哀愁の鮮度

先々日、哀愁という言葉を使っていて気づくことがあった。
ということで、何かを失ったことに対する哀愁は、僕らが思っている以上に哀愁を感じなくてはいけないものなんである。
結論を先に書いてみた。
これで「んだんだ」となってくれれば、僕も結論を先に書いた意味があったというものだ。
ちなみにこちら、流れ。
①いつか書いたかもしれないけど、確か人類というのは地球に誕生した生物の平均的な「種の寿命」をけっこう超して、現在に至っているという説がある。
②種の寿命を超している現在の人は、いうなれば人類下降線上にいると言える。
③ものが失われたことに対する哀愁というのは、一般的に後世では認識されないものである。
例えば洗濯板。その存在となくなった時期はわかっているが、「なくなったがそれを懐かしくいとおしむ時期」というのはなく、認識されないはずである。
まだ今はあったとしても、さらに時間が経てば、それは「あったこととなくなったこと」のみの認識となる。
④人類下降線上にいるものが後世に伝わらない悲しみを持つ。これが「何かを失ったことに対する哀愁」であり、その実態はほぼないに等しい。
⑤結論にいたる。
いたっちゃったよ。

寝かせ時

「それは今寝かせ時でしょう」と言われるものがある。
「へぇボタン」
ちょっとこういうのは苦手だが、がんばって例を出してみた。
「へぇ」と発するボタン。
それは一時期、堤防のフナムシ並みに大量に見かけられた商品だ。
しかし今、それを自慢げに取り出しボタンを押して具合を伺うという勇気を持ちあわせている人はあまりいないだろう。
それはもはや「流行遅れ」という言葉だけでは片付けられない、「寝かせ時に入っている」という雰囲気を出していることが原因としてあるだろう。
寝かせ時とは何か。
何のためにあるのか。
それは細かく分けると4種類あるだろう。
①時代錯誤の落差を楽しむための助走
②懐古の楽しみ
③会話のイニシアチブをとるためのツール
④もう思い出したくないもの
びっくりした。
どうにか4種類出るものである。
①と②はわかりやすい。
「うはーそれずいぶん昔のやつじゃん!!」と飲み会などで楽しむのが①。
それに比べて②は哀愁が漂う。
「ああそんな時代がありましたね」「昔、人間はそんなものを作っていたんですね」。
③はいわゆる「俺は昔のあんなことも覚えてるぞ」を主張するためのもので、寝かしたことはできれば自分しか知らない状態でなければならない。
そして、ここぞというときまで、誰にも触れられたくない。
私感だが、「へぇボタン」には、ここぞというときは結構あると思う。
そして④。
寝かせておいて、そのまま起こさなくてもよさそうなものが世の中にはあるということだ。
これをある人は失敗とするだろうし、ある人は不可侵の神聖な思い出とするだろう。
しかしどちらにせよ、④はどこかにあるらしい埋蔵金だとか、未見の古酒を彷彿とさせる。
M資金に関する事件を鑑みても、何気にみんな大好きなのは④なのかもしれない。

あいさつ。

「かっとばせよ かっとばせよ レフトスタンドへ」というような旨の野球応援歌があったような気がする。
明け方、頭の中に流れてきた。
いつ聞いたんだかはわからないが、だいぶん昔であることには間違いない。
ただ、メロディは昔聞いた風な感じだったのだが、肝心の内容がこんなだった。
「アンニョハセヨ アンニョハセヨ レフトスタンドへ」
三波春夫が野球場でコンサートでも開いたんだろう。
明け方。
それにしても野球の応援歌というものは、なんというか即物的でいい。
基本的には「打て!!」だから。
となると気になるのがピッチャーに対する応援歌はあるのかという点だが、実はそれほど気にならないので各自調べてもらいたい。
おそらくは野茂投手の例のアレくらいしかないのではないだろうか。
そうでもない?。
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何となく考えた応援歌
やってきました 重戦車
ピッチャー震えて ナックルボール
とどめだ 打球はスペースデブリ
ふるうバットは 海を割る
十戒待たずに コールド勝ちだ
アンニョハセヨ アンニョハセヨ レフトスタンドへ
とんがってはいても、あいさつは忘れたくないよね、ほんと。

激励の本質

「早くお前も、名乗るだけで改札を通れるような人間になれよ」
これが激励に属するものかどうかはわからないが、そんな感じの「励まし方」というものがある。
政治家は通れるんだっけか。
長島さんはそんな逸話を持っていたっけか。
両方いまいち思い出せないが、まあこういうのは職業別にありそうだ。
「早くお前も、名刺からだしが取れるような料理人になれよ」
身近に料理人の親戚、友人はいないだろうか。
和食がいい。
その人のこう言ったら、どうなんだろう。
励ませているのだろうか。
「早くお前も、翼の先端から煙を出していいようなパイロットになれよ」
身近にパイロットの親戚、友人はいないだろうか。
むしろ旅客機パイロットがいい。
映画やフェスティバルで、戦闘機の翼の先から煙が出ているのを見たことがある。
あれはかっこいいので、本来絶対行ってはだめそうな旅客機パイロットがあれをやれるくらい。
そのくらいになれよと励ましているのだ。
「早くお前も、他のサラリーマンが思わず振り向くようなサラリーマンになれよ」
この流れでは、職に一般的な特色のない職業は難しい。
サラリーマンがそうだ。
だから、他のサラリーマンの憧れになるような、を表現してみた。
しかし問題は、「思わず振り向く」のが「憧れ」に直結しなさそうなところ。
ちなみに、こういうのもいけるはず。
「早くお前も、10件の電話に一斉に対応できるようなサラリーマンになれよ」
現代版聖徳太子だったのか、憧れのサラリーマンは。

遠投

メモに「カメを遠投」と書いてあった。
最近忙しくはあるので、そういうことがメモにあることもあるだろう。
ただ、今このメモをいかがわしく感じるのはカメのスタンスを僕が好んでいるからだけど、少なくともメモったときは何かしら思うことがありしたためた。
そのはずなんだ。
マリオだろうか。
マリオは確か、第3作で初めてカメを持つことができた。
そしてシュート!。
遠投と言えなくもない行動をする。
いや、なんか違うな。
違う。
そうだ。
遠投されるカメの気持ちが気になったような。
カメに「遠投されてる」と思わせる遠投が、本当の遠投だ。
そう思ったのだ。
こういうのもあったかもしれない。
例えば円盤投げ。
あれは槍投げとかと同様、投げた直後に「遠くへ飛べ」を意味しなくもない叫びを発する。
ここで、投げるのが円盤だったら、円盤自身は「遠くへ飛ぶすじあい」はないだろう。
動力を持たないし生き物でもないから、あくまで遠投者の実力を素直に示すだけだ。
しかしカメならどうだ。
生きているのだから、もしかしたら遠投者の「遠くへ飛べ」を感知できるかもしれない。
それは、カメの素質にもよるだろうが、「遠くへ飛ぶすじあい」が発生する可能性を示唆している。
そのとき、70mあたり先を目指して落下しつつあるカメは、どんな行動をする、あるいはしないだろう。
メモを見ながら、「生き物だったら感知できるかも」というところに分の悪さを感じた。
なにせ、マリオはカメを踏んでは投げ踏んでは投げしているし。

安全喪失感甘受

何となく「ツタの絡まる電車」のイメージが出てきた。
映画か何かであっただろうか。
まず、涼しそう。
流行のグリーンカーテンっぽいし。
そして走りにくそう。
そもそも走れるだろうか。
そして走れたとしても、ツタが車体から外れそう。
そのさまは「襲ってきたツタのトンネルからどうにか出てこれた電車」みたいになるかもしれない。
と、実用面はさんざんだけれども、見た目はなんかいい。
いつぞや書いたことあるかもしれないが、僕は人工物が自然のものに囲まれる、あるいは浸食される。
そういうイメージに弱い。
群青学舎という漫画がある。
これの、ある回の場面がいい。
教室が草花で覆われるそのシーンは、もし誰かがこの漫画について僕に尋ねてきたとき、こう答えさせるに十分な印象を与えた。
「僕にとって群青学舎とは、1巻の20、21ページの見開きです」
「僕にとってパンチパーマとは、ホコリ髪の毛を絡めとる常備型クイックルワイパーです」
他にもそういったものはある。
古いところだと「猿の惑星」か。
何気にちゃんと見たことないかも知れないが、ラストに例の人工物を見いだして「ここ地球じゃん」が判明するシーン。
別に伏せなくてもよかったが、とにかく人工物が埋まっていてくれてよかった。
ちょうどの埋まり具合なんだ、あれ。
あれ以上埋まっていても、より出ていたとしても僕の「人工物が自然のものに浸食される」感覚は反応しなかっただろう。
ほんと、ちょうどだあれ。
最近だと、ラピュタの空中都市もそうだし、ファイナルファンタジーの10あたりでも荒廃した都市が出てきた。
世界樹の迷宮ではビルが緑まみれだったし、こないだいった北海道では錆びた鉄桶に守られるようにたんぽぽが一輪咲いていた。
全然読まないが、ローテクノロジーを扱ったSFなどにも垂涎のシーンがありそう。
廃墟の好きな人がいるが、それと似たようなことかもしれない。
廃墟に出向かない分、よりお気楽な喪失感甘受とも言えそうだが。
では最後、廃墟の好きな人へ。
「廃墟に行くときは猿の惑星の猿を。彼らの足は、ホコリ髪の毛を絡めとる常備型クイックルワイパーです」

棒高跳

「圧倒的に短い棒が用意された棒高跳び」というものがあったとする。
たぶん、綿棒とかだ。
綿棒が棒高跳びの「棒おきば」にあって、それを一本手に取ると、5mとかの高さに設置されたポールを超えるべく、走り出す。
そしてその瞬間、綿棒を地面に叩き付けてジャンプ!!。
もちろんこれでは、誰も「上のポールを飛び越えようとしている」とは考えないし、そもそも棒高跳びだとも思わない。
でも一度人類が滅びて、「棒高跳び」文化がその言葉以外消え去ったのち、それを再現しようとした未来の人たちが現れるとしたら。
そして「棒高跳び」という言葉を記した文献近くにたまたま綿棒があったなら。
おそらく上記のようなこと、もしくは綿棒をポールに向かって投げる、というようなことをやるだろう。
そしてこう思う。
「昔の人は綿棒を叩き付けた反動であの高さまで飛んでいた」
「この軽い綿棒をあの高さまで投げられる、肩の強さだった」

あぶらとり紙の透かし方。

「ひとかけのラードをなくすには、あぶらとり紙何枚必要か」
それほど話も広がらなそうあるいは作為的にも、これは一言ネタのようにでも使用かと考えていたが、書いちゃった。
作為的という点は主に下ネタが思いついてしまったからで、男としては全然作為的じゃない、かなり自然発生的な何かだが、まあブログ内容としては何となく避けがちなものである。
「ひとかけのラードをなくすには、あぶらとり紙何枚必要か」
この疑問を解消するためには相応の機構を考えると分かりやすい。
かなり原初的かつ有効なのは、あぶらとり紙製造所に忍び込みことから始まる。
そして、それの製造段階のあるパートを担っている区画を探し出す。
これは「あぶらとり紙は最初でかくて、それを切って商品にする」という憶測が混じっているが、その区画に「ロール上になっている」「でかいあぶらとり紙が1枚ずつ引き抜かれる」いずれかのシーンを期待しているのだ。
そしてロールならそれを回しているときにラードの小片をあてる。
でかい紙なら、引き抜かれる方向とは反対のところに、やはり小片をあてる。
これで、ラードの付いたロール全長あるいはでかい紙枚数分長を、商品あぶらとり紙長で除して答えが出そうだ。
以下、作為的に考慮した方。
一時期、今でもあるのだろうか。
女性、主に中高生の下着を販売する店があった。
いわゆるブルセラ病である。
この下着の大量生産について思ってしまったのだ。
こう、かかったYシャツが流れてくるところに、腕を上げて脇をさらした女子高生が椅子に座ってケータイをいじっている。
これで使用済みYシャツのプロマス実現である。
例はかなりマイルド指向だが、どんな場合でもこのブルセラ病。
実際やっていたとしたらその絵はかなり面白い。
一瞬、何やってんのか分からない。
ずっと見てても分からないかもしれない。
ずっと同じ脇だと擦れるから、そうか。
この午前の絵と午後の絵で座っている位置が違うのは、そういう意味があるんだね。
そんなこと、分かんなくていいかもしれない。
以前触れた気もするが、ほぼ同じ方法で「有名人サイン」なども、ただ一筋の線としてなら、大量生産は可能だろう。
ただ、どれにも言えることは「ありがたみがなさそう」だろう。
大量生産に対して「ありがたみ」がどうこうなんてのは昔からいろいろ話があるわけで今更な気もする。
しかし今回、「ラードの付いたあぶらとり紙がそこそこ出来てしまう」らしいので、ちゃんと言及しておいてみた。
寝ます。

フレームがフレームが。

震災について少し触れたあと、「闇夜の国から」の前奏部が流れてきた。
現在も被害状況が更新され続けている東日本大震災。
今なお人は、悲痛と鼓舞に心をにぎられ続けている。
その影響で延期されていた井上陽水ライブでのことだった。
それ以上語るものは特に何もない。
でも無理する。
このライブでは「闇夜の国から」とラストの「長い坂の絵のフレーム」が特によかった。
少年時代に「少年時代」を歌っていたら、知らないおじさんに「お前、今だよ!!」と怒鳴られた僕が言うんだから、それはそれは本当によかった。
ついでにがんばっちゃうと「闇夜の国から、長い坂の絵のフレームがシュッ」って、どう?。
なんか面白くない?。
・・・やっぱり無理する必要はなかったし、知らないおじさんのくだりの嘘を言うこともないし。

ネーミングライツ

例えばマスクに対してネーミングライツ的なものが採用されたとすると、それは「○○マスク」などとその名前だけではあまりにもこう、マスクの用途に対して失礼であり、やはりあのキャンパス。
マスク前面に大きく「SB」とか書けばより映える。
例はとりあえずソフトバンクで、とりあえず言いたいことは言った。
マスク前面に何か書くことはないのかということ。
往年のおもしろ系のものとして「VOW」というものがあり、そこには確かマスクに絵の書いてある商品が。
まあVOWに取り上げられているわけだから、少々装着にためらわれるものだった。
だがそれは、多分に人を笑かそうという悪しき意思が見え隠れしており、それが結果的にVOWカテゴリに所属する原因となっていたのである。
冒頭のSBであれば、面白いどうこう以前に「ああソフトバンクの広告だ」と思わせることが出来るだろう。
広告料のおかげで、単価を下げることも可能かもしれない。
JALでもいい。
いろいろ書けそうだ。
そのままJALでもいいし、滑走路から飛び立つ飛行機でもいい。
ただ、「いい」ということにだけ着目すれば、「血がにじんでいる」のは秀逸だ。
マスクににじむくらいだから、結構な量。
「マスクよりも先にやることがあるはずだ」
見ている人にそう思わせる力がハンパない。
ただ、これを冒頭の考え方にあわせようとすると、どうだ。
「血のにじむことが宣伝になる」
保険会社とか?。