こころふるえ」だ。
◆長そでをめくり上げる
そでのめくり上げ具合が、「感動している」パラメータとなる。
「待っているから、私。値札貼られても、待ってるから・・・。」
スタジオに戻ると、みな、感動のあまり、いっせいにそでをまくり始めるのだ。
このやり方も、定量的であり、わかりやすい。
名前も存在しないため、びんぼうゆすりのときのような改名も必要ない。
また、この表現方法は「あまりの感動に、鳥肌が立った」のを見せる行為の名残です、というように、あたかも既にやられてきたかのような印象を、流行りはじめに与えることができ、その点においては流行しやすい要素を含む。
名前は「そでがえし」とかか。
司会が言う。
「皆さん、だいぶそでがえしが上のほうになってきましたね?」
ところで、誰しも気になる「半そで」の扱いは、どうだろう?。
「感動しっぱなし」でいきたいところである。
そうすれば、今年の夏は去年よりも少し、アツいかもね!!。
※また、もっと定量的に表現できる方法として「へぇ?」ボタンみたいなものの、押下回数による表現方法もある。
「表現方法もある」ってのも、なんだかだけど。
まぁ、このように挙げてみたが、実践してみたくはなっただろうか。
結論
感動は、こころのなかで。

いい話。

最近「いい話」の番組が多い。
正直あまり見ていないのだが、こういう番組で気になるのは「いい話」が紹介されたあとの、スタジオの「間」である。
例えば「ヘビに飲み込まれた恋人を救うべく、自らも食われようとしたカエルについて」といういい話があったとする。
※もちろんこの例えは、その前に、いかにカエルがイイものであるか、ヘビがワルイものかを伝えていなくては、ただの自己満足話になってしまう。
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そして、そのカエルは飲み込まれていた恋人のなきがらから一時たりとも離れようとはしなかったのです。
わたしは、そのカエルたちが眠る裏庭に用事があったとき、いつも思うのです。
「なんかわからんが、ありがとう」と。
===========
ここでスタジオ等に戻るのだが、そのときの感じ。
出演者は「おー」とか「うーん」とか言うのである。
別にこれをどうこう、というわけではない。
ぼくだって、そうなるだろう。
でも、例えば「おもろい話」だったら、スタジオは大いにわいたり、つまらなかったらつまらなかったで誰かがフォローしたり、
どこそこがおもろいとかなったりするだろう。
しかし「いい話」だと、わくのも変だし、いい話とは思えなくても誰もそんなこと言えないし、どこそこがいいとかいうのも、ちょっと。
結局のところ、「いい話」とはだいたい「よくない出来事」がベースにあるのであって、そこから最後にひと救い!!、というものが多い。
そして、よくない出来事に対する個人的な感想、意見などはどうしても言いにくい。
こんな背景の結果、だいたいの人は「おー」とかになってしまうのだ。
そして、人間には「感動したとき表現」の能力が足らない。
例えば、喜怒哀楽にはそれぞれ、表面的にそれをアピールするためのよい方法を、我々は体得している。
うれしいときには笑ったりするし、怒っているときは校舎のガラスを割ったりする。
悲しいときには食べているラーメンの塩味が濃くなるだろうし、楽しいときにはキーキー言ったりする。
しかし、「感動」にはそのような表現方法がない。
先ほどの背景もあり、あんまり動的にアピールするのもどうか、という考えもあったのだろう。
「おー」に落ち着いてしまったのだ。
しかし、せっかく「いい話」を紹介する番組があり、実際にいい話が聞けるのだ。
「おー」などで間を埋めるのではなく、もっと積極的に「わたしは今、感動しています」を表現できないものだろうか。
つづく。

川の流れのように

もう、いくつかのデパートでは、かぶと虫が店頭に並んでいるようだ。
虫かごに元気のない鬱カップルが収まっている。
あるケースで、ひっくり返ってもがいてるオスがいた。
気になったのでうまくケースをとんとんし、レスキューする。
そんなことをやっていたら、思い出した。
かぶと虫は死んでしまうとき、いつもひっくり返っているのである。
それは、別にひっくり返ってしまったから死んでしまう、ということではない理由だった気が。
確か、かぶと虫(まぁ、虫)は弱ってしまうと足が内側に曲がってしまうようで、そのため重心が高くなってしまい、そのままころん、となってしまう。
そんなだったか。
でも、とにかくずっとひっくり返っていたら、結局死んでしまうのかも・・・。
ソースが思い出せないが、とりあえず今回は、これは関係ない。
僕のレスキューしたかぶと虫は、なぜだかケース内でひっくり返ってしまったのであるが、問題は彼が自力で自分の体を引き起こすことができなかった点である。
彼らが生きていくうえで、ひっくり返ったときは自分の力で体を引き起こす。
これは、超重要だと僕は思うのだ。
だのに、ケースのかぶと虫は、ひっくり返ってわしわししていた。
僕が彼に「なぜ自分で起き上がれないのだ」と尋ねたら、彼はこういうだろう。
「ケースの中に、足がかりになるものがないのだ。」
そう、ケース内は虫ゼリー(えさ)くらいで、あとはおがくず。
何もないのだった。
彼としては、自然界ではとにかくわしわしさえしていれば、何かの出っ張りや近くのモノに足がひっかかり、それをきっかけに起き上がれるはず、と考えているのだ。
そして、おそらくそんなことは虫発生時からやられてきていたことで、それ虫にとって当たり前の行動だったのだ。
しかし、このケースには、それが通用しない。
出っ張りやモノがない、ただひらけたおがくず平線だ。
ケース内のかぶと虫を見て思う。
でこぼこ道を歩み続けた彼らにとって、平坦な道が目の前にあるのは、必ずしも吉報とはならないのである。

僕に意図を。 もういいか編

昨日から。
【あらすじ】
ポンキッキって、なんだ。
「ポンキッキーズ」ということで、楽しい仲間のことをポンキッキというかと思ったら「ひらけ!ポンキッキ」。
・・・ひらいてしまった。
いままで全く気になることはなかった、「ひらけ!ポンキッキ」。
しかし、よくよく考えてみると、謎だ。
「目をひらけ」
「心の扉をひらけ」
この「ひらけ」と「ひらけ!ポンキッキ」の「ひらけ」が同じようなものだとしたら、ポンキッキは人のどこかにある、開閉のきくものなのだ。
しかも、この番組が子供向けなことを考慮すると、どうやら子供たちが、いつもはとじているものらしい。
このニュアンスで思いつくのが「子供らしさ、わがまま」だ。
欲しいおもちゃの前で駄々をこねる子供。
親の言うことを聞かず、自分の行きたいほうへ勝手に進む子供。
誰々の家へ遊びにいくといって、聞かない子供。
この考えが間違っていないなら、我々は彼らのことをこう表現できるといえる。
「あー、ひらいちゃってるよ、ポンキッキが。」
今までの考察により、一応ポンキッキが何なのかを、なんとなく把握できた。
「ポンキッキーズ・・・子供らしさが残る、もしくはわかっている人たちのこと」
「ひらけ!ポンキッキ・・・ひらけ!、子供らしさ」
しかし、とにかく謎なのは、その言葉の語感、存在自体であって、結局なんら解決できなかった。
ポンキッキが生み出された瞬間。
意図の見出せない、純粋な何かが生み出された瞬間。
僕にとっては、それは、けっこう神秘的な瞬間なのだ。

僕に意図を。 解決しない編

昨日から。
【あらすじ】
ポンキッキって、なんだ。
昨日、ポンキッキを2つに分けて、その意味を探ろうとしたが、その結果僕らはキッキとなってしまった。
やはり、ポンキッキはポンキッキでひとまとまりの言葉と考えたほうが良さそうだ。
でも、それでも何の解決にならない・・・。
この言葉が生まれた瞬間、創造者は何を思ったのか、それを知ることが必要だろう。
頭をうったくらいでは、絶対に出ない。
「うーん、いたた。何でこんなとこがでっぱってんだよ。もう、ポンキッキだなー。」
うん、絶対に出ない。
だからといって詰めに詰めた場合でも、難しいだろう。
「この会議の目的は、来月から始まる子供向け番組のタイトル名ですが、とりあえず明るい感じのする、パ行から始まることくらいしか決まっていません。」
「よし、ポンキッキでいこう。」
うん、絶対にない。
創造者の意図は、何なのだろうか。
そんなものはないのだろうか。
と、ここで朗報である。
「ポンキッキーズ」というものがあるのを思い出した。
この「○○?ズ」が僕らに連想させるものと言えば、何らかの目的で集合した人々もしくは薬用石鹸だ。
やはり、出演者たちのことか。
造語だが、なんだか楽しい仲間、ということを指す言葉としてポンキッキとなったのだろうか。
ところが、こんなのもある。
「ひらけ!ポンキッキ」。
・・・ひらいちゃったよ、ポンキッキ。
つづく。

僕に意図を。

反古。
読んでた本に出てきた。
「ほご」と読むらしいが、一体なになんだ。
意味がわからん。
今、yahoo辞書で調べてみたら、「ほご(反故)に同じ。」と、いっぱい出た。
たらい回すな。
このままでは、今後僕の人生に「反古」が登場した場合、僕は知ったかぶりをかますしかなくなってしまう。
「あぁ、反古?、ほごか?。やっぱりこの時代、反古されるものが多くなってきちゃうんだよね。」
「それより、海行かない?、海。反古もいいけど。」
こうなる。
ところで今回、正直反古はどうでもよく、このように意味のわからん言葉について。
僕内部で、今回の反古と似ている扱いとなる言葉に「ポンキッキ」がある。
しかし、わからなさでは「ポンキッキ」の方が上位だ。
だって「反古」でも、なんとなくアンチな言葉構成であることくらいはわかるから。
それに比べて「ポンキッキ」。
解決の糸口すらつかめない。
分けてもダメだ。
「ポン」と「キッキ」。
かろうじて「キッキ」が猿的なものをかもすが、大々的に猿キャラを押しているようには見えない。
少なくとも有名どころに猿キャラはいなかった気がする。
もしかしたら、それに一番近いのは人間だ。
悲しいじゃないか、キッキじゃ。
だがもちろん、ポンをつけてポンキッキ。ほら悲しくない、というわけにもいかない。
なんなんだ、ポンキッキ。
数多くの謎を残し、明日の解決編へ。
(注:解決しません)

コメントの解答

昨日、お祝いの席でのコメントについて書いた。
これも数日前に書いたが、僕が人前でしゃべるときは
何も考えずにしゃべる→余計なことをいい、怒られ反省する。
考えてしゃべる→聞くほうもしゃべるほうもつまらない。
という、いいこと全くなしの状態になることが多い。
先日のお祝いコメントはほぼ「何も考えずにしゃべる」だった。
あのあと、「こうしたらいいんじゃないか」というのをメモっていた(!!)ので、それを書いてみる。
「お祝いの品として、マリオカートのハンドルを渡す。」
??????????????
えー、僕は○○さん(祝われ者)の後輩のnimbusと申します。
以前より大変お世話になりまして、まぁこうめでたいことになりましたので、ここにいる仲間とともにプレゼントを贈ろうか、ということでひとつ、ご機嫌をうかがおうかというしだいでして。
はい。
まず、ここにいる、○○さんにお世話になったメンバの紹介を少しだけしたいと思います。
えー、向こうから、小遊三。
小遊三は昔、○○さんと道に落ちていたざくろを食べたことがあるそうです。
次に好楽。
好楽は全裸愛好会という団体に所属しておりまして、彼の歩いた後には彼の衣服しか残されていないという、ハイクオリティな性癖の持ち主でございます。
次が昇太ですね、
昇太は誰よりも早く、CDのラップをはがすことができるという特技を持っております。
最後が歌丸。
見た目まんまですね。
はい、こうして○○さんのお祝いということで、オールキャストでお送りしておりますが、あいにく私の、プレゼントを持つ手がだれてまいりました。
このプレゼントをお渡しすることで、感謝とお祝いの礼とさせていただきます。
??????????????
僕はこれから小一時間、自己嫌悪でアメトークを見ても笑えないだろう。

コメントの実践

昨日からのつづき。
【あらすじ】
多くの人の面前で、お祝品を手渡すことに。
===============
「お祝いの品として、マリオカートのハンドルを渡す。」
以下、僕がマイクを手にしてしゃべった内容(ほとんど覚えてないかつこんなに流暢でない)である。
??????????????
えー、僕は○○さん(祝われ者)の後輩のnimbusと申します。
以前より大変お世話になりまして、まぁこうめでたいことになりましたので、
ここにいる仲間とともにプレゼントを贈ろうか、ということでひとつ、ご機嫌をうかがおうかというしだいでして。
はい。
実はここにありますのはマリオカートのハンドルでして、本体はもうお住まいの方に郵送していまして、まぁこうハンドルだけを
渡す、そんな具合でございます。
さて、本来ならばこのプレゼントを渡すだけでなく、ここで僕のモノマネナンバーの十八番である、「ハッピーバースデーをケネディに歌う、マリリンモンロー」をやるところではありますが、時間もどうこう、ということで、控えさせていただきます。
ということで、プレゼントの方をお渡しいたします。
これからの人生も、うまいハンドルさばきで安全運転。
一同願っております。
??????????????
僕がいつも後悔することのひとつは「素人なんだから、別にオリジナリティを発揮する必要は無い」ということ。
このコメントだって、少なくともマリリンのくだりは生まれたての小鹿で十分のはずだ。
マリリンのことを話す数秒前まで「マリリンは、わからんやろ・・・」と思っていたが、言ってしまった。
そのときは、実は結構盛り上がっていただけた。
結局やらなかったので、色々な人からお叱りを受けた。
そりゃあ色々な人から、だ。
でも僕は知っている。
「結局、みんなそれほどマリリンのまねは、見たくない」だ。
その点、ハンドルさばき云々はスマートな気がするが、いかんせん落ち着きすぎだ。
まぁ、とにかくこのコメントにて、様々な人からダメダシを受けた。
「何もいわずにハンドルだけ渡したほうがよかった。」
「前置き長い」
「マイク持つと全てダメ」
等。
何故なんだ!?。
なぜ俺にみんな、笑いに対する厳しいアドバイスをくださるのだ!?。
そんなみんなは僕が「何がおもしろいことなのか、わからなくなってきた」という愚痴を聞いていた輩だ。
感謝である。
そしてその感謝をかみしめつつ、僕は小一時間、自己嫌悪ですごい形相になっていたはずだ。

コメントの2

昨日からのつづき。
【あらすじ】
多くの人の面前で、お祝品を手渡すことに。
===============
渡す品が今、こうして目の前にある。
「wiiマリオカートのハンドル」だ。
これは、この会での主役、祝われている方(何て言うんだ、ひとことだと。)のリクエストであり、ゲーム機本体等はすでに郵送されている。
まぁ、現場でも何か手渡したいね、みたいな感じになり、これだけを用意していたわけだ。
ところで、このいきさつを知っていても、「お祝いの品がマリオカートのハンドル」というのはなかなかいい。
気にいっている。
ほとぼり(なにかの)のさめた頃、「マリオカートのハンドルを送られた人は、そう。買った新車が自宅に送られてきたときのような感動が、少しでも味わえるのだろうか」というのを書こうかと思っていた。
だが「買った新車が自宅に送られてきたとき」というのを一言で表せる言葉がどうしても思い出せなかった。
それが気になって、なんとなく書かないでいた。
確か、あるはずなのだ、「買った新車が自宅に送られてきたとき」を表す日本語が。
「入庫日」とか、「新入日」みたいの。
何なんだったろうか。
「新車到着日」は長いし、なんとなく「そんな日、記念日みたいな名前つけないでいいやん」という感じだ。
勘違いなのか、誰かの造語なのか・・・。
…まぁいい。
僕的には、冒頭のほとぼりも、入庫日のほとぼりも、既にさめたのだった。
つづく

コメント

あるお祝いの席にて、その会の主役、祝われ者に対してプレゼントを渡すことになった。
急遽その事が決まった。
けっこう多くの人たちの面前で行わなければならない。
僕はたいてい、おもろいことを言おうと努力している人間だが、それゆえに余計なことを口にすることが多い。
一方、そのおもろいことを客観的に見てみると、何か考えてからしゃべるときは、必ずつまらないことを言っている気がする。
よって、
何も考えずにしゃべる→余計なことをいい、怒られ反省する。
考えてしゃべる→聞くほうもしゃべるほうもつまらない。
ということになる。
僕は少しの笑いを得るために、人より多くの何かを失う、パフォーマンスの悪い生物と言える。
もしかしたら酸素も人より多く消費しているかもしれないし、人より多く座席ゾーンを有しなくては座れないかもしれない。
人よりもかぜ薬量が多くなくては効かないかもしれないし、ルーだってより多く消費しなくては、おいしいと感じることができないかもしれない。
僕がこういう流れで何かおもろいことを口にしたあと、小一時間ほど自己嫌悪に悩まされるのには、こういう理由があるようだ。
そういえば、今もそんな心持ちだ。
つづく。