いいわけ。

【こんなふうに言い返してみたい!。猫背な男のつばめ返し集】
Q「ちょっと、あんたプライドあるの!?。」
A「そんなもんあるなら、とっくに自害しているよ!!。」
Q「ちょっと、チヒロとワタシ、どっちを取るのよ!?。」
A「おれ、国籍スイスなんだ。」
Q「キミ、レポートの提出が遅れているよ。」
A「今、やっと装丁の段階です。」
Q「この、期末テストの成績。どうしたんだね?。」
A「ちょっと、安全ピンのことで頭がいっぱいで・・・。」
Q「だから、それじゃ子供が調子に乗るだけだろう!!。」
A「調子に乗らせないで、どうすんだ!!。」
Q「なぁ、今日、ゲームやりに遊び行っていい?。」
A「おれ、国籍スイスなんだ。」
Q「あんた、そのメガネ似合わないよ。」
A「え、あ、そ、そう・・・?。」
Q「この、役立たずの、でくのぼうが!!。」
A「・・・♪悲しいことがあると 開く 皮の表紙・・・」
Q「ちゃんと聞いてるの!?。はぐらかさないでよ!!。」
A「あ、鈴虫だ。」
Q「そんなだから、あなたって優柔不断って言われるのよ!!。」
A「おい、ちょっと見てみろよ。食器棚の下、すごいほこりだぞ。」
Q「手を抜いただろう。」
A「外角いっぱいだ。」

おまえって、思ったより濃厚。

この世には、生きるスタンスとして「自分みたいなもんが」精神を持つ人が、少なからずいる。
むしろ多い。
そんな人は、月へ。
月の重力は地球より弱くて、大気というものを形成する力がほとんどない。
重力自体はあるので、大気とは呼べないにしろ、いくらかの分子は漂っているらしい。
でも、とにかく地球のそれよりはだいぶ希薄だ。
そこなら、周りよりだいぶ濃厚である自分の存在意義を見つけることができるかもしれない。
まずは「自分みたいなもんが、月へなんて・・・」を克服しよう。
諸問題は、それからだ。

ペルセウスの夜半

【あらすじ】
流れ星を一個、見た。
うーん。一個だけか。
近くのカエルたちもその存在に慣れて、鳴きまくってしまうくらいの間、寝転がっていて、一個。
ちょっとざんねんだ。
しかし、驚くべき事実が、帰り道でかぶと虫を拾った僕に突きつけられた。
なんと、ペルセウス座流星群は、8月11日の夜から15日にかけて、なんかこう、だったのだ。
ということで、今度は14日の2時に、田んぼで寝転んでみた。
こんな時間に田んぼに寝転んでいるのは死体しかない。
そして、僕は死体じゃない。
万事、問題ない。
夜に2時ともなると、さすがに静かだ。
ふと、おととい考えた「無軌道な若者」のことが思い出された。
疑問に思った。
「若者」はどうすると「無軌道な若者」になってしまうのだろうか。
要因のひとつは「集団化」だろう。
だいたい「無軌道な若者」という言葉は「無軌道な若者たち」と使われることからも、「無軌道化」はみんなで集まったときにおこりやすいものらしい。
だが、例えば図書館で若者が集まっても、別に何かおこるというものでもない。
「無軌道化」のきっかけは他にもあるはずだ。
時間か?。
「図書館に集まっていた若者たちが、18時を過ぎたあたりから無軌道化の兆候を示し始めた。」
聞いたことがない。
天気か?。
「雨が止んだので、無軌道な若者たちが出てくるだろう。」
水溜りに飛び込んで周囲に迷惑を与える者などはいそうだが、これもきっかけではないだろう。
僕が思うに、「投擲」と「標的」が「無軌道化」の要因のひとつではないかと考える。
例えば「まくら」。
まくらはそのやわらかさのために、相手に投げつけたりしても危険がないと考えられている。
そのおかげで、俗に「まくら投げ」と呼ばれる、一種の「無軌道な若者がたしなむ遊び」に一役買ってしまっている。
同級生を「標的」とし、まくらを「投擲」する。
そして「無軌道な若者たちによるまくら投げで、ミンシュク小破。○○高校大ヒンシュク!!」とかなる。
例えば「ロケット花火」。
みんなで楽しくやっていた花火大会も、ロケット花火と適当な標的がそろってしまうと、それは無軌道化のはじまり。
空き缶を「標的」とし、ロケットを「投擲(発射)」する。
そして「無軌道な若者たちがロケット花火で横田基地を攻撃。射程範囲外だったため損害は皆無」とかなる。
どうやら、若者にあるタイミングで「投擲できる手ごろなもの」と「標的」が与えられると「無軌道化」してしまうらしい。
残念なことに、この世界では「投擲できる手ごろなもの」と「標的」はやたらと存在しているので、若者の「無軌道化」を予防することは難しいかもしれない。
だめな世界である。
2時の夜空は、その深度を増す。
「無軌道な若者たちって、ほんと、ブログ的にも便利な言葉だよ・・・。」
この言葉を言い終えても、夜空に流れ星がきらめくことはなかった。
2時というのは流れ星にとっても、少し遅い時間だったようだ。

草のざわめき、火薬のにおいの銀河ステーション。

8月11日の夜から15日にかけて、ペルセウス座流星群が、なんかこう、だった。
こういうのは基本的に大好物なので、12日の22時ごろ、僕は田んぼの真ん中に立っていた。
そして、見上げていたら首が疲れたので寝転がった。
こういう「理由」みたいなものがないと、夜に田んぼで寝転んだりできないもんね。
流れ星は見えない。
近くの広場では、若者たちが花火で盛り上がっている。
「無軌道な若者」という言葉は様々なメディアで取り上げられており、その使い勝手の良さは他の追随を許さない。
当ブログでもちらちら見え隠れする。
「無軌道な若者たちが大暴れ」
ほら、もうニュースがひとつ、できちゃった。
「無軌道な若者たちが秋葉原歩行者天国を踏破」
ほら、歩いただけなのに、何か意味持っちゃった。
「無軌道な若者たちによる、よさこい祭り」
ほら、善悪つかなくなっちゃった。
便利な言葉だ。
ただ、広場で花火をやっている彼らのことを「無軌道、云々」というのはちょっとへんだ。
例えば、僕が誰かに彼らのことを報告しようとする。
「広場で無軌道な若者たちが、花火をやっているんですよ。」
このように人に報告するだけで、花火をやってるだけなのに、なんとなく彼らの印象の悪くさせることができるのだ。
だが、人は次にこう尋ねる。
「あなたは何をやっているんですか。」
すると、僕はこういわざるを得ない。
「田んぼで寝転がっています。」
何かの大逆転だ。
花火をしていた善良な若者たちは、自らも知らぬうちに大逆転を収めたのである。
「無軌道な若者たちって、ほんと、便利な言葉だよ・・・。」
この言葉を言い終えぬうちに、一筋の線が、音もなく夜空に描かれる。
彼は、最後の軌道を、無事に乗り終えたのだ。

自動研磨装置

どこぞのフライパンは、そのコーティングされた何とかというものが、10万回フライパンをこすってもはがれないことをうたい文句にしている。
このフレコミは、フライパンを10万回こするという、一見不毛な作業の賜物である。
このような作業において、僕らは普通「機械にやらせる」と考える。
例えば人間にやらせたらどうなるか。
某A社(フライパン命)の研磨班。
「おい、21型フリップの研磨、依頼来てるぞ。」
「話しかけんなよ!!、何回研磨したか、忘れちゃったじゃないか!!。」
このようになってしまうのは明白である。
したがって、僕らが「研磨は機械にやらせる」と考えるのは妥当だし、おそらくそうやっているだろう。
「自動研磨装置」とでも言うべきか。
どういうものかは分からない。
何かがくるくる回って、そこに取り付けられたフライパン返しが定期的にフライパンにコンコン当たるのだろうか。
大工道具のカンナのような動きをする部分に金たわしを装着するのだろうか。
たぶん両方の機能を備えているだろう。
これほど「消費」という概念を具現化した装置があるだろうか。
やたら人間臭い。
ところで、この「10万回」という数字は、何が基準となっているのだろうか。
何も手がかりがないため憶測となってしまうが、
・平均10万1回目で、フライパンの例のヤツがはがれてしまう
・構造的な理由で、どうしても「自動研磨装置」が10万回を越えたあたりでパワーダウンしてしまう
・10万回くらいで、フライパン返しが壊れてしまう
・そのフライパンを10万回研磨したら、金たわしがなくなってしまう
・10万回研磨したあたりで、何故か検査員に用事が入ってしまう
・自動研磨装置を10万回使用すると、その消費電力はちょうど全国の電力会社が供給できる電力に等しくなる
・自動研磨装置による10万回の研磨を行う時間と、検査員の寿命がだいたい同じ
・10万回研磨を待たずして、確実にフライパンの取っ手部分がぶらぶらしてきてしまう
・何故か検査員が10万以上を数えられない
・10万でカウンタストップがかかる
・社長のラッキーナンバーが100000
・統計的に「普通に使って、フライパンを計10万回も研磨する料理はない」ことが実証されている
といったところか。
役者(フライパン、自動研磨装置、フライパン返し、金たわし、電力など)のどれかのリミットが10万回なのだろう。
また、もうひとつ10万回という数字に対して考慮しなくてはならないことは、憶測の最後に挙げたものにもかかわってくるが、「結局どのくらい使えるの?。」というものである。
考えるに、フライパンに一番ダメージを与える料理方法は中華料理ではないか。
すごくあぶるし、おたまなどでがんがんやる。
カニの甲羅なんかはかなりダメージも多そうだ。
メーカーとしては「一番荒ぶる料理法」中華料理を検査項目に入れないのはマズいと思われ、それが基準ではないかと考える。
したがって、10万回というのを「どのくらい使える?」に換算する場合、「一日何回中華料理を作るか」と「平均的な中華料理の、フライパン研磨回数」が分かればいいのではないか。
一日の食事のうち、中華を一品食べたい。中華料理を一品作る時の研磨回数を30回(今、動きでやってみた)とすると、9年間とちょい、いける。
なかなか有能ではないだろうか。
もちろん、中華率が減るのであれば、その分活用できる期間が増えることになる。
しかし、上記のような考え方だと、当然「自動研磨装置」にはカニの甲羅を装着する部分が必要と考えられる。
全くのところ、「自動研磨装置」は興味深い。

シエスタリック・ブリス

どちらかというと局所的な話題で申し訳ないですが、格ゲーに「ヴァンパイア」と呼ばれるものがあります。
その登場人物の中に、まま「ヴァンパイア」が職業の人がいまして、コイツが「ミッドナイトブリス」なる必殺技を使います。
「ミッドナイトブリス」は戦っている相手を女性に無理やり変身させてから、血を吸う、という技。
いつからか、ヴァンパイアは処女の生き血が好き、みたいなことになっておりまして、そんな背景があるからヴァンパイアの彼も相手を女性に変身させるのでしょう。
性の転換。
今では手術などでかなり異性に近づくことができるやも知れませんが、それでも生殖や妊娠などの機能に関しては未だ実現されておりません。
性転換はまだ不可侵の領域なのです。
ところで、人間にとって不可侵の領域と言えば「不老不死」も忘れてはならないでしょう。
この不老不死。
話題はいつだって事欠きませんが、それでも我々が期待するような不老不死は、まだまだ無理っぽいです。
僕は不思議に思っています。
時の権力者が実現を望む「人間における不可侵の領域」が全て「不老不死」であるのはおかしい、と。
「どこぞのだれかは、不老不死の研究をさせていた」
「どこぞのだれかは、不老不死の薬を探させていた」
みたいな話があります。
一番えらくなりました。
なんか、ごっつみんな頭下げます。
おいしいものが食べれます。
ら抜き言葉を使っても怒られません。
こういう人は歴史上に何人もいると思います。
その多くはおいしいものをずっと食べていたいので「不老不死」を望んだりするのでしょう。
ですが、一人くらいは「異性になる薬を探していた」みたいな人がいてもいいのではないでしょうか。
そんなことを考えたとき、僕は気付きました。
「ははーん。こいつら、お手軽に性転換を楽しんでいたな」と。
みんな、えらくなって栄華を極めだすと、「飽きたな、人間界」という感じになります。
そこで、手が伸びる。
「不老不死」と「性転換」です。
そこで勘の鋭い従者などが、こっそりベッドに「スカート」や「つけひげ」を用意するのです。
目の前に、自由に扱えるスカートがある男性が、つけひげがある女性が、それを身につけないはずがありません。
見られたときの心配、というのもありません。
権力者だから、見られたりしてもその後、すぐに「これからの兵装はスカートがベース」みたいな法を作れるのです。
これらのアクセサリをつけた権力者は、そこそこの「性転換」に満足し、「じゃあ、不老不死に力を注ぐか」となるのです。
したがって、文献などには「不老不死を望む」ということしか書かれないのです。
もしかしたら近い将来、「始皇帝、スカートとカチューシャを着用、鏡の前で2回転をすることにより、納得する」みたいな文献が出るのではないかと期待しています。
ただ、冒頭にも書いたように、本当に性の転換を望むなら、諸問題により大変です。
スカートとカチューシャでは、まだコスプレの域を出ていないのです。
ということは逆に言うと、人間界に飽きた人でも、コスプレをすれば50%くらいはテンションが持ち直せる、ということでもあります。
問題は、コスプレすることによってどれほどテンションが左右されるか、という点でしょう。

幻をとめて

アマゾンの河口か何かには「ピンク色のイルカ」というものがいるらしいが、それを現地の人はたいそう恐れているそうだ。
なぜかというと、アマゾン伝説として「ピンクのイルカは人間に化けて、人間を誘い、腑抜けにしてしまう」とされているらしいからだ。
どれほど話としてあることなのかは知らないけど、今日は「ピンクのゾウ」について。
ディズニー映画「ダンボ」では、耳のでかい小象ダンボがお酒に酔うという、おやおやなシーンがある。
そのとき、ダンボは幻覚を見るという、おやおやな流れになるのですが、その幻覚が「ピンクのゾウの大行進」なのだ。
大行進と言っても、ただ歩くだけではない。
それはもう、周りを押しのけ押しのけ。積極的なピンクのゾウたちがなんとも言えない動きで画面上をくまなく埋め尽くす、乱れる、乱立する、点滅する、そして存在する。
小さな子供が見たら、おそらく夜泣きする。
もしくは夜泣きした直後、泣き止む。
ポケモンの光で気分の悪くなる症状が出た事件があったが、このピンクのゾウの映像は、物理面+メンタル面において、その比ではないと思う。
5年くらい前まで、僕と姉の間で「ピンクのゾウ」を指でまねるのが流行っていた。
もう、映画の音楽なんて覚えてないし、詳細な動きも覚えていない。
しかし、そのサイケっぷりだけが脳裏にこびりつき、指を動かすのだ。
いいのだろうか、子供向け映画でサイケ。
さすが何かの先進国である。
そんなこんなで5年がたった。
ピンクのゾウのものまねはどうしたか。
まだやっているのである。

やれやれ感

10分くらい前から、「やれやれ感」について考えた。
例えば、使用済みティッシュをゴミ箱へ投げ、うまく入らなかったとする。
すると、そのティッシュは床に落ち、突然「やれやれ感」を放出しだす。
「やれやれ、私をゴミ箱に入れることもできないのかい。」
「やれやれ、早く入れてくれないかねぇ。」
ゴミ箱のそばに落ちたそのティッシュは、無用どころか、かなりいやらしい存在として、あたかも忽然と姿を現したかのようにあなたにせまる。
そして、しょうがなくそのティッシュを拾い上げ、面倒くさそうにゴミ箱に入れたとき、そんなあなたの姿も「やれやれ感」を出してしまっているのだ。
やれやれの感染。
これは気をつけないと、すぐに出るよ、人間。
やれやれ感。
しかし、残念なことに、既にほとんどの人が「やれやれ感」に感染しているだろう。
まぁ、それは命にかかわることとかではないので気にしなくていいかもしれない。
だが、やはりそこはダブル浅野。
かっこよく生きていたいと思うのが人間である。
「やれやれ感」に蝕まれていたとしても、前髪をかきあげ、裸にジャケットを着、言葉に「ラ・」を付けたがる。
鏡の前で腕組みをし、カクテルをカウンタ上で滑らせ、シュプールで「I love you」と書きたがる。
でも、でちゃう。
座っていて立ち上がるとき、片ひざに手をやってしまう。
誰にも見られていないと思ったとき、何かすごい顔になってしまう。
足の爪を切ろうとして、バランスを崩し、ころころしてしまう。
でちゃった瞬間だ。
でも、しょうがない。
誰だって蝕まれているんだもの。
見て。
有名な絵画「落穂拾い」だって、だいぶ「やれやれ感」が出ちゃっていることだし。
ころころしても、気にすんな。

予想外

映画「アウトブレイク」は未知のウイルスか何かと、人間か何かとの戦いを描いたものである。
うわさによると、人間は免疫系というウイルスや病原菌、エンガチョへの対抗手段を持っているらしい。
ところが、それが対抗手段として最大に効力を発揮できるのは「いままで会った事のある」相手の場合である。
相手が「未知のウイルス」となると、免疫兄弟がそいつのことを知らないため、うまくウイルスをあしらえないことがある。
われわれの体は未知のもの、言い換えれば「予想外のもの」に弱いのである。
そしてこれは、別にウイルスとか病原菌とかエンガチョに限った話ではない。
TVや本、話題に触れるとき、ハナから「こいつの送信するもの全てを受信して、あらゆる解釈をして、感心したり笑ったりしよう」という人は、まずいない。
どんな人でもいくらかは「流れ」を予測して、これらのものに触れているはずである。
いうなれば「情報免疫」。
たとえばニュース番組のスポーツコーナーで以下のような感じで番組進行が行われたとしよう。
「本日の巨人対阪神、9回表に逆転に成功した巨人、9回裏には守護神宇田川を投入。」
ここで、だいたいの人は思うだろう。
「きっちり3人でシメた」と来るのか、それとも「ところがその宇田川の5球目」と来るのか。
ここで「情報免疫」を持たない人が「ところがその宇田川?」の方に触れてしまうと、どうなるか。
「えぇーーー!!、と、ところが?!?。もう、俺のキャパシティーを超えてるよ!!。」と言うに違いない。
「情報免疫」とは、考えうるベーシックな方「きっちり3人でシメる」と、想定しうる予想外の方「ところがその宇田川?」を前もって予想しておくことにより、予想キャパシティーを超えないようにする機能である。
ここまでくれば、話は簡単。
僕らは「情報免疫」を打ち破るものを、求めている。
例えば上記の例を考えてみる。
「9回表に逆転に成功した巨人、9回裏には守護神宇田川を投入。」であるが、そのあと、
「9回裏には守護神宇田川を投入、取れない汚れにヨゴレトレール、その5球目」となったらどうなるか。
これは、予想外。
視聴者は「そこにCM持ってきたか?」となり、感涙にむせぶこととなる。
「9回裏には守護神宇田川を投入、その5球目が右手から放たれた瞬間、ボールはうなりをあげてゴールキーパー野本に向かっていった」となったらどうなるか。
これは、かなりひねくれた人なら免疫を持っているかもしれないが、多くの一般人にはバナナシュートであり、防げない。
また、
・「野本」って誰?
・「キーパー野本に向かっていった」なのか、「キーパーの元に向かっていった」なのか、どっちなの?
といった点でも、多くの人の免疫系を切り抜けられることだろう。
「9回裏には守護神宇田川を投入、もうそろそろこの生体を脱出できるくらいのエネルギーを得ることができたな、その5球目」となったらどうなるか。
な、なにそのニュースじゃ味わえない急激な展開!!。
さ、サイコーじゃない・・・。
僕も、こういった予想外は大歓迎。
近頃で、かなりやられたのは映画「博士の異常な愛情」のラストあたりの一言。

絶対強度

「今度、絶対に、鏡の中の自分と、違うことやってみせるから!!。」
寸分たがわぬ同じっぷりでした・・・。
このとき、セリフ中の「絶対」は、僕たちの知っている「絶対」ではなくなってしまいました。
言葉「絶対」の強度は、その人の言葉を発する力(舌の筋力とあごの強度、声帯のふるえ具合とか)との和にほぼ等しいのです。
例の場合、「鏡の中の自分と違うことをする力」は、彼の舌の筋力とあごの強度、声帯のふるえ具合の和を上回ってしまったのです。
オペラ歌手などは、鏡の中の自分とは違う動きができるかも。