還元則 その1

あまりポイントカードが得意ではない。
お得なのはわかっているがそれが嫌だ、とかいうあまのじゃく精神は全然ない。
しかしポイントカードはお金と違い、すさまじく厳密には財布内では管理されていない。
そしてそれは生きていく上でどんどん増加していく傾向にある。
その結果、レジにてお金のやり取り以外のどうこうが発生してしまう。
それが少し苦手なのだ。
「当店のポイントカードはお持ちでしょうか」
こう来られたら、高価な買い物やテンションが高かったとき以外は「ないです」と答えるようにしている。
「ないです」
実はうそで、財布のどこにあるのかが不明なだけなんである。
ただ探せばいいのだが、その時間を店員、後ろの客に課せることが気になる。
「ないです」で待たせることがないと考えれば、まあいいかという心境である。
しかしよく間違えるのだが、ここで「忘れてしまいました」という内容のうそにしてしまうと、場合によってはより人を待たせることになる。
「今もう一度作っておいて、あとでマージする」方法のある店が多いからだ。
「お作りになりますか?」
もちろんお作らなくていいのだが、ここでもうちょい待たせしてしまっている。
そして熱心な店員さんだった場合、さらにカード作製時間を取らせる事になってしまうのだ。
「ないですそして今日は作らなくていいっす」
「ないですそして今日は作らなくてよくて、これからもう帰るところなんで」
「ないですが作らなくてよくてもう帰るんで早めにリリースしてもらえませんか」
誰も悪い人いないのだが、できればそう一気に言ってしまいたいくらい。

霧が晴れたら その2

昨日からのつづき。
【あらすじ】
プロレスにある「毒霧」というものについて何か考えよう。
※毒霧:変な液をぷーっと相手に噴きかける。
=====
「毒霧成分がウイルスやほこりをキャッチ。毒霧クラスターはシャープだけ」
「部屋の消臭ができるファブリーズ毒霧タイプ」
「塗料を含んでの、プラモデルの塗装」
「刀傷に苦しむ患者に医者が毒霧、麻酔をかけ候」
「高知県山岳部に濃毒霧注意報」
「毒霧にかかる虹」
「俺が調合したやつよりも、単にリステリン噴いた方が効いたよ」
「よりミストの粒子が細かくなるように、歯の隙間の調節に時間をかける」
「いくらうがいしても、口から緑のが出るわ」
「毒霧を受けた相手の胸元に、やきそばの短いのがついていますねー」
「神の御心が太陽となり、吐息が風となり、毒霧が酸性雨となった」
「毒霧を仕込んでいるのを忘れてため息をついてしまったので、だっらー」
「風車がびちゃびちゃ」
「吐息とそれに伴う毒霧をすりこむ事で、手のかじかみを防ぐ」
「低濃度の毒霧は虫除け効果があるため、夏のプロレスラー付近には混雑が見られます」
「カレーうどんと向いの人のシャツが、えも言われぬ色に」
「キスをすると、相手のくちびるガードがハンパない」
「毒霧によるぼやけから回想シーンに入っていく画期的な場面移行手法」
「まずプロレスラーの両手がみどり」
「作るシャボン玉もみどり」
「くちびるのしわもみどり」
「つまようじの先、みどり」
「妻、みどり」
「青信号のことを、みどり」
「投げ込まれるタオルにも、拭き取ったみどり」
終わり。

霧が晴れたら その1

思い出し笑いの最たるイベントは、お茶を噴き出すことだ。
それは単に見た目すごいことになるだけではなく、目の前の食事がだ液ミストにさらされることを意味している。
ある人はそれを毒霧と形容した。
毒霧は確か、あるプロレスラーが得意とした攻撃方法で、口からへんな色の液をぷーっと霧状に吐き出す。
これを浴びた相手は何らかのダメージがあるのだろう。
そして「毒霧」を披露した思い出し笑いのその人は、あだ名が「ムタ」「ライデン」などとなる。
そして話は少しだけ戻るが、お茶のミスト粒子の細かさと思い出し笑いの我慢の度合いあるいはその面白さは、比例するだろう。
僕は今までそれほどちゃんと毒霧のことを気にしていなかったが、あらためて考えてみると毒霧を噴く彼自身が一番危険なんじゃないかということに気づいた。
さすがに液そのままを口に含んだまま試合進行はできないだろうから、袋かなにかに入れているのだろうが、それでも破裂の危険は常につきまとう。
霧でも効果のある刺激物が、もれなく口内で炸裂するのである。
危険だ。
そして試合において、相手以外の危険を口の中に仕込んでおいてもよいのだろうか。
試合への集中力の数%は、確実に口の中を気にする事に費やされるに違いないだろうし。
と、夢のない話はここまで。
毒霧のインパクトはプロレス技のひとつと数えられるくらい、ちゃんと確立している。
物理的な攻撃というよりは心理的なものである気もするが、その点もよく見ればプロレス技としては数少ない「MPにダメージを与える」という、プレミアの高い技だといえよう。
次回は毒霧についてなんか考える。

混ぜてみました。

颯爽!! カウンセラー手品師の今日!!
「じゃあ手に取ったハートの6を、コンプレックスに感じているところへこちらへ見えないようにあててください」
「なぜあなたが、私が差し出さなかった方の手を見たのか、一緒に考えてみましょう」
「そう、子供の頃からお父さんが仕事ばかりしていたの・・・。ちなみにこの封筒にお父さんの名前が書いてある紙を入れておいたから、確認してみて」
「あなたが破った家族写真もほら、この通り」
「はい。これで悩みは消えました」

骨髄異色

「生みそずい」の「ずい」は何なのかを書こうと思ったが、既にそう思っていた人が多数で、みんなすごいなの心境。
みんな、それほど忙しくないんだなの心境。
由来は「ずいずいずっころばし」の「ずい」らしく、神髄や随一の「ずい」に通じるということで、それが意味だそう。
となると「ずいずいずっころばし」の「ずい」は何なんだという気にもなるがよくわからず、とりあえず「驚きの白さ」とでも訳できればいいのではないだろうか。
今回、不条理というか楽したい方針が取られている事については、返す言葉もない。
ただ「ごまみそずい」と続く事が、何かしらヒントになるかもしれない。
「ごまみそ、驚きの白さ」はかなりおかしいため、もう少しちゃんと考えるか。
ここは発想の転換というか、生みの親より育ての親というか、先ほどの「生みそずい」を考えよう。
「生みそずい」の「ずい」は「随」であり「髄」だった。
「ごまみそ髄」
ごまみそのプロはその技術の高さを尊ばれて「あいつは骨髄にごまみそが詰まっている」とでも比喩されたのかもしれないし、されなかったかもしれない。
それを決めるのはあなたの道徳心だ!!。

肉は切るし、骨は断たせるし。

久しぶりにジョギングをしたら次の日、体中が痛いこと痛いこと。
骨にとげが生えたらこんな感じになるんじゃないだろうか。
それでも暇には勝てず、自転車でどこかに行こうか。
しかしその自転車がつらい。
痛い。
今日が試合じゃなくてよかった。
試合をするような何かをしていないのだが、とにかくよかった。
それでも自転車をこぎ、特に行き先を決めるわけでもなくふらふらと走り出す。
痛い。
太ももの、こことここが特に痛い。
今日がアグレッシブな祭りじゃなくてよかった。
近所の祭りに参加したこともないんだが、とにかくよかった。
神社。
よくわからない神社についた。
ここはどこなんだ。
神社へ行くためには100億万段くらいある階段を上らなくちゃいけないようだ。
足が痛いなあ。
少なくとも今日、僕が変形ロボじゃなくてよかった。
今日にかぎっては変形できないから、とにかくよかった。
骨にとげ生えてるから、攻撃力は高くなってんだけど。

靴下模様の空飛び猫

以前からちょくちょく書いているが、飼い猫がよく靴下をくわえて持ってきて鳴くんである。
聞くところによると、猫なりに「持ってきたったぞ」と獲物を与える母親風な意味もあるんだとか。
となると猫飼いがまっさきに考えるのが「お金を持ってきてくれればいいのにねー」なのだが、それはあまりに現金というもの。
「カルカン」
パックに入ったカルカンを持ってきたら、それはかわいいだろう。
人間側としては「あけて」と解釈する事ができ、それはいつもはつっけんどんな猫が甘えている証拠だから。
しかしかわいさの面で行くと、これもなかなかだ。
「ペディグリーチャム」
まちがっちゃったのー?とだっこしてあげたくなる事うけあいである。
と、この流れ、だ。
この流れだとどうしてリモコンやなくしていたペンダント、勇気、領収書などになっていくことは明白だ。
それはいやだ。
しかしそれ以外はどうだと考えてみても、いまいち思いつかない。
逆に新鮮なのが「ねずみ」だ。
なんとなく昭和の風を感じながら、「猫とねずみ」の絶対的相性のよさを噛み締める事ができる。
「流れぼし」はどうだろう。
完全に童話、CMの感じで少々気持ち悪いが、見た感じはいい。
ただ、現在屋根の上に登るのが好きな猫はどのくらいいるだろう?。
「丸まったアルミホイル」は?。
ちょっと悪意があるな。
「小石」
ある意味、もっとも心配で、怖いものである。
どんな意味があるのか分からない。
転がして遊んでいたものなのだろうか。
きばの間に挟まってしまったのだろうか。
小石を一つずつ持ってきて嫌いな風呂を埋め尽くそうとでもいうのだろうか。
猫も胃石が必要なのだろうか。
無能の猫だろうか。
猫に無能はないか。

溶かす訳には行かない話。

カレーの中に当然という顔をして御座るジャガイモにそれほど文句もないが、何となく思うのは「各家庭におけるカレーの違いのほとんどは、ジャガイモの大きさなのではないか」ということだ。
よく家庭別カレーの違いについて話の盛り上がる事がある。
しかし考えてみると、石臼の調子からスパイスの調合などといった、料理をする事を自慢げに話す独身男性のような家庭はあまりなのではないか。
それはカレーの違いがメーカーの出すルー種別に絞られていることを示す。
となると違いというのはそのルーの種類と、せいぜい具についてくらいなのだ。
ルーといえばバーモントカレーだ。
数多くの他メーカーが新ルーを開発し続けてきたが、いまだその牙城がくずされたということを聞かない。
もうバーモント州の人に申し訳ない気持ちになるくらい、日本人にとってバーモントはカレーなのである。
そうなると、もう具だよ違いは。
僕は、初めてキャンプを経験する子供たちが一番驚く事といったら「自分の家とは違うサイズに切られたジャガイモ」そのものなのではないか、と考えている。
そして差異のある認識上のジャガイモ片と目の前のジャガイモ片。
どちらが正解なのかがわからないため、その驚きを隠そうとする。
うちのはもっと大きい。
大きく切るよ。
そういったところからストレスが発生、人格形成などに支障をきたすから、カレーに入れるジャガイモ片の大きさは妥当な線を前もって調べておき、それを家庭でのデフォルトとする。
そのくらいしないと、こんなくだらない話がなりたたないわけでして。

共鳴は産道を伝って

去年のおおみそかも、夜中に川沿いの神社へ様子を見に行ってきた。
「様子を見に行った」というのは的を得ていて、財布すら持っていってないから、おみくじをすることも賽銭を入れる事もなく「おー並んでいるな」と感心するだけなんである。
事実、賽銭箱の前にはなかなか長い列ができていて、この列の長さが長いほど不況だったりするのかもしれないなどと考え。
しかしみんな楽しそうだ。
夜中に出歩き、しかも神社の明るさやたき火が放つ明滅が新鮮なのだろう。
ぼくだってそういうがあるからこうして自転車で寒い中をわざわざうろうろしているわけだし。
そう遠くないところから鐘の音が聞こえてくる。
近くにお寺があり、そこはおおみそか「お坊さんの手ほどきで自由に鐘ついていいよ」運動が行われているのだ。
さっそく様子を見に行った。
自転車でそこへ向かう途中、そこでも列ができていることに気づいた。
鐘をつく列だ。
この列は、ちょっと腑に落ちない。
おみくじ、賽銭が何かしらメリットがありそうなのに対して、「鐘をつく」システムにそういったものは一見なさそうだから。
たまたま「鐘あいてます」などと貼り紙のしてある鐘があったりしたらつくかもしれないが、わざわざ並ぶかな、と思ったのだ。
鐘とつつき棒?の間にアロンアルファをつけておいての実験だとしたら、少し気にもなるか。
しかしそれでも並びはしないだろう。
前の人の結果を見ればいいのだ。
鐘とつつき棒?の間にアロンアルファをつけておいての実験と見せかけておいて、ただアロンアルファのチューブを思いっきりつぶしてみようということなら、少し気にもなるか。
しかしかなり離れたところで見物できればよい。
トマトをつぶすという、日本版トマト祭りというのを考えてみた。
しかしおおみそかに、鐘でやるすじあいは、トマトにも寺にもない。
これならかなり興味が引かれそうだというのを今考えてみると「ハンバーグの生地を下に置いた状態で鐘をつくと、味が良くなる」とか「鐘の下に置いたメトロノームがぴたっと止まる」とか、そういうのがいい。
そういったものがない、ただ鐘をつくのもなあ。
ところが考えてみると鐘をつくというのは一般的な人生においてそんなにあるものじゃなく、興味が出るのは仕方ない。
しかも、おおみそかだから出歩いてみたとしても実はそれほどアミューズメントに富んだところはないので、鐘でもつついてみようかと並ぶ気にもなるのである。
そしてもちろん、以前どこかで僕も鐘をついているわけで、しかも驚くべき事に、その鐘には貼り紙はなかったはず。
僕は反省し、この寺の水路にいるカワニナを探そうと小道に入る。
水がない。