あやつり人形というものを想像すると、「糸で吊るされたやつ」が思い出される。
何となくなのだが、「吊るされている」という段階で人より劣ります感が出まくっている。
上から引っ張ってもらわない限り、力なくだらりとしているんだろうから。
収納されているときを想像すると、とてもざんねんだ。
となると、棒をつけて下から操作するタイプのあやつり人形というものはあるのだろうかという話になるが、これは確か見た事のあるような気がする。
教育テレビあたりで。
で、これはどうかというと処刑風だ。
糸に比べて細かい操作がしやすそうだが、いかんせん串刺し。
収納風景は、一見そういう調理方法?、といった感じだ。
長い棒の両脇に人形を付け、その間に人が入って操作するタイプも思い出した。
ものまね王座あたりで見た。
これが他のものと違うのは、「操作するのに人が必要です」がすぐに分かる構造であり、しかも「なんだか楽しい」ということだ。
細かな動きはできなさそうだが、とても楽しそうに見えるのである。
これの収納をどのようにやっているのかは知らないが、収納スペースの関係で、人の入るところに別の人形が入れられていたりすると、非常に哲学的なものを感じる。
人間大の人形で、人がそれ自体を支えてあやつるタイプもあるだろうか。
あるとすれば、それは操作する人自身が人形と同じことをすれば、人形いらないんじゃないかという気もする。
しかし必要なときもある。
もちろん人の入るところに収納する、例の用途である。
投稿者: nimbus7942
執着
実力のあるサッカー選手や野球選手を一言でいうと「ボールに対する執着が強い」となりそうだ。
一時的に観客席やゴールへとボールを放さなくてはならないが、それも一種の執着、愛情表現とでも言えよう。
この観点からすると、一番いいスポーツはラグビーだろう。
「執着」と「しがみつく」ということが、非常に相性がいいためだ。
世の中に「執着されていないもの」はあるのだろうか。
例えばペットボトルのふた。
ほとんどの人にとっては、それは「ふた」以上の何者でもない。
しかし僕の机の一番上の引き出しには「クー」のふたが大量にある。
描かれた「クー」の表情が違うため、何となく集めてしまったのだ。
そこらに転がっている小石だって、ただの小石である場合もあれば誰かが必死に見つけようとしているまさにそれなのかもしれない。
ただこれは「執着」というよりは「思い出」みたいなものだろう。
思い出を胸に疾走するラグビー選手。
なんかの角川映画みたいだ!!。
さりげ
さりげない話、というものに憧れている。
天候や気温の話、近況、「髪切った?」でもいいはずなのだが、どうもうまくできない。
以前書いたかもしれないが「対人魚雷」のパフォーマンスの悪そうな感じだとか、自動ドアが開かなかったから、僕が死んだら葬式でその旨を虫の知らせとしてネタにしてもいいよとか、大陸棚ニューウェーブってなんか面白くない?、とかだ。
先日ダンスの劇みたいなものを拝見し、すごく面白かったのだが、それを誰かに言おうとするときにどうしても必要なのが「ポーズ」だ。
気に入ったポーズがあったのだが、それは口でどうこう言うよりも実際に見せた方がいいに決まっている。
でもポーズはさりげなくない。
さりげないポーズというのは「いつも」だから。
説明に必要なのだから、さりげなくないポーズをするべきなのか。
そもそもダンスの話がさりげなくないのか。
人によっては、さりげない話とは何も話さないことなのかもしれない。
見た目が9割
いまだに「食べるラー油」を食べていない。
なんだかすごくおいしそうな見た目だが、にんにくが苦手なので難しいところだ。
浴びるラー油
アーユルヴェーダ
注文の多い料理店
あびる優
今のは関係ないが、僕には「あまり好きではないが、見ている分にはおいしそうに見えるもの」というものが多い。
ビールは、CMの冷え冷え感がすごくおいしそうに見える。
しかしあまり得意ではない。
生がきもだ。
見た目だけで、なんだか新鮮なものは違うね、くらい感じてしまうのだが、これは完全な食わず嫌い。
食べたらおそらく生がき以上の質量を持つ何かを出す。
どれもこれも、商品をうまく見せられるプロがいるからそう見えるのだろう。
苦手な物もおいしく見せられるなんてすごい。
なめるラー油
ばけねこ
あじみ
ラー油
今のも関係ないんだ、ほんと。
何やら暗い話に。
ソースが分からないのだが、こんなことを知っている。
「飛び降り自殺をした人は、落ちた直後、いったん立つ」
うそだろうか。
それとも何か、有名な話があるのだろうか。
ただ、怖いのは確かだ。
非常に怖い。
でも、何が怖いのか。
ひどい大けがで立ち上がれないはずなのに、立ち上がるのが怖いのだろうか。
その反射的な動きが怖いのだろうか。
僕が思うに「飛び降り自殺して落ちた人」というのを、我々は「既に死んでしまった人」と認識するのではないだろうか。
死んだ人の動くのが怖いのだ。
そして「ただ立つ」というのが怖い。
あまりに日常的でシンプルな動作で自分自身も行うものだから、あたかも死人が自分の存在に介入してきたような錯覚を覚えるから、かもしれない。
例えばこれが「飛び降り自殺をした人は、落ちた直後、お腹からオルゴールが聞こえる」だとどうなるか。
怖い事は怖いのだが、自身にはまず起こりえず、起きてこなかった事である。
だから、死と自分というものが隣接しえないことであると思え、ただ立つほどの怖さは感じない。
死して神になる神話や即身仏の扱い、あるいは偶像崇拝のように、死や命ないものを神格化したり尊んだりする文化は世界にある。
そういった面で考えてみると、ある意味「飛び降り自殺をして落ちた直後いったん立つ人」は生と死の境目を行き来する希有な存在であるとも言えるが、今のところ僕は「飛び降り自殺をして落ちた直後いったん立つ人」を目の当たりにしても、その後ろに後光の見える事はないだろう。
たぶんわーとかぎゃーとか言う。
帰れない二人
「帰れま10」ですらなかなか終わらないのだから、「帰れません」なら全然帰れないねえ。
そうぽろっと言ってしまったとき、ちょっと変な空気になるのを感じた。
な、何か僕おかしな事を・・・?。
「番組最初の方は大進撃だよね」
「第982位!、でもすごくよろこぶよね」
空気ぜんぜん変わんない。
いいから。
普通の「帰れません」のほうでいいから。
どちらも浅はか過ぎの可能性も。
隠す
イヴ「カラーの花が、いいんじゃない?」
イヴ「ウツボカズラも、いいんじゃない?」
そして蛇!!。
どこかで書いた気もするが、まあいいか。
とりあえずモンハンやらな!!。
曲線と断絶
駅のホームで電車を待っていると、向かい側ホームに大きく「2」と書かれたシャツを着た人が立っていた。
「2」はすごく大きくて立派で、「なんの2位だよ」とかのツッコミがあまりにフトドキ。
そのすばらしさに感銘を受けた。
しかし困った事に、このすごさを誰かに伝えようとしても、「2」が「に」であるところが足をひっぱる。
どうも「に」だと気の抜けた感じになる。
こちらがどれほどにだにだ言っても、どうも「に」ではその立派さが伝わらないのだ。
な行がいけないと思う。
な行はやさしいが、その分迫力には欠ける。
その分「ご」は誰しも認める迫力がある。
「ご」に勝てるのはもう2文字以上のものだけで、ある意味異種格闘技枠を考えないとだめだ。
ああ、あの人はなんで「5」のシャツじゃなかったのか。
そうすればその立派さを、まあ「2」ではなくなったけど伝えやすいのに。
だが、あの人はそんな僕にこう言うかもしれない。
「あなたは誰かにそれを伝えなくちゃいけないんですか」
そりゃそうだ。
立派だったんだもの。誰かに言いたい。
「でも、その感動を誰かに伝えたところで、さらに深まるものでもないでしょう?」
そんなことはないですよ。
その人が一緒に感動してくれたら、それは大きい。
「それはただの共感。たとえ伝えなかったとしても、あなたのなかの2が強弱どちらにもゆらぐことは決してないでしょう」
そ、そうですけど。
「わたしは川エビの唐揚げのお皿の下にたまるエビのひげが大好きです」
奇遇ですね!!。
こうして僕は2のことを書いたりしているが、今日のホームでもその人は見つからなかった。
「2」のシャツを着ていないので、わからんのだ。
置換
ある人間と神様の目が入れ替わってしまったらどうなるだろうってことを考えていた。
うそだが、何となくこんなことになるんじゃないだろうか。
人の目を持った神様は、人間の稚拙な騙りを見抜けず翻弄され、神たるちからを行使して破滅してしまう。
神様の目を持った人間は、全てを見通せるけど何ら影響を与えられない自分の非力さに悲観して死んでしまう。
こんな童話がもうあったかもな、とも考えながら、まあ神様と人間の目は入れ替えちゃいけないってことですよ。
ところで、もしそういうことがあるとすると、入れ替えるのは誰だろうか。
たぶん神様自身だろう。
いつぞやか、空から聞こえるのだ。
「入れ替えるひとーっ」
このとき「はーい」と返事をしてしまうと上記の全員参加型カタストロフが待っているため、返事してはだめだ。
かといって「やめといたほうがいいよーっ」とか言ってしまうと、どーんとやられてしまうだろうから、わがままなのな神様って。
おとなしさんの十八番
2 Minute Silenceという曲の紹介がされていた。
2分間、ずっと無音らしい。
詳しくは分からないが、似たような曲はあったような。
すごく長く間をあける曲で、未だに演奏中のやつとかもあるし。
この手の曲で重要なのは、作られた背景と聞き手の補完能力なのかもしれない。
共感できる背景なら聴いている間にいろいろ考えるだろうし、共感はそれほどできなくても無音の曲を聴くという経験はなんらかの影響を与えないわけでもなさそう。
つまるところ補完はもっぱら聞き手の勝手になるわけだが、まあそれが長所とも言えるし、話題にもなるし。
ただ難しいのは、単にこの曲を聴くだけだと、イヤホンで耳栓をした状態とさほど変わらないというところだ。
周辺は音であふれている。
せっかくの無音らしいのだから、そこは無音な状態で聴かないともったいない。
この曲をノイズキャンセラー付きのイヤホンで聴いたらどうなるだろう。
残念ながら、期待するようなことにはならないだろう。
何もないというのは難しいのだ。
しかしより無音を感じる、楽しむ姿勢としては悪くない。
話のタネにもなる。
うちでは猫がなんか夜とか、かっさかっさするので、無音というのはなかなか難しい。
パソコンはシーシー言うし、静かだと思ったら遠くでブレーキ音、モールス信号のような耳鳴り。
無音な感じの環境でこの曲を聴くというぜいたくができたらどうだろうか。
できた方はこう感じるんじゃないかと思っている。
「この曲、たった2分なの?」