名刀2

昨日からのつづき。
【あらすじ】
名刀膝切丸ってなんだか弱そうだけど、すごい切れ味だった。
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実録!!
この名刀は弱そうだ集。
名刀耳かき丸:
こういうのが楽でいい。
菊:
これで「きくひともじ」と読む。
名刀おがくず丸:
こういうのがほんと、楽でいい。
菊正宗:
なかなかいいじゃんと思っていたがすでに誰か考えてた。ざんねん。
一期一会:
以前は豊臣秀吉が持っていたそうな。何気にすごく強そうな気も。
名刀そよかぜ:
絶対敵倒せない。
名刀風魔手裏剣:
せっかくの手裏剣を刀として使いました。結果弱い。
秘剣たんぽぽ:
多分秘剣の入門用。
筆折りの鎚:
名刀シリーズには飽きました。
至弓かぜとおし:
言い方も変えてみました。
名銃エンプティー:
いっつも玉入ってない。
筆圧の太刀:
なでる感じ。
妖刀卒塔婆:
妖刀の名には恥じないけど、折れやすい。
聖剣メルティキッス:
エロゲーかなにかであるんじゃないか。
名刀膝打丸:
一文字変えるだけで、いいアイデアが浮かびました。
これなら、いろんな名刀がたくさんありそうですね。
おわり。

名刀

名刀膝切丸とメモにある。
なんとなくどこでそれを見たのか、覚えている。
そして調べてみると、いろいろ分かる。
しかし問題なのは膝切丸という名前だ。
何かの本で読んだことがある。
剣術として、試合一番に相手の腱だかスネだかを切り、あとは煮るなり焼くなりしちゃう流派があったという。
左道扱いだったというが、一方ですごく有効なのだろう。
ただ、そのことを踏まえたとしても「膝切丸」。
なんか致命傷を与えるには不足、むしろはさみくらいなんじゃないかという印象を与えないだろうか。
日々の生活において、別に膝を命に影響を与えない、軽視しているわけじゃない。
少なくともピザよりは重要視しているから、膝と十回連続で言ったこともあるくらいだ。
しかし名刀というくらいなんだから、膝よりももっと切るところがあると思う。
まあ、こういう風に考えることもできる。
「いたって普通の刀だが、膝を切らしたらすごい」
膝の切れ味がすごい。
これなら膝切丸と名付けるしかない。
名の由来を調べてみると「相手の両膝を一太刀で切断した」とあるので、それなら名刀だねと納得もできる。
しかし今度は、さっきまでの「膝切丸ってなんだか弱そう」という気分の持って行き場がない。
ということで、明日に持ってく。

聞くにたえない。

以前、「てふてふ」を本当に「てふてふ」と読みたい場合のことを考察した。
現代の日本では、国語の授業で「てふてふ」を「ちょうちょう」と読むように強要される。
それを守らないと、テストはゼロ点だし、「あいつ、てふてふって読むことで目立とうとしている」と思われる。
結果、日本には「てふてふ」というものは存在しないことになっているのだ。
小説や漫画などで時折、見られる表現がある。
「聞き取れなかった言葉、何を言っているのか分からない言葉」を記号の羅列で表すものだ。
確か手塚漫画ブラックジャックでは、あるシーンの罵詈雑言は「$#(|\#”=~~!!」みたいな感じだった。
もちろん、こういうのを「×××」で表現する小説もある。
このときは簡単だ。
「ばつばつばつ」とか「ちょめちょめちょめ」でやり過ごすことができる。
「ちょめちょめちょめ」でやり過ごした場合、別の問題があるけど。
一方の「$#(|\#”=~~!!」的なもの。
国語の朗読で「$#(|\#”=~~!!」が出てきた場合、どう読めばよいのだろうか。
恐ろしく皆無だろうが、もしかしたら犯罪的理由で「$#(|\#”=~~!!」な内容のエッセイを載せてしまうかもしれない、教科書の会社。
そんなときに備えるのだ。
例えば現状で「成田、次の段落読んで」と読み始めた文章の中で。
「$#(|\#”=~~!!」があったらどうなるだろう。
僕は、そのときの教室の感じをイメージすることができる。
成田「私は雨が降ってきては大変と思い、水に溶けることで有名な向かいのおばさんに声をかけました」
成田「すると、向かいのおばさんは慌てた様子で、私にこう言ったのです」
成田「えーと、ドル、シャープ・・・」
先生「ああ、そこはいいよ。次の「もう唇が溶けてる!!」のところからで」
確実にこうなるのである。
先生の、そこはいいよ発言。
このときの教室の雰囲気って、結構いやな感じがする。
ああ、例のところか。
どうせ読めないんだから、なんかもんやりしてしまうだろう、と。
そもそもこの雰囲気は、このフレーズの入った授業であることが分かった瞬間から出てきているだろう。
そして「成田、次の段落読んで」と先生が指摘したとき、ピークに達する。
成田にあそこを読ませるなんて、先生も人が悪いよ。
それは中学校における「高村光太郎のDT」問題に類似している。
「てふてふ」の場合は、まだ読み方がある分、ましだ。
「ちょうちょう」でいいし、カリキュラム上等で「てふてふ」と読んでもいい。
しかし「$#(|\#”=~~!!」はどうにも読めない。
そして読めないことが分かっているのにそれをあてがわれる「もうなんだかスベりました」の雰囲気。
こういうのを網羅してもらいたいんだ、現代国語には。

うた占い

「うた占い」というのはないのかと調べてみると、それはあるらしいのである。
しかしいまいちどういうのか、分からない。
僕が「うた占い」というものをイメージしたとき、まず思いつくのは「マル・マル・モリ・モリ!が好きなあなたは、子供っぽい所があるけれどがんばり屋で、周囲を明るくする素質も持っています」というようなやつだった。
一方、例えば「血液型占い」における「A型の人、きちょうめん」のような。
占いは少なくとも見た目では、当人の先天的素質と後天的素質とが結びついてしまっては、ありがたみが半減すると思う。
「A型という血液型と、きちょうめんという性格は、一見何の関係もない。しかし占いによるとそうらしいのだ」
ほんとかどうか、竹内久美子氏に聞いてみるべきか。
その是非はともかく、そうなるとイメージしていた「うた占い」の内容は、他の類似の占いよりも、さらにもう一歩「当人の先天的素質と後天的素質が結びついてしまっている」ような気がする。
「子供っぽい所があるけれどがんばり屋だという性格と、マル・マル・モリ・モリ!が好きなことは、超関係ありそう」
確かにその定義もここでは曖昧ではあるが、これでは占いというよりも「そりゃそうだよね」だ。
厳かに「そりゃそうだよね」を聞きたくはない。
水晶を前に、口元をベールで隠した爪の長いアラビアンレディから「そりゃそうだよね」を聞きたくない。
水晶を前に、口元をベールで隠した爪の長いアラビアンレディから「お父さんはなくなって、いませんね」と聞きたくない。
もちろん本当に「うた占い」というものがあって、それが「マル・マル・モリ・モリ!が好きなあなたは、経済面の才能があるため、事務系の仕事に向いています。また、生物学的に酸性雨に強い」なんてなると、人間だもの。
その意外性が信憑性を高める。
占いが介在することにより、隠された本当が見えてきたのだ、と。
そう考えると「うた占い」の存在価値はどうしても意外な結果というものを要求されがちであり、かなりシビアな所にあると言える。
それは「うた」というものには、占いなど曖昧なものを隠しておけるスペースはない、ということでもある。

ゆけどこまでか。

JUDY AND MARYの「LOLITA A-GO-GO」をよく知らなかったので、JUDY AND MARY好きの友人に怒られてしまった。
くそう。
そんな話をしていると、他方から「昔、マッハGoGoGoというアニメがあった」との声。
そんなものもあったのか、と。
しかしここで僕はひとつの事実に気づかされる。
「Goは3回まででよい」ということである。
例えば「LOLITA A-GO-GO-GO-GO-GO」だったらどうだろう。
分からない。
なんか分からないが、原宿とそこへ通じる路線の電車内が大変なことになりそうな感じ。
終電後の原宿の路上にホワイトブリムが点々と落ちていそうな感じ。
GOがたくさんあるとそうなってしまうのである。
「マッハGoGoGoGoGoGoGo」だったらどうだろう。
確かにマッハはすごい。
僕らが思っているよりも、ずいぶんと速いのだマッハは。
しかし「GoGoGoGoGoGoGo」では、ちょっと行き過ぎで、急ぎ過ぎはないだろうか。
ある意味「生き急ぎ」でもありそうだ。
確か「マッハGoGoGo」は車のレースを題材としたアニメだったように思う。
「マッハGoGoGoGoGoGoGo」はその車のチーム員や観客からは発せられる可能性はあるものの、程度というものもある。
この点でも、「マッハGoGoGo」は程よい「Go」であり、それは3回なのだった。
「Go」は3回まで。
僕もこれから生きていく中で、優先度高めにしていきたいことである。

よみがな

「どぜう(どぢやう)」「てふてふ」などである。
例の「おもしろ読み」の余地のある彼ら。
どういったことがあってか分からぬが、これらはそれぞれ「どじょう」「ちょうちょう」と読ねばならないとのこと。
なんでだ。
それはさておき気になるのは「本当に「どぜう」と読んでもらいたいとき」はどうすればいいのか、だ。
例えばこんな文があったとしよう。
「幼少から現在に至るまで、人は一度くらいは「どぜう」を「どぜう」と読んでしまって恥ずかしい思いをするものだ」
「しかしその恥ずかしい経験は「どぜう」を「どじょう」と読むためには必要なのである」
「しず子は思い切ってまことに聞いてみた。「レディガガって、シーハルクみたいなもの?」」
最後のは関係ないが、とにかくこの文面に出てきた「どぜう」は読み方としては全て「どじょう」となるわけであるが内容上、「どぜう」と読みたいところもあるわけである。
「@」はどうだろう。
※以下、どぜう発音してほしいところにて採用してみる。
「幼少から現在に至るまで、人は一度くらいは「どぜう」を「@どぜう」と読んでしまって恥ずかしい思いをするものだ」
@のところは「そのまま読み」で、結果「@どぜう」と読むわけ。
しかし文章ならいいが、日常的な会話にてどうしても「@どぜう」と発音しなければならないときは難しい。
「アットどぜう」っていうのもなんだし。
かといってそのまま「@どぜう」と発音してしまうと、相手が「どじょうね」と判断してしまうため、結果「@どぜう」という読みは置換されてしまうのだ。
会話中の場合、どうするか。
そんなことを考えていると、どうも日本人は今後絶対に「@どぜう」「@てふてふ」なる何かを生み出してはいけないんだろうな、と思えてきた。

ひとつ

一つ目小僧はいたらしいのに、一つ鼻の穴小僧がいなかったらしいのはなぜだろうか。
「実はいたが、目立たなかった」
もっともな意見である。
ヤツメウナギなどの円口類に属するぬめぬめたちは鼻の穴に相当するものが一つだそうだ。
そして、そもそも生物が鼻みたいなものを持ったときに、それが穴ひとつだったかふたつだったかも、よく分からないらしい。
一つで悪いことはない。
ひとつなら、唇と鼻の間に存在する謎の溝がちょうと鼻息の通り道となるため、都合がいい。
片方だけ詰まって気分が悪いこともない。
一つ穴は死ぬか生きるか、だ。
でも、やはり人間、いままで二つ穴で慣れ親しんできたため、一つは見た目怖い気もする。
一つ穴を見たとき、それは二つの穴を隔てる壁を手術で取っ払ってしまったんじゃないかと思うだろう。
それにしても、なんかいろいろ気になってきた。
1妖怪は「なんとか小僧」が多い。
2ヤツメウナギの鼻の穴が一つとかって、それ以前にヤツメを気にするべきだ。
3「一つなんとか小僧」のような妖怪は他にいたのか。
次回、1。

マナー

「スティール・ボール・ラン」で登場人物のひとりが、たしか「ナプキンを最初に手に取るもの」について熱く語る。
もちろんこれはナプキンフェチ連盟での、自らのフェチ魂の高みについて話されたものではなく、あらゆる事象のきっかけを作る、影響を与えることについての例え、あるいはラプラスの悪魔的な発想とでもとらえるべきだろうか。
よくわかんないけど。
こないだ「大人のマナー」みたいな雑誌を見ていたところ、「友人の祝儀には何円を入れるか」みたいなコーナーがあった。
そこのは年齢別の集計表があって、確かどの年齢でも「3万円」一律だった。
一律というのはすごい。
その性質上、なかなか他人に確認できないだろう「祝儀のお金」。
それがあーた、決め合わせたかのように、一律。
誰かが最初に決めたのだ。
「友人の祝儀は3万円」と。
派生で「結婚でペアだから、2万円もあり」みたいなものもあるが、あくまで基本は「3万円」で揺るいでなさそう。
すごい決定力である。
それにしても、「最初の人」が5とか7が大好きでなくて、本当によかったと思う。
一方で、音楽が好きでもないらしい。
好きだったら音楽ギフト券が祝儀に入れられる文化になっていたはずだし。
そう考えると、いろんな意味で米が大好きでなくて、良かった。
お米券ならまだしも、八十八ととらえられたら、もう。
どうやら最初の人のことでわかるのは、お金が好きな事だけ。

二点識別閾

人の能力というものをきわめて大まかにまとめてみると、それは「ふたつのものをひとつではなく、ちゃんとふたつと認識できる能力」であるとは言えないだろうか。
要は「分けられる能力」である。
例えばテーブルの上にある爪やすりと歯ブラシを「分けて認識」できず、ひとつだけ何かが置いてあるように認識してしまった場合、口の中がじゃりじゃりになったり、歯ブラシで爪をこする母を見て子供が怖がったりする。
もっとひどいと何もかんもが全部一緒のものとして見えなくて、なんかエヴァンゲリオンだ。
あるいは手に持った小銭が1枚なのか2枚なのかわからないと、レジでもじもじしてしまうし、銭形平次はグラディウスのダブルのように、特殊な場合を除いて前方への攻撃力が低下してしまう。
両方とも、分けられなければだめだ。
前者は目の分解能が関わっている。
例がでかすぎて何だが、たしか2つの点をどれだけ近づけたら1点に見えちゃうか、みたいなことだったはず。
後者は部位覚というやつが関わっているらしい。
体のある部分を2点で刺激したとき、それが2点からの刺激であると認識できる最小距離で、その敏感さが表されるそうだ。
「二点識別閾(二点弁別閾)」。
これだけだとなんかめんどそうだな、という感じもするが、さきほどの説明が加わってくると、なかなか味わいのあるものになる。
まず、試験の光景がすでに面白い。
もちろんどんなふうにやるのか知らないから想像しかできないが、まず2点を刺激するのは綿棒だろう。
綿棒でいろんなところを2点ぐりぐりするのだ。
プレイである。
また、「俺は綿棒なんかじゃ感じない」という被験者に対しては綿毛が用いられる。
そもそも、その2点に与える「刺激」というのは何なのだろうか。
すごくやる人に左右されるような気のするのは勘違いだろうか。
綿棒をとんとんとん。
まだ2点ですか。
ええ2点です。
じゃあこれは、とんとんとん。
まだ2点ですね。
なごやかムードである。
プロの試験者になると、どこをどう刺激しても1点としてしか認識されない、ウルテクを習得できるかもしれない。
つぼみたいなところをとんとんする。
見た目は足先と頭くらい離れているが、被験者はあまりの気持ちよさに、全身がしびれてしまうのだ。
これが言うところの「二点識別閾突破」である。
ただどうも想像してみると、やるほうもやられるほうもくすぐったい感じがしてしょうがない。
僕は、突破は無理だ。
全身の「二点識別閾」を表した図がある。
「うははもうわっけわかんねえ」とくすぐったさを我慢できずに叫ぶ。
この図の被験者がそうではなかったことが驚きで、ロボかなにかかと思う雪の夜。

夕食

僕は怖い話が好きである。
もちろん実際では遠慮派だが、話である分には好きだ。
そして同様に不思議な話も好きである。
こんな話を探し出した。
小学生のときに転校してきた某君。
彼は不思議な少年で、会っていない同級生の夕ご飯を当てるのだそうだ。
そしてより不思議なことに、当時の彼を覚えている人はこの話をしている人以外、いないという点。
不思議である。
ただ、ここではこの話をぐっと不思議にしている「彼はそもそもいたのだろうか」というところではなく、「夕ご飯をあてる」ところに注目してみたい。
例えば朝、出会ったときの「おはよう」の「は」のところで、同級生の歯にあおのりがついていたとする。
これは「夕ご飯の指摘」的中をするうえで大きなヒントになるだろう。
不思議話に水を差すつもりではないが、何らかの夕ご飯ヒントを、人というのは無意識のうちに与えているものなのである。
その学校がお弁当制度だったとして、ある同級生が宅配ピザの何ピースかを持ってきていたら、まず昨晩の夕ご飯は宅配ピザだろう。
舌なめずりばかりしているやつは、十中八九うな丼。
もちろん黄色い舌苔のやつはカレーだったろうし、青いのはブルーハワイだ。
くしゃみをしたときにベビースターみたいな長さの麺が出てきたら夕ご飯はラーメンであるし、もうナポリタンのときは何も書かなくていい。
そして何もヒントがないやつ。
それは家族全員ダイエット中なのか、お茶漬けかである。
このように、どうにか特別な能力がなくても夕ご飯を言い当てることができそうである。
同級生の母親の素行調査を充実させる方法もあるし。
しかし我々はもう一つ、彼自身のことについて考えなければならない。
「彼は自分の家の夕ご飯が何かを前もって知ってしまっていたのだろうか」
夕ご飯の楽しみが半減する彼。
夕ご飯のときに、いまいち元気のない息子が気になる母。
二人の雰囲気がよくわからない父。
この家庭内に「母さん、今日のごはん何!?」という言葉が発せられる事はなかっただろうが、もしあったとしても、それはそれで泣ける話になる。
僕は、泣ける話はそんなに好きじゃない。