共鳴は産道を伝って

去年のおおみそかも、夜中に川沿いの神社へ様子を見に行ってきた。
「様子を見に行った」というのは的を得ていて、財布すら持っていってないから、おみくじをすることも賽銭を入れる事もなく「おー並んでいるな」と感心するだけなんである。
事実、賽銭箱の前にはなかなか長い列ができていて、この列の長さが長いほど不況だったりするのかもしれないなどと考え。
しかしみんな楽しそうだ。
夜中に出歩き、しかも神社の明るさやたき火が放つ明滅が新鮮なのだろう。
ぼくだってそういうがあるからこうして自転車で寒い中をわざわざうろうろしているわけだし。
そう遠くないところから鐘の音が聞こえてくる。
近くにお寺があり、そこはおおみそか「お坊さんの手ほどきで自由に鐘ついていいよ」運動が行われているのだ。
さっそく様子を見に行った。
自転車でそこへ向かう途中、そこでも列ができていることに気づいた。
鐘をつく列だ。
この列は、ちょっと腑に落ちない。
おみくじ、賽銭が何かしらメリットがありそうなのに対して、「鐘をつく」システムにそういったものは一見なさそうだから。
たまたま「鐘あいてます」などと貼り紙のしてある鐘があったりしたらつくかもしれないが、わざわざ並ぶかな、と思ったのだ。
鐘とつつき棒?の間にアロンアルファをつけておいての実験だとしたら、少し気にもなるか。
しかしそれでも並びはしないだろう。
前の人の結果を見ればいいのだ。
鐘とつつき棒?の間にアロンアルファをつけておいての実験と見せかけておいて、ただアロンアルファのチューブを思いっきりつぶしてみようということなら、少し気にもなるか。
しかしかなり離れたところで見物できればよい。
トマトをつぶすという、日本版トマト祭りというのを考えてみた。
しかしおおみそかに、鐘でやるすじあいは、トマトにも寺にもない。
これならかなり興味が引かれそうだというのを今考えてみると「ハンバーグの生地を下に置いた状態で鐘をつくと、味が良くなる」とか「鐘の下に置いたメトロノームがぴたっと止まる」とか、そういうのがいい。
そういったものがない、ただ鐘をつくのもなあ。
ところが考えてみると鐘をつくというのは一般的な人生においてそんなにあるものじゃなく、興味が出るのは仕方ない。
しかも、おおみそかだから出歩いてみたとしても実はそれほどアミューズメントに富んだところはないので、鐘でもつついてみようかと並ぶ気にもなるのである。
そしてもちろん、以前どこかで僕も鐘をついているわけで、しかも驚くべき事に、その鐘には貼り紙はなかったはず。
僕は反省し、この寺の水路にいるカワニナを探そうと小道に入る。
水がない。

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