年賀状

何年か前から、年賀状を書き始めた。
数は多くないけど。
年始で年賀状にまつわる事といったら、これではないだろうか。
「年賀状を捨ててしまう郵便局員」
「手違いで処分されてしまった年賀状」
何らかの形でこれに相当するもしくはちかい事件が、毎年起きていたような気がする。
起きていた気がする。
そう、今年はなんだか聞いていない。
これは問題である。
「年賀状をちゃんと送らなかったこと」が問題なのではなく「ちゃんと送られなかった年賀状が不特定多数存在するというニュースが流れていないこと」が、だ。
確かにいけないことだが、いっぽうでこの不祥事に救われる思いのする人がいることを忘れてはならない。
「ちゃんと年賀状送ったのに、あいつからはないな」
「そうか、あの事件に巻き込まれたか」
事件が、全ての年賀状送り人が持つ一番の不安を取り除いてくれるのである。
例えば、北海道のある郵便局管轄にて、そういった事件が発生してしまったとする。
それが、沖縄県民の不安を一蹴すらするのである。
それほどの影響力「年賀状配るのめんどい」という精神。
嘘でもいいのだ。
「とにかくいろんな、全然特定できないくらいの年賀状をシュレッダーにかけてしまいました」
「再生紙として再生させちゃいました」
「燃やして暖をとってしまいました」
「新任の局長が、はがきをみるとやぶりたくなる性分でした」
「トイレで拭く紙がなかったもので」
「新任の局長が1日に摂取する食物繊維が日本人の平均を大幅に下回ったもので」
「夜間にやぎが郵便局を占拠する前代未聞の珍事」
しかし、本当はちゃんとみんな配っている。
それは人に恨まれようが人のためにやったわけで、本人たちのこころもちは通る事だろう。
ぜひ毎年年賀状を紛失しまくってもらいたいものだ。
なんか、ダークナイトみたい。
ただ、もちろん「本当はちゃんとみんな配っている」でないと、それはいわゆる事件に成り下がってしまうけど。

見るよろこび

二度見という文化がある。
同じ物を二度も見てしまうほど、それが理解しがたい何かであるということだ。
しかしこの二度見。
後ろに「それ」があったとしたら、それを二度見れば二度見になる。
しかし、前にあったとしたらどうだろう。
最初に目に入ってきたまま。
二度見るという動作にはならないような気がする。
つまるところ最初から目に入っていたものに対して「二度見」に相当する行動をするのは難しい。
見ていないところで「二度見」に値することが起きた場合、それは「一度目:起こった事を確認する」。
一度目と二度目の間に「問題ないと判断」と目線を外す。
そして二度目の際には「もう一度確認せねばならない緊急の事情」が生じるのである。
一方、見ているところで起きた場合では、そのうちの「目線を外す」が必要ないため、そのままのまなざしが二度見分に相当する。
その二度見分が一見「二度見」とは見なされないのである。
見えていたものに対する「二度見」を成立させるためには、どうすればよいのだろうか。
まんがなら目を飛び出させる、ねこなら瞳孔を大小させる、顔を近づける。
いろいろあるが、実際に実行可能なものはそれほど多くない。
まんがではないし、ねこでもない。
顔を近づけると、自分もしくは対象が異性だった場合、どちらかがきゅんとなるだけかもしれない。
どうしても「俺は今二度見分に相当する驚きを受けているんだ」を確実に表現したい場合は、言葉による補足が必要になるだろう。
結論
「二度見分が一見二度見とは見なされない」というのが結構よかった。

はっさくについて

生物のからだのなかにはレセプターというものがあって、それは「なんか来たらなんかする」という仕組みを担う装置らしい。
たとえば、ある物質を分解する細胞には、表面にその物質に対するレセプターがある。
その濃度が高くなるとレセプターがその物質を検出する頻度が高くなり、「その物質が来たら分解酵素を出す」みたいなことの頻度も増し、結果的に程よい濃度に調整する。
確かこんな感じだった気が。
形の似た物質にだまされたりもするが、基本的には生物の恒常性の主たる機能のひとつだろう。
土手を自転車で走っていると、キャッチボールをしている人がいた。
それを見て何となく思い出したのだ。
レセプターの話はどちらかというとキャッチボールというよりは「ピッチャー、キャッチャーの関係」かも知れない。一方的だからだ。
これには「来た物質の形を変えてしまう、酵素みたいな機能もあるやつ」がいたかもしれないが、まあ分からない。
このレセプターは、自分の相方とも言える「その物質」がずっと来なかったらどうなるのだろう。
機能が低下したり、なくなってしまったりするのだろうか。
「夕暮れの広場に一人かまえるキャッチャー。日が沈みかけた頃、とつぜん栗が飛んでくる」
栗をボールと判断した場合、彼は栗を取ってしまう。
2塁にすら投げてしまうかもしれない。
次に考えたのはネットワークの世界だ。
「この内容の情報が来たら、この処理を行う」
そんな動作をする仕組みがある。
これも「ピッチャー、キャッチャーの関係」だろうか。
ボールが来るまでは、じっと待つはずである。
こちらが生物のやつと違うのは、形の似た情報が来たとしても、何もしないところだろう。
もちろん「形の似た情報」の方も処理するようになっていればいいのだが、それなしに「これ、例の情報とは違うんだけど、似てるから処理してよ」はまずできない。
やるなら、少し根源的な方法が必要だ。
「夕暮れの広場に一人かまえるキャッチャー。日が沈みかけた頃、とつぜんはっさくが飛んでくる」
こちらはすぐはっさくを見捨てる。
さっとよける。
取ってもらいたいのなら、まず彼を呼び出し、はっさくもボールみたいなものだという事を教える必要がある。
それにしても「夕暮れの広場に一人かまえるキャッチャー」というのは、なかなかいい。

運命の人

「運命の人に出会えるオンラインゲーム」という感じをうたう広告を見た。
仮想空間で運命の人に出会ってしまった場合、どうすればよいのだろうか。
まず、そのCGなキャラクターがそうなのか、ネットワークの向かい側で操作しているだろう人間がそうなのだろうか。
「運命の人」自体がかなりもやもやした定義であるため、難しいところであるが。
もし、なんらかの決定的事象により前者である事が確定した場合、つらい新婚旅行になる。
いや、もっと前の段階からいろいろとつらい。
もう、いろいろと。
※前者の決定的事象
・停電が起きたのだが、なぜかそのキャラクターが画面に表示されつづけた
・目と目が合った
・ちゃんとした意味で、一目見たとき電気がはしった
・そのキャラクターを表示した時点でフリーズ
・不思議な事に、触れた
一方、ネットワークの向こう側の人であったとしても、つらい。
まず、誰だかわからない。
異性なのかどうかもわからない事が多い。
「僕たち、どうやら運命の人の間柄らしいんだ!!」
そんなことを言っても、相手はどうしていいのかわからない。
それはちょうど「そのCGなキャラクターがそうなのか、ネットワークの向かい側で操作しているだろう人間がそうなのだろうか」という疑問から始まり、何となく不幸の連鎖である。
ただ、この不幸はそのままゲーム内のキャラクター自身にも降り掛かるかもしれない。
目の前のCGな異性が運命の人なのか。
それとも俺たちを操作している、向こうの世界の人がそうなのか。
交錯する世界における「運命の人」というのは、たいがい悲劇的な結末を迎えることになっている。
海に帰れなくなった人魚姫か。
城に帰れなくなった王子様か。
「・・・・もう、戻れないんだ・・・・」
ロマンシング サガ2。
ゲーム内のキャラクタ、王子様の方のご意見。
戻れないそうである。

擬態

生物の中で、擬態という戦略がある。
一般的に、それはまず「強いやつに化ける」と考えて間違いない。
毒を持つ他の生物に似た模様を持つ。
あるいは自分の天敵よりも強い生物を模す。
となると、自分より弱いものに擬態する生物はいるのかという興味がわく。
今何となく考えたところ、まあ人間はそういった面があるという結論に達した。
おそらく多くを書く必要はないだろうが、人間は時として自分をより弱く見せようとする。
おそらく多くを書く必要はないだろうが、それは別の視点からすればより強いからである。
人間には他の生物よりも多様な強さ弱さが複雑に絡み合っているわけだ。
ところでこれまた今思ったのだが、擬態には「強いやつに化ける」のと「周りの風景にとけ込む」という2パターンある気がしてきた。
そして高等になるほど風景とけ込みパターンが多いような気もしてきた。
虫などは両パターンともありそう。
一方ほ乳類は、例えば虎やシマウマが風景とけ込みパターンが思い浮かばれる。
人間はどうだろうか。
例えば成人男性。
スーツをまとう事でかなり風景とけ込みパターンになりそうである。
小学校校庭でどうしても身を隠す必要に迫られたら、半ズボンにより風景とけ込みとなる。
お寺で身を隠すなら髪をそればいいだろうし、女子校内なら、女装でいける。
こうなると、人間の風景とけ込みパターンでの擬態は、とにかく他の人に紛れ込む一点しか考えられないようだ。
それでは、周りに人のいない場所ではどうするかって?。
周りに人がいないということは天敵がいないということなので、身を隠す戦略自体が必要ないんである。

立ち止まりアカデミー

人が行き交い混雑する駅構内で、ふと立ち止まったらちょっと迷惑だと思う。
端に寄るなど止まるなりの礼儀はありそうだが、どうもそれに気づかないくらい、唐突に何かに気づいたのである。
しかしその気づき。
向かうホームを間違えたくらいの気づきだったりもする。
間違いは仕方ないのだが、どうせならこのくらいの驚きをもって、立ち止まってもらいたい。
「今日休みだ!!」
「俺パジャマだ!!」
「なんかわからないけど、俺血まみれだ!!」
「朝俺の家にいた人、全然知らない人だ!!」
「すっげー帯踏まれてる!!」
「首脳会談出るの忘れた!!」
一方、立ち止まりたくなるようなことが起きても、平然と方向を変えない、もちろん立ち止まりもしない人もいる。
それは先ほどの「立ち止まる人」より迷惑じゃない感じもするが、本人はどきどきしている。
そして本来の目的じゃないことが達成された頃「あそこで方向転換していれば!」と歎くのである。
基本的に、この手の人は気にしいで、誰かに「あの人道間違えたわ」と思われるのがいやなのである。
でもまずおまえは注目されていないからそんなことはいい、というものだ。
もう、全然注目されていない。
むしろ見えてない。
米軍がその技術を採用したがるくらい見えてない。
この場合で、注目されないこととは「どこかに向かって歩いている」だけで必要十分である。
となると、注目されるというのは「立ち止まる」ということであって、それなら帯くらいはだれておかないと、礼儀に反するよね。
朝の特快にて。

フィールド

「よつばと」という漫画に、「傘がへた」だという台詞があったように思う。
なるほど傘の用途はかなりシンプルで分かりやすく、へただとかいう前にさあ、という感じ。
トトロですら、少なくとも持ち方はすぐに理解できた。
ところが見方をもう少し広げると、この傘という文化におっついていない人が多い事に気づく。
かなり初期の本ブログにも記載したが、折り畳んだ傘の扱いがへたな人が案外いるのである。
すなわち、傘の軸が地面と水平になるように持つ。
人は棒状のものを持つと、ああやって持たないと歩けないことになっているのだろうか。
そうだとしたらかなり根源的な問題である。
とにかくあらゆる状況で突けるように、などの狩猟的原因があるのだろうか。
しかしそうなると、周囲のことを気にして邪魔にならないように持つほとんどの人はどうなるのだろう。
彼らは集団生活において、何か優位なものを体得したのだろうか。
そんなことはない。
ちょっとした気遣い、その差だけだ。
傘を水平に持ってしまう人は、疲れかなにかで少し油断した。
故にかさへたになってしまったのである。
その油断は、おそらく狩猟時代(?)にもあらわれており、幾人かは油断のために「やりへた」として前の人を突き転がしていたに違いない。
先日、何となくだが「アラレちゃん」の「キーン!!」のポーズをやってみた。
両手を広げ立てた指先を見て驚いた。
思いのほか「範囲」が必要なのである。
あれはアラレちゃんが女の子ロボットであり、相応の手の長さだからかわいいのであって、そこらの人が実際にやってみると、当たり前だが腕分の領域が必要なのである。
僕は傘で突き転がす人のことを思い出した。
さすがに「キーンへた」という概念は生まれないだろうが、人というのは自分がとりうる最大限の領域よりも、ちょい狭めに生活しているのである。
パーソナルスペースとかATどうこうなのかも知れないが、僕はよく知らない。
ただ、傘をおっ立ててしまうのは、何かこの辺のことが関与しているのだろうか。
だとしたら、一概に油断だとはいえまい。
今、僕のアラレちゃんポーズが、通行人に見られそうになった。
思いのほか領域が必要なので、屋外でやっていたことを忘れていたのである。
これは油断。

ディスプレイ

喫茶店にある、コーヒーのディスプレイが気になる。
コーヒー豆を入れていることはないだろうか。
確かに、液体を表現した素材がぴかぴか。
それのほこりがかむっているのを見ると、忍びない気もしてくる。
しかしだからと言って、コーヒーの原料そのままをどっさりカップに入れることはないと思う。
伝えたいことはわかる。
「コーヒー」だ。
この店はコーヒーを出す能力のある店です、だ。
「豆、挽いてます」だ。
これは僕だけかもしれないが、おいしいんであれば、インスタントだろうが消化不良の産物であろうがビーカーで作ろうが、コーヒーはそれでいい。
豆どうこうが直接、入店意欲をそそるわけではないのである。
そういうお客さんが多いと考えたとき、豆ディスプレイは対象に「ああ、豆」と思わせるくらいしか効果がないと言えるわけだ。
もし豆がとにかく重要なお客さんをターゲットとしているのであれば、そんなお客さんは「ディスプレイに豆をなみなみ置くな、もったいない」と起こるのであり、やっぱり豆ディスプレイはどうか、という感じに。
「これがコーヒーの原料です」だ。
それはたいがいの人はわかっているような気がする。
しかし、「本来お前は、この豆を得るために農場を作り、汗をふきつつ収穫しなくてはいけない。その豆だ」ということまで伝えたいというのなら、なんとなくプランテーションという言葉を思い出すだろう。
このへんから、たぶん伝えたくないこと。
「この店に入ると、まずはカップに入ったコーヒー豆が運ばれてくる」
「そこで客の判定をもらい、承諾されればその豆を挽いてコーヒーをいれる」
ディスプレイは嘘をついていた訳でなく、実際にそういうシステムの店なのかもしれない。
「勝手にコーヒー豆が湧くカップ」
喫茶店垂涎の聖杯。
「現在の生活に不満を持つ奥さんが夜中にこっそり仕込む」
特に、旦那が自分の話をちゃんと聞いていないことに不満を持っている奥さんが「カップに何も入れないなんて」と些細なことに執着、夜な夜な入れてしまうのである。
つまりだんなとしては、ちょうど聖杯を手に入れた気分。
・・・
まあ、せっかくのコーヒーなんだから、香りが漂ってきさえすればディスプレイに頼ることはないような気もするのだが。

わきまえる血族

血液型で性格はたまた運勢というのは、なかなか面白い。
しかし、特に日本人はこれをいろいろ気にしすぎ、と指摘する話は多い。
「私、えりなです。うお座のB型です☆」
さすがに初対面、あるいはすれ違いざまにこう切り出されることは、まあないだろう。
せいぜい献血のときか、救急車内である。
=====
「出血がひどいな」
「あんた意識まだあるか」
「おい輸血の準備!!」
「私、えりなです。うお・・・座の・・・Bが・・・」
=====
老婆心が出てしまった。
ただこの台詞が意図的だとすれば、彼女はかなりデキる子である。
話がずれた。
「私、えりなです。うお座のB型です☆」
とはいえこのような言葉は、全く聞かないという感じでもなく、そして3番目である。
プロフィールのランキング3番目が血液型なのである。2位の星座もかなりふわふわしているが。
もっと3番目にふさわしいプロフィールは、人にはないのだろうか。
「私、えりなです。うお座で、一番好きな四則演算は÷です☆」
どうかという意見もあるだろうが、僕は血液型などよりも「ひととなり」が明確にされている印象を受ける。
「お、こいつみんなと仲良くなろうとしているんだな」というのも感じる。
そして展開がある。
血液型でも「俺はAでさー」などの派生ができるが、四則演算でも、いける。
「俺は×(かける)が好きだよ!」
経験則からしても、相性がいいに違いない。
「私、えりなです。うお座で、毎日30分の仮眠を取ることが健康の秘訣です☆」
健康は大切であるため、こういった切り出し方もあるかもしれない。
毎日30分行っていることと言えば、プロフィール3位であってもよさそうだ。
そしてやはり「お、こいつみんなと仲良くなろうとしているんだな」というのも感じる。
しかしどうして「それを聞かされても・・・」という気になる。
それは血液型だって、そうだったはずなのだが。
さてここまでくると、血液型が担っていたもうひとつの意味を知ることができそうだ。
ひととなりを明らかにしたくないということ。
それは、あたりさわりないことでして。
つまり礼儀ってやつだ。

猛攻の善意2

昨日からのつづき。
【あらすじ】
人間以外にも「おせっかい」ってあるの?。
=====
・バッタ
オンブバッタという、オスがメスの背中に乗っているやつがいる。
しかしそれ以外のバッタでも「バッタの上にバッタが乗っている」やつがいるそうだ。
これは「下のバッタが、上にいるバッタがより遠くにジャンプできるようにとの善意に駆られた行動」である。
・カワウ
鮎を吐き出すのが苦しそうな仲間に対し、羽を喉に突っ込んで手伝ってあげる行動が報告されている。
・カニ
シオマネキは、メスへのアピールとして大きなはさみを振る行動が知られている。
それが「海を呼び、満ちさせる」「潮を招く」として命名された。
しかしその実際は、昔誰かがなんとなく唐突に「シオマネキ」と命名したのである。
当然「シオマネキ」としてはその意味にそぐわなければ、という気持ちになった。
そのため、それまでのメスアピール「破裂する」をやめて、あたかも潮を招いているような行動をとるようになったのである。
・リス
リスは食物を頬袋に入れる。
このとき、たくさん頬袋に食物を入れた仲間へのおせっかい行動として「二度見」が確認されている。
「え、お前そんなに入れたの!?」と二度見することで仲間に対する畏敬の念を表現し、高度な社会性を維持している。
・サケ
卵を、たいていの生物にとっておいしい塩梅にしてくれている。
以上。
だけど次回もゆるくつづけ、楽する方針。