いい話。

最近「いい話」の番組が多い。
正直あまり見ていないのだが、こういう番組で気になるのは「いい話」が紹介されたあとの、スタジオの「間」である。
例えば「ヘビに飲み込まれた恋人を救うべく、自らも食われようとしたカエルについて」といういい話があったとする。
※もちろんこの例えは、その前に、いかにカエルがイイものであるか、ヘビがワルイものかを伝えていなくては、ただの自己満足話になってしまう。
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そして、そのカエルは飲み込まれていた恋人のなきがらから一時たりとも離れようとはしなかったのです。
わたしは、そのカエルたちが眠る裏庭に用事があったとき、いつも思うのです。
「なんかわからんが、ありがとう」と。
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ここでスタジオ等に戻るのだが、そのときの感じ。
出演者は「おー」とか「うーん」とか言うのである。
別にこれをどうこう、というわけではない。
ぼくだって、そうなるだろう。
でも、例えば「おもろい話」だったら、スタジオは大いにわいたり、つまらなかったらつまらなかったで誰かがフォローしたり、
どこそこがおもろいとかなったりするだろう。
しかし「いい話」だと、わくのも変だし、いい話とは思えなくても誰もそんなこと言えないし、どこそこがいいとかいうのも、ちょっと。
結局のところ、「いい話」とはだいたい「よくない出来事」がベースにあるのであって、そこから最後にひと救い!!、というものが多い。
そして、よくない出来事に対する個人的な感想、意見などはどうしても言いにくい。
こんな背景の結果、だいたいの人は「おー」とかになってしまうのだ。
そして、人間には「感動したとき表現」の能力が足らない。
例えば、喜怒哀楽にはそれぞれ、表面的にそれをアピールするためのよい方法を、我々は体得している。
うれしいときには笑ったりするし、怒っているときは校舎のガラスを割ったりする。
悲しいときには食べているラーメンの塩味が濃くなるだろうし、楽しいときにはキーキー言ったりする。
しかし、「感動」にはそのような表現方法がない。
先ほどの背景もあり、あんまり動的にアピールするのもどうか、という考えもあったのだろう。
「おー」に落ち着いてしまったのだ。
しかし、せっかく「いい話」を紹介する番組があり、実際にいい話が聞けるのだ。
「おー」などで間を埋めるのではなく、もっと積極的に「わたしは今、感動しています」を表現できないものだろうか。
つづく。

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