なんてことで前日までアイキャッチどうこう、を書いていましたが、ずいぶんなものを忘れていた。
水戸黄門だ。
最近やっている水戸黄門を見てみた。
僕の見たタイミングでのアイキャッチは「置かれた印籠を、斜めから見た」というものだった。
・・・いいんじゃないか。
すごくいい。
昔は確か御紋のアップだった気がする。
それが、印籠を置いて斜めから見ちゃうんだもの。
夢広がるわ。
必然的にふたの開いた状態を斜めから見るアイキャッチもあるだろうし、上空からの映像で、脅威のズームで印籠が!!、というアイキャッチもいい。
びちゃびちゃになっている印籠も味があるし、電子顕微鏡で見た印籠の表層やX線による非破壊検査の結果を簡潔に示すのもいいだろう。
黒光りした部分に指紋がつきまくっていたりしてたら臨場感がわくだろうし、全然違うものとのコラボ、例えば印籠と計算機なんてのも、なんだ水戸の隠居はインターナショナルだなと感慨深くなる。
もちろんここまでいかなくても、印籠をさまざまな角度から見せるアイキャッチというだけでも、アイキャッチが、さらには水戸黄門自体がもっと面白くなるのではないだろうか。
大昔の少年向けスパイ道具図解のように、いろいろな機能を図示してもいい。
おそらく嘘なのだろうし、サイズ上どうしても十徳ナイフ臭がするかもしれない。
しかし夢はある。
図示するとなると、助さんだか格さんだかが、どこに印籠を隠し持っているかどうかを示してもいい。
助さんの全身像と、その胸元に向けられたやじるし。
番組終盤が楽しみになるじゃないか。
印籠をごみに出すとき、どう分別するかの図解もいい。
「印籠についていたふさふさは燃えるごみだったから、これも燃えるごみだ」
知識になる。
もちろん印籠でないものもクローズアップしてみたい。
かざぐるまは既にあるかもしれない。
こう、くるくる回る感じで。
しかしあまりにかざぐるまがたくさんあると、なんか恐山なので、数は気をつけたいところ。
八兵衛はだんごか?。
両手にだんごを手にした八兵衛はハイパーモードだろうし。
そこで、ここではオールスター総出演という事で印籠とかざぐるま、そしてだんごをそろえてみよう。
なんか、広告だ。
投稿者: nimbus7942
アイキャッチのあゆみ4
昨日からのつづき。
【あらすじ】
アイキャッチが現在のかたちにいたるまで。
=====
現在アイキャッチは、番組とCMあるいはクレジットとの間を埋めるという重大な役割を持っている。
しかしそれにとどまらず、様々な進化も遂げているのである。
先日、2時間のサスペンスドラマを見ていたとき、ちょうど中盤時のCM前にて今までのダイジェストが行われていた。
これもアイキャッチの一種である。
単なる中継ぎだけでなく、1時間後でも視聴者を増やそうとする強い意識が見られ、好感が持てる。
ただひとつ気になるのは、「2時間後の事件の結果」は行われていない点である。
後半1時間の半分は犯人の諸々となるため、それをダイジェストにすると少々味気ない感じになるのかもしれない。
しかしここは是非、ドラマ最後の「事件解決までのダイジェスト」を考えていただきたい。
未来への課題である。
一方、サスペンスドラマ終了直前にみられる、主人公とサブキャラとのひとこまも、アイキャッチの一種である。
本来ドラマを終え、次の番組までの閑暇であるはずの時間帯でも視聴者を手放さない姿勢が、そこにはある。
ちなみにアニメではこの方法は「次回予告」という形になるようである。
ドラマ以外でも用いられるアイキャッチの一種に、CM前後で同じシーンを放映する方式がある。
これは一般的には視聴者の怒りの対象になりやすい。
しかし番組の理解度を高めるという点では、他のアイキャッチの追随をゆるさない。
番組ののりしろとして、CM間をつなぐことにより番組の理解がよりよく行われ、結果的に他チャンネルへの移行の防止、それに伴いCMもより見てもらえるという綿密な戦略なのである。
このように、我々の身の回りには数多くのアイキャッチが存在していることにある。
では、アイキャッチの今後はどのようなものであるだろうか。
考察されているものはいくつかあるようである。
・番組中で使用された雑貨などをアイキャッチにて紹介する。
すでに番組と関連づいたCMがされていたりするが、さらにそれを積極的に取り込んだアイキャッチである。
CMを自動的に除去する機能を持ってしてもこれは除去されない。
これが何らかの解決になるのか、あるいは新たな火種になるのかは今のところ不明である。
・その日のニュースを表示する。
番組の内容によっては、アイキャッチに関連づいたものを表示することが難しい場合もある。
そういった番組では、アイキャッチのタイミングにてニュースを表示する。
宝くじの当選番号、競馬の結果なども考えられ、非常に実用性に富んだ方式と言えよう。
・アイキャッチのたびに、じゃんけん。
アニメ「サザエさん」では番組ラストにて「じゃんけん」の要素を取り入れた。
これが各方面に多大な影響を与えた事は、もはや揺るがない。
将来、このたぐいの要素はアイキャッチにも取り入れられることだろう。
なお、由美かおるの入浴シーンや新人アイドルのPVなどもこの方式に含まれる。
・映画「トゥルーマンショー」のように、番組出演者がそのままCMをつとめる。
これは現在「はなまるマーケット」での生コマーシャルがそれに近いとされている。
けっこう、出演者の好感度があがりそうである。
考察されているもののなかでは特に「アイキャッチと称して、ちょい番組を進める」というものが現在注目されている。
より他番組へのチャンネル移行を阻止できるとして期待されているわけであるが、こうなるとCM自体が今まで以上に不要とされやすくなる。
アイキャッチとCMの共生を目指して議論していく必要があるだろう。
このように、未来に向けられたアイキャッチの話は事を欠かない。
これからもアイキャッチは、今まで以上に我々の目を楽しませてくれることだろう。
結論
「アイキャッチのあゆみ」って、なんかスナックのおねえさんみたい。
アイキャッチのあゆみ3
昨日からのつづき。
【あらすじ】
アイキャッチの近代化。
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その有効性が認められた「ゆび相撲によるアイキャッチ」だが、しだいに視聴者は混乱するようになってしまった。
すなわち、ゆび相撲のほうに注目が集まるがゆえの「ドラマを見ているのか、ゆび相撲を見ているのか、わからなくなった」というところである。
当初、視聴率さえあがっていれば問題なかった放送局でも、これを解決しないわけにはいかなくなってしまった。
ドラマとアイキャッチを両立させようとし、結果ともだおれになることを恐れたのである。
そこで2つの方針が取られた。
1:ゆび相撲中継の合間に、ドラマじみたCMを挿入する
2:あくまでドラマ本意とし、ドラマとCM間の合間(すなわち今日のアイキャッチ)はドラマと関連した内容を放映する
1については、いっそのことゆび相撲を主とし、ちょうどCM際の5秒ほどのところにドラマを行うというものである。
人気はあるが、そんなに長い間ゆび相撲だけを行うのは間が持たないのではないか。
そう懸念されたが、放送当時は概ね好評だった。
しかしすぐに問題が露呈する。
「5秒じゃドラマがわからない」というものだった。
実際はアイキャッチが計4回行われるため、20秒あるはずである。
以下、ある週のドラマ部位である。
「おいおい、今日はポトフじゃなかったかい?」
「ジェーン、ここに座りなさい」
「ほら、窓のところに靴のあと」
「まだ遠くには行っていない」
各5秒、計20秒でのやりとりであるが、これで「腕に青あざができていたジェーンだが、どうやらそれは狂言であるらしい。しかしジェーンに狂言をさせるほどに学校は荒廃しているのではないだろうか。次回につづく」という内容を網羅するのは、そして理解するのは無理があるというものである。
一部「5秒の方が想像力を働かせることができ、面白い」という意見もあったが、どちらにせよ期待した方向づけは、5秒ドラマではできなかった。
さらに都合の悪い事に、ちょうど上記5秒ドラマが放送された日のゆび相撲に、腕に青あざができていたスタッフも参加していた。
視聴者がさらなる混乱にさらされたのは、いうまでもない。
ちなみにこのときでも、ゆび相撲はスタッフが行っていた。
どちらにせよ、アイキャッチは2番。
ドラマとCM間の合間にドラマと関連した内容を入れ込むかたちとして、現代に至る。
それはその必要性というよりは消去法によって生まれたものなのであった。
つづく。
アイキャッチのあゆみ2
昨日からのつづき。
【あらすじ】
アイキャッチのあけぼの。
=====
広告用のボードを用意できなかったため、ドラマとCMのあいだを「ひとりゆび相撲」でやりくりしようとしたドラマスタッフ。
その番組進行中は、超おこられることを覚悟していた。
しかし事態は思いもよらない方向へと発展した。
放送局に大量の視聴者からの意見、それはもちろん「あれはいったいなんだったのか」というものだったが、思いのほか怒りの意見は少なかったのである。
むしろ「何だったのかはわからないが、あれは何か今後のドラマに関係した何かなのか」や「スタッフの指きれい」など、番組に好感を抱いたかのような意見が多かったのである。
この意外な出来事を冷静に調査した放送局は、CMの都度にゆび相撲を行う事にした。
まずは試験的に、事態の発生したドラマでそれは行われた。
大いに意味のある試験だった。
放送局にはゆび相撲の熱戦を讃えるものから勝敗のいちゃもんまで、さまざまな意見が届けられた。
ドラマよりも、むしろゆび相撲を見るためにテレビをつける、という人まで現れた。
CM前のゆび相撲が、視聴者をくぎづけにする要素になったのである。
当時、この生放送ドラマ「おまえの内股でこの手をぬくめたい」の内容に変更が加えられた事が、その影響をよく示している。
もともと野球の選手だった主人公がゆび相撲の選手に変更、最終回は、傷だらけの指先を自分の内股に挟むシーンで終わるラストを迎えることになったのである。
このゆび相撲中継が、アイキャッチのはじまりであると認識されている。
そしてすぐに、アイキャッチは転機を迎える。
ポイントになるのは、漫然と人々が胸にしまい込んでいた「ドラマを見ているのか、ゆび相撲を見ているのか、わからなくなった」という点。
これに対し、2つの方法が提示される。
・ゆび相撲中継の合間に、ドラマじみたCMを挿入する
・あくまでドラマ本意とし、ドラマとCM間の合間(すなわち今日のアイキャッチ)はドラマと関連した内容を放映する
次回。
アイキャッチのあゆみ
?アイキャッチのあけぼの?
アイキャッチ
番組前後や番組中のCM前後に5秒ほど挿入される番組のタイトルや象徴のこと
例)
ルパン三世:CM前後に挿入されるルパンが普通自動車に乗り込もうとしてハンドルが外れての「あり?」
推理サスペンス:CM前に挿入される最初1時間分のダイジェスト
=====
アイキャッチのはじまりは、多くの人が予想する「いきなり番組がはじまるのもなんだから、さあいまからはじまるよという感じのものを挿入しよう」という発想からではないことが知られている。
1964年、アメリカで放映されていた「おまえの内股でこの手をぬくめたい」は、生放送が売りの超人気ドラマだった。
この時代でも、既にCMに相当する時間がドラマ中でもうけられており、それはそのタイミングでスタッフがカメラ前に広告のボードをかざすという方式だった。
その日、順調にドラマは進行していた。
「ああさっぶい。さっぶいねえ」
「そうね」
「ねえほんと、さっぶいねえ。指先の感覚が全然戻らないよ」
「ええ」
「なあ見て、俺の内股。ほらもう手の跡の凍傷が」
「わあひどい」
「手が冷たすぎて。もう全然、自身の内股使えないのよ」
「ええ」
「使いたいわー。内股使いたいわー」
「で、わたしの内股にもその手形を残す気?」
本来、ここでCMの予定だった。
しかしこの日は計算外のことが起きたのである。
それは予定していた時間よりも、ずいぶんと早くドラマが進行してしまっていたこと。
スタッフがCMの準備としての広告ボードを全く用意していなかったのである。
一見、そのようなボードは既に用意されていると考えられると思うが、当時は広告主から、放送の寸前に内容を変更するよう求められる事が当たり前のように行われていた。
「ここの【あたり一面別世界】のところ。ここを【皮フをはさんで別世界】に直してくれ」
そのため、時間ぎりぎりまでスタッフは準備をしていなかった。
さて、ドラマの出演者がCMだと考えていたところで、スタッフには何も出す物がなかったのである。
CMが始まるものと動きを停止した出演者、状況を把握し青ざめる現場の人間が見たもの。
それは広告ボード担当のスタッフがカメラ前で「ひとりゆび相撲」をやるシーンだった。
誰もがアイデアを出せなかったなか、彼はひとりでゆび相撲をやった。
画面には両手だけが映し出されており、それがひとりでやる以上しかたがないのだが、親指が上下に向いた組み手だったという。
上下の親指が相手なくぱたぱた動いている間、別のスタッフが急遽広告ボードを用意、10秒ほどのち、CMが行われた。
CM後、何事もなくドラマが進むなか。
スタッフ全員は番組終了後のことを考えると滅入ってしかたがなかったという。
つづく。
大器晩成
「大器晩成」という言葉はけっこうおもしろいのではないだろうか。
「わたしは大器晩成型です」
どうだろう。
あやしいのではないだろうか。
本当に「大器晩成」なのかどうかは、正直「わたし」なる人物が死ぬ直前までわからないのではないだろうか。
一見、着々と力をつけているように見えたとしても、それはあくまで「大器晩成っぽい」「大器晩成ふう」である。
たとえばそんな力をつけてきた人が突然、唐草模様のふろしきをマント代わりにしてデパ地下を暴れ回ったあげく、頓死してしまったとする。
彼を「大器晩成」と言えるだろうかいいや言えまい。
大器晩成というのは、一般的には寿命ぎりぎりまでチェックが入るものなのであり、その結果がどうにも不明である分、あやしいのである。
ただ、その展開が早くおとずれることも、あることはあるだろう。
「わたしは大器晩成型です。え、遠い親戚が莫大な遺産を、わたし名指しで?」
こうもなると、「わたし」は大器晩成の大器晩成たる何かを成すこともできそうだ。
しかし一方で、晩成というところを真に受けてしまうと、もう余命幾ばくもない感じもし、生き急ぐなよと言いたくなる。
「わたしは大器晩成型でした」
上記のあやしまれる点を払拭している。
しかし、こう返されてはもう立ち直れないだろう。
「え、今のおまえが?」
また、やはり生き急いでいる、あるいはもう燃え尽きている感もあるため、こうは言いたくないものである。
本来はイケてる意味なのだろうが一般的に、「大器晩成」というのはちょっと今はだめだよね、を遠回しに言うときに用いられている。
「おまえって、大器晩成型だから」
こう言われた時点で、「おまえ」は現状いまいちであると認識させられる事と、すぐさま「それって今はだめってことじゃんよ?」とちゃらけて言う事を強いられなければならない。
大器晩成ということばの威厳を保つためには、以下のような用法を行うべきだ。
「5年くくりで、わたしは大器晩成型です」
昨日今日が「大器晩成ふう」でも、とりあえず結果だけでも分かりそうなので安心なわけだ。
保証もついているのだろうし。
ただし、おじいちゃんがこう言ったとしたら、どうにもあやしいだろう。
「わたしは大器晩成型です」
おじいちゃんはこれでいい。
ちなみに「大器晩成」の意味を調べてみると、今回の解釈に必ずしも誤りがないとは言えないことに気づく。
それでもなお今回の内容。
当方大器に至らず。
なめくじ
なめくじに「かかと」があるのか、ということは全然考えていなかったが、なめくじの話だ。
なんとなくだが「かかと」がしっぽの部分だとしたら、かかとかさかさななめくじは進む事ができないだろう。
小さい頃、なめくじの通ったあとの粘液を見て心配だったのは「あのねばねばは、なめくじのかけらみたいなものであって、進めば進むほどなめくじは削れて小さくなってしまうのではないか」ということだった。
進めば進むほど小さくなるなめくじを想像して、幼いながらに消費社会におけるある種の顛末を見せられたような気がしたものだ。
うそである。
僕がむしろ心配していたのは「進んでいるなめくじのすぐ後ろを進んでくるなめくじは、どんどん大きくなるのではないか」というものだった。
例の粘液を吸収していき、巨大化する。
雨の日、塀をF1っぽく相手の後ろをとりまくるなめくじたちを想像し、ある日ぼたりと夏みかん大のなめくじがいたらどうしようなどと考えたものだ。
そこまで巨大化するのは大変だったろう。
こう道ばたに落ちているのも、あまりに体が大きく、重くなりすぎて塀にへばりつけなくなったがためだ。
なんとなく垢擦りで垢がこんなにとれました、というのを思い出しながら、僕はそんななめくじを見たときのために、驚くシミュレーションなんかをしていた。
うそである。
僕は昔から、なめくじに対してなんら感情を持ち合わせてはいなかった。
まあ、気持ち悪かった。
かたつむりほどに持つところもなく、分泌系で、何より「つー」と進むのだ。
「つー」と音を出して進んでるようにすら見えた。
そしてなにより、これ以上に決定的な何かが僕となめくじのあいだには起こらなかった。
サンドイッチのなかに入っていたとか、額を這われたとか、あるいは逆に卒業式の日に塀に「おめでとう」となめくじで書かれていたとか、なめくじをいじめようと探していたら「しおやめて」となめくじで書かれていたとか。
こんなにも何も起きないかね、なめくじとは。
決定的な何かが、僕らには起こらなかったのである。
なのになぜ今回、なめくじなのか。
それは例の、かかとってくだりが、さ。
めめについて
めめというちゃとら猫を飼っている。
彼女はもう1年くらい前だろうか。
うちの庭にふらふらと現れた。
「ふらふら」というのは、実際目的地もなかっただろうが、その姿にも通ずるものでもある。
やせ細っていて、年齢も不明。
病気を持っているかもしれないので家には入れられない。
とりあえずエサを与えるために捕まえようとした家族が見たのは、病的に薄くなった毛のなかを颯爽と走るノミだった。
猫の毛のなかを走るノミは素早い。
しかしとにかく颯爽と走り抜けるので、なんだか気持ち良さそうに見える。
猫にとっては小さい虫が体表を這い回っているということで、くすぐったいことこの上ないだろう。
猫はノミにとってハイウェイなのかもしれない。
ノミはもういいが、とにかくめめはぼろぼろだった。
けっこういいところを省略するが、現在は少し毛の少ない事以外はいたって元気で、かすれた声で甘えてくる。
おそらく彼女に取って今の生活に不具合はなく、せいせい服を着させられるから自分の体がなめづらいことくらいだろう。
ところで以前、彼女の尻から虫、いわゆる寄生虫が出たらしいのである。
回虫だろうか。
僕は見た事ないが、そんなことを家族が言っていた。
いきつけの動物病院に行ってもいいのだが、何となく市販の虫下しを試したところ、どうやらいなくなったようす。
人に入り込んだら目に潜入して失明させてしまった例もあるらしく、おさまってよかった。
と、このような由来がある以上、彼女は何かにつけて「虫でちゃうし」と言い含められる事が多くなってしまった。
甘えてきても、なでられつつ「虫でちゃうからねー」と言われてしまう。
ねこじゃらしで遊んでいても「興奮しすぎて虫でちゃうかもしれないから」と言われてしまう。
ひなたぼっこをしていたら「寝ながら尻から虫がでる」と、どこかで聞いたような語呂のが誕生してしまった。
猫ですらこうなのだから、検便的なもので虫が疑われてしまった子供は大変な憂き目に合ったことだろう。
憎むべきは虫である。
ちなみにめめは慢性鼻炎だそうだ。
今もズボンに甘えられて鼻水をつけられてしまった。
悪魔が来りて笛を吹く。
現在ふとんのど真ん中で寝るのが彼女の流行だ。
黒洞々
「暗がりから牛」ということわざがある。
暗がりから牛が出てきても、暗がりだからよくわからない。
そもそも牛がいたのかもわからなかった。
区別がつかない、という意味だったように思う。
あと動作がのろいという、あんまりな意味もあったか。
とにかく、この時点でかなり何なのだ。
牛でなくてもいいのだ。
犬でも猫でも、人だっていい。
その時点でわかってなくったっていい。
「暗がりから何か」
なんやことわざができたときですら、それが何か区別つかなかったんか。
それはまさに「区別がつかない」という意味そのものであり、より端麗だ。
しかしこのことわざで僕が気になるのは、「暗がりから牛、なんか怖い」ということだ。
けっこう、ホラーじみているような感じがする。
一時期このことわざの意味は「怖いこと」だと思っていた事があるくらいだ。
となると、ここでも問題になるのが「牛でなくてもいい」というもの。
それこそ先ほどの「暗がりから何か」は、かなり怖い。
一方、怖い方面で考えると犬、猫、人はちょっと牛には劣る。
「暗がりから白い手」なんてのはもう悪意がある。
手の方に悪意があり、たいへん怖い。
ゆるせない。
白い手ゆるせない。
でも、その白い手が缶ビールを持っていたりすると事態は少しだけ変わる。
最終的には怖いが、その前にいろいろ考えるはずだ。
プルトップが開けられていたら乾杯を要求しているのかもしれない。
ほんの少しだけ斜めに持っていたらCMかもしれない。
僕が思うに、冷えてない缶ビールだったら、怖さは白い手ノーマルのときよりも倍増する。
「乾杯をしようとする残留思念。もう時間が経ちすぎて、ビールも冷えていないというのに」
こう感じるからだ。
白い手以外で「暗がりから何か」を考えると、正直たいがいのものは怖い。
怖くないものなんてないくらいだ。
ただ、ひとつここで何か挙げてとなると、今のところ僕は「暗がりからドアノブ」と答えるだろうか。
MIB
「もしもし、武田?」
「はい武田です。ああ先輩ですか。どうも」
よくある携帯電話でのやりとり。
用件がやり取りされる。
おやおや、先輩と武田の用件は、ゲームの事のようですね。
「その村、入り口に隠し通路があるから、その奥にいる村人に話しかけるんだよ」
しかし唐突に武田から電話が切られる。
「ああそうなんだ。あれ、すいません先輩。いまちょっ」
すぐにかけ直す。
「なんか切れたな。武田?」
「ハイ、タケダデース」
=====
ありがちなお笑い話かもしれないが、結構奥が深いと思う。
まず「先輩」はこう思うだろう。
知らんやつが電話に出た。
なぜか武田は電話に出られないらしい。
何かあったのか、と。
次に、もしかしたら電話の内容が何かしらの国家機密であるとか、著しく公言してはいけない内容だったろうかと回想する。
それを話してしまったが故に武田は捕まってしまったのか。
そのあと、すぐに訪れる2つの恐怖。
自分も捕まってしまうかもしれない恐怖。
村の隠し通路の話題に何ら後ろめたいことはないが、実際武田は知らん人になってしまった。自分もそうされてしまう、そんな恐怖。
そして「明らかに武田でない誰かが武田のなりをしようとしている」のが何よりも怖い。
それは「すごいことになってしまったが、それを何もなかったかのように振る舞おうとする」意思だ。
しかも、何もなかったかのように振る舞うためには最重要そうな「武田」が下手すると日本人ですらなさそうなこと。
かなりの緊急性をはらんでいることが想像される。
「タケダデース」は、一人の存在が不明になってしまった以上の緊急性が起きた事を感じさせ、「先輩」を驚愕させ、「もうゲームなんかやらない!!」と思わせるだろう。
実際にいたずらをやってみたい気もする。
「電話がかかってくるから、ちょっと僕のなりして対応してくれない?」
ただ心配なのが、思いのほかその2回目の電話が盛り上がってしまったらというところだ。
個人を否定された気になった僕は、その場で顔を覆ってしゃがみこんでしまうかもしれない。
そして次からはこうだ。
「ハイnimbusデスケドー」