珈琲十連・同種療法

「レモン10個分のビタミンC」。
このフレーズが示唆する「やり方」にアンテナの立たないやつはいない。
差が出るのはそのあとだ。
立ったあと、そんな安易なことができるかとスルーするやつ。
この発想は新しいよ?と、ぴょんぴょん跳ねるやつ。
当方、今宵跳ねます。
「レモン10個分のビタミンC」。
こうきたら普通、ビタミンC含有量に触れる際にレモンを指標とするのは正しいのかという疑問が生じる。
賢い消費者達は、見た目の数字だけでだまされないように気をつけている、らしいからだ。
一方、そういった考え方がないと、例えばこうなる。
「プリウス2000台分のビタミンC」。
すごそうだ。
でも、何か違うのではないか。
指標がブレていることに気づかない私たちは、ずっともやもや。
ただ、プリウスにもいくらかのビタミンCが含まれていたことには驚かされるだろうが。
「成人男性10人分のビタミンC」。
これもすごそうだ。
しかも、何か血なまぐさい。
指標が血なまぐさいことに気づいた私たちは、ずっともやもや。
これをうたっている商品は、一体何を目指しているのだろうと眠れない日々が続くだろうが。
「レモン500個分の犬養毅」。
これもすごそうだ。
しかも、何か違和感を覚える。
犬飼毅を目指したことは分かるが、レモン500個程度では、犬養毅はほとんど体を成していないのではないか。
そう多くは、レモンに犬養毅は含まれていないだろう。
そして何よりも、レモンに犬養毅は含まれちゃいけないだろうという気もする。
喜ばしいことに、私たちがレモンスカッシュを飲んでいるとき、唐突に犬養毅のことを思い出したりすることはほとんどないため、それはプラシーボにすらならない。
そしてもちろん、今回も例えが最悪でごめんなさい。
知人が、ときどきコーヒーのにおいを振りまきながらやってきたことがある。
尋ねると、どこそこの喫茶店に言ってきたとのこと。
確かに香りの良くする喫茶店にずっといると、少しの間は、その香りが服からする。
そのときは、いつもより少ない人数分でコーヒー一杯くらい作れるんじゃないか。
そう思ったことは、まあないですな。

珈琲十連・4の奇数

コーヒーの話題は「MAXコーヒーの甘さ」についてである、と言っても過言ではない。
そのくらいMAXコーヒーの甘さは多くの人に指摘され、しかしMAXコーヒーはその存在価値が揺らぐことはなく、指摘したもの達もそれを咎めない。
いい関係が続いている。
MAXコーヒーは甘い。
「MAXの名のためには、多少の無理はしなくちゃ」
一理ある。
しかし、誰も望まぬMAXならMAXでなくてもよいし、そもそもそのMAXは甘さのことなのかどうかも知らぬ。
関係ないけど、なんとなくナナ、ミーナ、レイナ、リナはMAXコーヒー飲みづらいだろうね。
先日は甘いことはいいことだ的な感じだったが、甘いにもほどがあるのだ。
ところが、である。
MAXコーヒーの甘さばかりが指摘される「コーヒー甘っ」の世界だが、なんだかんだ言って缶コーヒーは全体的にだいぶ甘い。
つめたいあたたかいとかはどうでもいい。
そんなん抜きにして甘いでしょう?。
「微糖」とされる缶コーヒーを飲んだ瞬間の驚きは、多くの人が体験しているはずだ。
味噌汁だと思って飲んだのがぜんざいだった。
コーラだと思って飲んだのがメッコールだった。
お茶だと思って飲んだのが尿だった。
蛇だと思っていたのが何かのゴムチューブだった。
広川一郎太だと思っていたのが広川太一郎だった。
自分のためだと思っていたのが「情けは人のためならず」だった。
こんなところに尿を置くなと言いたいところだが、とにかく誰しもその瞬間「甘っ」となっているだろう。
ただ、この手のコーヒーは、疲れているときはやたらおいしい。
以前、僕の入れるコーヒーはクリープ山盛り、角砂糖4つ入りの、1ヶ月間くらいは腐らないんじゃないかと思われるようなやつだったが、これはこれでおいしいのだ。
問題は「甘い」やつと「非常に甘い」やつと「微糖」の区別である。
それが分かれば、心構えもできるというもの。
ローカルなニュアンスも含まれるものであろうため、そうやすやすと区切れるものではないが、微糖と思っていて、食事中に「甘っ」と吹きだしてしまう。
そんなギャップはなくしたいところ。

珈琲十連・抹茶の味

いきなりコーヒーの話でなくて恐縮だが、スタバの抹茶クリームフラペチーノはたいへんなおいしさだ。
抹茶風味というものが少し苦手で敬遠していたけど、妙に鮮やかな緑のそれは、死んだらおどろいた。
ごめん間違い。
飲んだらおどろいた。
???中略 おいしさの詳細???
おいしいのだった。
ところで、クリームや砂糖の入っていない抹茶は当然のように苦いが、それはコーヒーにも言える事。
苦いことが第一志望な人たちだ。
そういったものに添加を施すことで、これほどおいしくなるとは。
そう考えると、方向性は違うのだろうけど、やはり甘いものこそおいしいのではないか。
そして苦いものはおいしさよりも、どちらかというと「こんな苦いものを口に入れるなんて、俺も大したヤツだろ?」というアピールが目的なのではと思えてしまう。
※おいしいものを食べる人は「おいしいものを食べるなんて、すごいだろ、俺?」ということにはならず、単においしいものを食べる人であり、せいぜい食いっぷりが評価されるにとどまるであろう。
「どうだい。こんなものも、ぐいぐいいけちゃうぜ?」
こんな感じ。
しかし次、こうきた。
「え、それがどれほどの苦さか分からないって?」
となると、こうなる。
「何言ってんだい。これはちゃんとした手法に則って点てられたものだぜ」
ということで、抹茶やコーヒーに作法があるのは、そのアピールが不正でないことの証の役割を果たしているからかもしれない。
以上より、おいしいものを食べる人に比べて、苦いものを優先している人は、何かしらの他意が存在していることになり、その点めんどくさい。
だから近くには、どっちかと言うとおいしいものを欲する人がいてほしいものだし、苦いものを欲する人は、どっちかと言うとひとりが似合う気がする。

珈琲十連・挽立ん香

コーヒー豆を店で挽いてもらうと、それを変な遮光っぽい袋に詰めてくれる。
その袋にはガス抜き何か、理由があるのだろうか。
小さな穴が2つばかり開けられている。
僕はその袋を見つけると、やらずにはいられないことがある。
その穴に鼻を近づけ、両手で袋を持ち、それぞれの人差し指で軽く袋をとんとんするのだ。
すると穴から、やたら甘いコーヒーの香りが漏れ出してくる。
コーヒーの種類とかは全然分からないのだが、とにかくこれがいいにおいだ。
普通の時と、煎っての時のコーヒー臭は段違い。
さながらマジックである(内部注:このくだり、やや無理やりの様相)。
煎ってからが本番。
そこからだいぶ「こいつやるな」感を出すコーヒーだが、それを挽いたものが詰め込まれている袋からのにおいは、また別のよさがある。
考えてみると、その良さは自作業「とんとん」にあるということに気づいた。
この作業で「自分の働きもあって、この香りがある」みたいな気持ちになるのだ。
また、このとんとん作業をしていると、周りからの見た目より
「この人、挽いた豆を人差し指の感触で楽しんでる!!」
「挽いた豆の音を楽しんでる!!」
という、誤ったしかし気分は悪くない玄人心象を人に与えることが出来る。
出来てどうこうはないですけど。
話は逸れたが、そんな袋詰め状態でも、挽いたコーヒーは少し楽しい。
暇なときにでも「袋を持ってとんとん」を試してもらいたい。
なんたって、その袋には小さな穴が2つばかり開いているのである。

リリカルデント

虫歯を一掃してから半年は経つが、やっぱり食べることに躊躇しないでいいっていうのは素敵。
などと言いつつも、すでにどこかが痛いような気もして、なんだかもやもやする日々になっています。
舌で触ってみて、なんとなく分かるのです。
穴の開いている箇所が。
そこは半年前の通院では「大丈夫でしょ」扱いだったのですが、実は歯医者に行くきっかけとなったのが、ここ。
こいつが素晴らしく痛み出したがために、誰もがいやがることベスト3に入る「歯医者への通院」を決めたのです。
誰もがいやがることベスト3
1位 井の頭公園で「僕という名の船で出航しよう!!」と、知らない男に言い付きまとわれる
1位 小学校のときに書いた母親への感謝の手紙が、母親によって朗読される
1位 徳光さんが泣いている
1位 歯医者への通院
1位 親類のヌード写真を担当する
1位 店員がかつおぶしだよと言って、鉛筆の削りカスをすすめてくる
1位 「出航しよう、さあ早く!!」  まだ言われている
(同率一位)
ところがこいつは治療されていません。
いつ事を起こすのか、気になるわけです。
まあ、既に歯医者に行く経験は最近のもので更新、済んでいるわけだし、もし痛み出しても、勇気は出てくると思うんですが。

モスバーガーについて

今週のいつぞややっていた番組で、「モスバーガーのソースをどうするか、社長さんが教えます」みたいなことがやっていた。
モスバーガーのソースは、そのおいしさもさることながら、やたら包装紙内にこぼれ、飲み会で動けなくなるほどに飲んでしまった同級生並みに残されてしまうものであることが知られているのである。
正直そのとき、しまったと思った。
近々そのことを書こうと思っていたのだ。
やっときゃよかった・・・。
でもその番組をちらりと見たのだが、僕の書こうとしていたこととは別の方法を社長さんはやっていた。
なんか、包装紙ごと、食んでいた。
そのあと何か別の方法をしたのかは分からないが、このとき僕は「社長さん、そらないでしょう!?」と言いたくなった。
僕はモスバーガー(正確にはモスチーズバーガー)を買うとき、必ずポテトも注文する。
そして、包装紙に残ったソースをポテトにつけながら食べている。
こうするとあまり汚れないし、ポテトもおいしい。
実際にそうしている人も多いだろう。
僕はてっきりそれを社長さんがしてくれると思ったのである。
でも、食んでいた。
もぐもぐ。
もちろん放送で、僕の見たあとに「実はポテトを利用した方法もありましてね・・・」だったらいいのだ。
でも、それでも僕は包装紙を食む社長さんしか得ていない。
包装紙を食む社長。
会社を愛していることは間違いないのだが。

目と口、ともに ?

ぬっぺらぼうの怖さを考えたものは多い。
髪の毛の有無を指摘した人物もいるが、大体の意見はまとまっているのではないだろうか。
「何をしてくるのかわからないから、怖い」
これである。
これは怖い。
目は主に、何かの情報を得るための使用されている。
口は主に、何かの情報を誰かに伝えるために使用されている。
そう。
彼らは目がないから、
目がない

どこから情報を得ているのか分からない
また、どう情報を得ているのかがわからないから、どう思っているのかも分からない
口がない

どのように相手にものを伝えるのかがわからない
よって、何をしてくるのかが分からない
だから怖い。
また、「目は口ほどに・・・」などというから、それが他の機能も果たすこともありそうだが、それも今の解析からそれほど遠ざかるものではない。
とにかく入出力の経緯が分からないから怖いのである。
ぬっぺらぼうと遭遇した人は、まず普通の人に会ったときにするであろうことをするだろう。
目を見る。
ありゃこいつ。
目、目がねぇ!!。
口は!?。
あー、口もねぇ。
まあ鼻はいいか。
ということで、こ、こいつ。
何考えて、これから何しでかすか、全然分からねぇ!!。
こういう経緯を経て、怖いにたどり着く。
とここでもう一度考えてみると、そもそもぬっぺらぼうというものは何も考えないから、そして何もしないから目や口がないのだ、とも言え、その風貌の奇妙さに対して何気に無害な、なんだかそこにいるだけのもの、という風にも捉えられそうだが、先日のタクティクスを鑑みると、そうとも取れない。
なおさらわけが分からず、怖さは増すばかりだ。
よって、なんだかんだ言ってやはり会いたくない存在であることは間違いなさそうである。
まあ、人によっては「何を食べているかが分からない怖い」「眼鏡をかけていたらシュールで怖い」とかいう意見もありそうだが、そういう意見は大事にしていきたいところだし、本人たちにもどうにかしてインプットしたいところ。

目と口、ともに ?

「ぬっぺらぼう」にいわゆるということもないが、いわゆる「ぬっぺらぼう」についてのおおよその話の流れとして、以下のようなものがよく知られている。
=====
その夜、私が早足で家へ帰ろうとしていると、電柱に向かってかがみこみ、すすり泣いている女の子がいました。
気になったので声をかけてみると、けなげにも女の子は「どうもしないんです。気づかっていただいてごめんなさい」と言いました。
泣いていることが気になるし、曖昧な好意も持ってしまった私は、やさしく泣いている理由を問いました。
すると彼女は、こういいながらゆっくりとこちらを振り向いたのです。
「さっき、こんな顔の人を見ちゃって」
その顔は小さな毛穴ばかりで埋められた、目も鼻も、口もない、無貌そのものだったのです。
幸運にも気を失わずに済んだ私は、しかし何か大声を出しながら、その場から逃げ出しました。
一刻も早く、それから遠ざかりたかったのだと思います。
どれほど走ったでしょうか。
赤いライトが点滅する、深夜の工事現場まで私は走ってきていました。
ライトを振る作業員の背中が見えます。
息も絶え絶えの私は、助けを求めるかのように彼の肩に触れ、さっきの出来事を吐き出しました。
「すいません、今、へんなもの見ちゃって。休ませてくれませんか?」
するとその作業員は、やさしくこう言いながら、こちらを振り向いたのです。
「そりゃ大変でしたね。で、そのへんなものって、こんな顔した人のことじゃないですか」
私はついに気を失ってしまい、介抱してくれた人の家で起きたのは、それから3時間もあとのことでした。
それからというもの、私は背を向けている人に声をかけるのが恐ろしくなってしまったのです。
=====
ながっ。
でもこんな感じ。
2段構造なのである。
ところで、僕はぬっぺらぼうに知り合いがいないので、ここから憶測になるのだが、ぬっぺらぼう側から見て、この2段構造はどういった意味を持つのだろうか。
?一度安心させておいてから再度同じ目にあわせることで、その恐ろしさから抜け出せないというさらなる恐ろしさを生み出させる目的。恐ろしさを劇的に倍増させること。
辞書にぬっぺらぼうの話を掲載するとしたら、その内容は上記のようなものになるのではないか。
多くの人がそう思っているだろうし、僕もそのひとりだ。
だが一方、こういった視点もあるだろう。
?一度安心させておいてから再度同じ目にあわせることで、その恐ろしさから抜け出せないというさらなる恐ろしさを生み出させる目的、を演出したことへの賛美。正当な評価を受けること。
このような2段構造は多くの怖い話、そして面白い話で見られるものである。
その演出を複数のスタッフを使用して実現したその労力、実績を認めてもらいたいのでは、とは考えられないだろうか。
僕は基本的に怖いものが苦手なので、できないだろう。
しかしもしこういった場面に遭遇できて、少なからず今回の話を思い出すことができたなら。
2回目のシーンで、僕はこうやってみたい。
=====
するとその作業員は、やさしくこう言いながら、こちらを振り向いたのです。
「そりゃ大変でしたね。で、そのへんなものって、こんな顔した人のことじゃないですか」
「うまいッ!!。うまこわいッ!!」
そういって私は彼の顔を叩きました。
「この流れはうまいよ!!。さっきのひとんとこからここまでの距離。そしてここのスタッフの適度な数。すごいよ。これは後世に残る名演出だよ!!」
=====
もしぬっぺらぼうたちの考えが?だとしたら、これは泣けるほどうれしいことだろう。
そして、それによって僕は彼らの目、うまくいけば鼻も、どこにあるのかを知ることが出来るかもしれない。
もちろん目鼻自体がないから、涙も流せないかもしれないけど。
なんせ、僕はぬっぺらぼうに知り合いがいないので。

過剰にとろける思い

CMはときとして過剰な演出をし、目を引かせる。
「店舗に殺到するお客さん」「対向車のいない道を、だいぶなスピードで走行する車」などはよく見られる演出だが、新しい気持ちでそれを見ると、なかなか楽しいもの。
一方、方向性の違う過剰な演出もある。
「あの娘はピザのチーズが伸びるだけで、あんなにも喜んでくれるのか」
あるCMを見ていて、なんとなく思った。
人を喜ばせたいと思うことは、誰しも心に秘めているもの。
それがあの娘については、ピザのチーズを伸ばすことでかなえることができるなんて。
これでもう、彼女のハートは射止めたも同然。
青少年達はそう勘違いしてしまうだろう。
そして延長、女の子はチーズが伸びることが大好きだと思い込んでしまうのだ。
このケースの登場人物で、悪いヤツは一人もいないわけだが、勘違いをさせてしまうことが、問題点ではある。
しかしこの勘違い。
「チーズの伸びることがうれしい」人自体はかなり多く、それだけだとCMの出来事も間違ったことを言っていないわけで。
あくまで「喜びすぎ」が問題なのではあるが、それも人の程度によるものなので。
チーズが伸びる映像で失神してしまう女の子がいたって、おかしくはない。
でもそれは、チーズに対する思いが過剰というよりも、その子が過剰なのだろう。
とにかく、「チーズの伸びることへの喜び」が持つ勘違いに気づかせることは難しいのかもしれないし、訂正しにくい勘違いというのは、もはや勘違いじゃないとも言えるのである。

知覚過敏

先日少々「鼻」について書いたので、それで思い出したことを。
以前、僕の鼻をなにやら大きいと指摘したその人は、それに関することとして、こんなことを言っていた。
「東北出身ですか?」
東北出身だと鼻が大きいのだろうか。
僕は知らない。
寒げな地方だが、外部に突出している器官がでかくていいのだろうか。
冷えてもげるんじゃないか。
僕は知らない。
東北地方で、むかし大規模な鼻インプラント現象でも起きたのだろうか。
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n氏「ところで、世間では「鼻が大きい」っていうと、どうにも連想されることがありましてねェ」
-「ちょっと、下ネタやめてよね」
n氏「もちろん。ズボンのジッパーの奥に潜むやつの話なんて、したかないよ」
-「ちょっと、まだ下ネタなんだけど」
n氏「いやだから、とにかくたまたまだってことが言いたかったんだ」
-「むしろダイレクトになったんだけど」
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たまにはこういうのもいいんじゃないかと。
楽だし、たくさん挙げられるしね。