ダンボール:一箱分

当ブログは、基本的に時事ネタを避ける。
それは、他のところで確実にここよりおもろいことが書かれるであろうことは想像に難くなく、それってもうお手上げだからである。
もうほとぼりも冷めたのでよいと思うのだが、ダンボール肉まんである。
僕は当時、どれほど世間が「ダンボール肉まん」と「伊藤家の食卓」の2トップをいじるかを、ちょっと気にしていた。
「少しの食材をボリューム満点の料理にパワーアップさせる裏ワザ」。
おそらく紹介されるであろう豆腐や寒天などの合間に、ひっそりとダンボールを紹介すれば、視聴者は気付かないだろう。
僕は、濡らしたダンボールをボールにちぎって入れちぎっては入れ、の映像が頭に流れてしょうがなかったくらいだった。
もちろん、実際はダンボール成分や処理の方法などにより、かなり人体に有害と思われる「ダンボール肉まん」。
しかし、何気に「ぎりぎりイケるんじゃないか?」と思わせる点が「ダンボール肉まん」にはある、と思っている。
そして、俗に言う「裏ワザ」とは、そのようなレベルの題材が一番映えるものであるとも思っている。
「うわー、全然考えなかった。それ、うまく行くの?。でも、もしかしたら・・・」くらいのヤツ。
ダンボール肉まんの件は、ちょうどだった。
※ところで、この裏ワザは捏造である、とかになった。
ざんねんである。
僕らの夢を壊すな、と当局に言いたい。

身乗り出し

何かのCMで、「SMAPの稲垣吾郎氏が、身を乗り出してテレビを見る」というシーンを見た。
僕のテレビ視聴歴は長いが、身を乗り出すほどの番組は、そうはなかったと思う。
かなり興味深い映像だったのだろうか。
・「Mステで、カメラから隠れながら互いの足を踏み、いがみ合うkiroroの映像」
・ノミの心霊写真
・「この番組中、テレビ画面からマイナスイオンが出ます」
こんな感じのものだろうか。
ちなみに、僕はkiroroが大好きです、ということで許してもらいたいとも思っている。
まぁ、あんまし身を乗り出してテレビを見るってときは、ないね。
もし僕が、今度テレビを見るときに身を乗り出すことがあるなら、「下から見るととスカートがのぞけるテレビ」がお求め安い値段で売り出された頃になる。

紫煙八景・緩衝溶媒

「言葉があいだになかったら・・・。距離が縮まっちゃうじゃないか!!。」
ある、おしゃべりな芸人がこう言った。
ごめん言ってない。
僕はなんとなく、「たばこを吸うのと、しゃべるのは似ているなー」と思っていた。
しゃべることが、ある人にとってバリアのようなものであるとしたら、たばこを吸う人にとっての煙も、そんなものであるのだ。
たばこを吸う人を見ていると、こう思う。
「何を和らげようとしているんだろうか。」
紫煙があたりを包む。

紫煙八景・サイテス

新宿にやたら高い喫茶店があって、行ってみた。
そうしたら実際にめったら高くて、「今なら、力いっぱい豆を挽くことができる。」と思ったほどだ。
そこでこんなことを聞かれた。
「禁煙席になさいます?。それとも喫煙席?。」
もちろんこのような意味のことは、あらゆる店、特に飲食店などでは必ず聞かれる。
例えば、僕がたばこを吸う人間であり、そこでも吸う魂胆であったなら「喫煙席で。」となり、僕は喫煙ゾーンに誘われることになる。
ところが、僕がたばこを吸わない人間であったなら、なんと言えばいいのだろうか。
たばこを吸わない人間が必ずその煙に弱いか、というとそうでもなく、むしろ僕はそれを嗅ぐのが好きだったりする。
禁煙席がめちゃくちゃ混んでいるときなどは、たばこを吸わずとも「喫煙席」の方で構わないのだ。
よって、後者の場合「禁煙席になさいます?。それとも喫煙席?。」という質問は結構難しい。
もちろん答えるのは「どっちでもいいです。」と、簡単だが、しかし一方で「どっちでもいいなら、○煙席に決まってんじゃねーか!!」というような、「禁煙席になさいます?、それとも喫煙席?の定石」というものが、一般常識的にあるんじゃないか、と邪推したりしてしまうのだった。
要は、たばこを吸わない人にとって「喫煙席/禁煙席」の相対的なパワーバランスが分からないのである。
それは、たばこを吸う人の人口どうこう、というよりは、社会地位的な意味合いも込められたものである。
ということで「喫煙席/禁煙席」のカテゴリ分けは、「たばこを吸う、吸わない」で分けるものではなく、「たばこの煙に強いかどうか」で分けられた方がいい。
「喫煙席/禁煙席」 という名前も、「強煙席」「弱煙席」とでも言いなおすべきだ。
ただし、この分け方には盲点がある。
「弱煙」体質で、たばこを吸う者のことである。
彼らのために「M席」が必要であることは言うまでもない。
ところで、今ブログは「たばこを吸わない人間が必ずその煙に弱いか、というとそうでもなく、僕はそれを嗅ぐのが好きだったりする。」あたりでかなり破綻しており、普通は「たばこを吸わない人は禁煙席が当たり前。」に決まっているかもしれない。
よって、それ以降の考察は、希少な生物にしか該当しない内容っぽいことを明記しておくよ。

紫煙八景・受動の域

「カマキリにヤニを舐めさせると、酔う」
とにかくソースが思い出せない。
何かの漫画に書いてあった気がするが、ネットで検索してもひっかからない。
嘘かもしれない。
だけど、この話でいぢりポイントとなるものは、その真偽にそれほど左右されないので、安心だ。
なんたって、カマキリなのである。
この話は。
「カマキリは、何かを口に付けられると、舐めてしまう。」
この点に尽きる。
このことは、カマキリに
「口に付いたものを拒否する考え」や、
「口に付いたものを拭き取る機能」がないことを意味している。
かなり潔い昆虫である。
もし、何かの縁でカマキリと心中を図らなくてはならないときは、毒の入った暖かいお茶などでよいだろう。
彼女がそのコップに口を触れたとき、心中躊躇の懸念は消え去る。
咀嚼も嚥下も貴方次第。
そういえば、蚊は「吸い続ける」ことしかできないような話を聞いたような気がする。
蝶も細長い口を持つが、あれは毛細管現象かなにかで液状のエサを吸い上げているような話が、艦内放送で流れたことがあるような気も。
どちらも、「何か知らんけど、勝手においしいものが上がってきました。」感がある。
もちろん、それらが「動物の皮膚」「花」にたどり着いての行動であるならば問題はないが、何故かそれが「たばこのヤニ」だったら、彼らはカマキリのように拒否権がないのかもしれない。
今度、たばこをたくさん吸う人の口を、よく観察しようと思う。

紫煙八景・反面教師

以前、カレンダーにて「ディライト兄弟」云々と書いた。
説明するのもこっぱずかしいが、日本たばこ産業がCMでよく言っている「ディライト」と、空飛んだ「ライト兄弟」をかけたものだ。
これ、僕のイメージだと、「ディライト兄弟」は「間宮兄弟」である。
(唐突に間宮某というのも何なのだが、そんな映画があったのだ)
彼らの雰囲気は、「絶対にポイステしません。」という感じ。
そして「たばこ、吸いません。」という感じでもある(あくまでイメージ)。
そんな雰囲気を持つ兄弟が、吸殻などを拾い上げるCMなんてのは、案外いいかもしれないと思っている。
ただ、さわやかなだけじゃ面白くない。
最近のCMの終わりでよく見られる、「この言葉を検索してね!!。」的なやつを、いやな風にして入れてほしい。
※テキストボックスにキーワードが入力されており、ポインタがおもむろに「検索」ボタンをクリックし、CMは終わるというもの。
ところで、あれを見て「検索せな!!。」と思う人はどのくらいいるのだろうか。
結構多く見られることから、そこそこ一定数はいるのかも知れない。
でも、僕は嫌いだ。
CM見せておいて、さらに検索しろという、堂々さがいやだ。
ということで「ディライト兄弟・間宮兄が捨てられた吸殻を拾うバージョンCM」の最後には、
「肺がん 呪い 七回忌」を検索!!
と入れてもらうことにする。
なかなかに、JTの謙虚さが伝わってくるではないか。
JTにたどり着かなそうだが。
そして「ディライト兄弟・間宮弟が学校の便器に捨てられた吸殻を見つめるバージョンCM」の最後には、
「藤子・F・不二雄 藤子不二雄A 合体するとフルアーマー」を検索!!
と入れてもらうことにする。
これもかなり、JTにたどり着かないだろう。
そんなこんなで、今日は終わりだ。
ちょっと、ゲームで忙しい。

紫煙八景・例の件で

僕の机の上に、たばこが置いてある。
確か今年の1月くらいに買ったやつだ。
中を見てみると、ほぼ満員御礼。
ほとんど吸っていないのだ。
その理由は簡単。
僕は、たばこを吸うチャンスを作ることができていないのである。
そんなたばこの箱を見ていたとき、僕は気付いた。
たばこを吸う人は、そのチャンスを作り出せる魔法の言葉を知っている、ということ。
「一服」
なんと、便利な言葉だろう。
どんなに忙しい作業の合間でも。
「ちょっと、一服してくる。」
たとえ体育館内ドミノ100万枚イベントの前日ラストスパート時期であっても、この言葉で作業から抜けることができるのだ。
そして、ヘタするとたばこを吸わないで少年ジャンプの巻末はがきコーナーで笑っていたりして、それを見られたとしても「まぁ、一服だからな。」と思われるに違いない。
※それに比べて、たばこを吸わない人にとって、「一服」に変わる言葉があるだろうか?。
「ちょっと一休みしてくる」
自動販売機の前で伸びをしているだけで「何やってんだ」と言われそうだ。
「一服」という言葉のカリスマ性は、ない。
このように「一服」という言葉の、たばこ吸い人に対する包容力は、目を見張るものがある。
しかし、それは「たばこを吸う行為」がなんとなく仕事、ノルマっぽい、という感じのあらわれでもありそうだ。
「たばこを吸う人は、たばこを吸うのが当たり前であり、義務である」というイメージ、考え方が浸透している。
例えば、たばこを吸わない人は、喫煙が「たばこ代も馬鹿にならない」「健康に悪い」「におう」ものであり、すすんでやるような行為ではない、と感じている。
だから、彼らは「喫煙は、絶対的なモノに無理やり押し付けられた、仕事みたいなものなのではないだろうか。」と推測するのだ。
※この推測に「わっか」「しゃぼん玉に煙を入れると、面白い」などといった少数派「ファンタジー枠」も、一応は含まれているはずだが、悪い喫煙イメージを払拭する力は、「ファンタジー枠」にはない。
そして、喫煙者のほとんども、喫煙に対するこの「仕事イメージ」を少なからず持っているだろう。
だから、「一服してくるね。」という言葉はある意味「ちょっと、別の仕事してきます。」と同等に違いない。
たばこを吸う人は、魔法の言葉を使ってよくいなくなるが、それはそれでかなり忙しい。
僕がたばこを吸うチャンスを得るために「一服」という言葉を使うかどうかは、ちょっと考えどころなのだ。

紫煙八景・保健体育

たびたびブログにも書くが、私は水生昆虫に対して、そこそこの興味を持っている。
田んぼに行き、水面をのぞく。
人工池があれば、水面をのぞく。
ちょっと大きな「かめ」に水がたまっていれば、水面をのぞく。
高速道路。
一面、田んぼの風景に、ぽつんとため池が認められたりしたら。
そこに行きたい気持ちと、どうやっても行けないという事実。
池や沼に、日々一喜一憂している。
私がぼそっと「いい池してるなぁ・・・。」などと口にしたら、そのときは浪漫飛行中である。
ところで「水生昆虫」に興味を持っていることは、「いとみみず」に興味を持っていることに置き換えることができる。
なぜならば「いとみみず」は水生昆虫のえさとして取り上げられることが非常に多いためである。
例えば、水生昆虫の写真を見るということは、1/3くらいは「いとみみず」の写真を見ているようなものなのだ。
また「いとみみず」は水生昆虫と同じように、あまり見かけることができない生物でもある。
私は今まで、トカゲの死骸やよく分からない生物を捕まえた子供を見たことがあるが、「おかあさーん!!。いとみみずがこんなに取れたよ!!。」という子供には、出会ったことがない。
いや、実は捕まえた子供もいたかもしれないが、それは詳細に書くと「捕まえていた」だろうし、「付着していた」となるだろう。
要は、小さいのである。
私もよくは知らないのだが、なんとなく田んぼですごく細い、小さいものがピラピラしていたら、それは「いとみみず」であることにしている。
そして「こんなにエサがあるんだから、何かいるんじゃないか」と心ときめかせるのだ。
このように「いとみみず」は、ある人種にとってはターゲットとなっているが、それでも「えさ」としてであり、少なくとも主役となるような人格を持たされてはいない生物だ。
がんばっても「えさ界」の主役である。
私は中学生の頃、「いとみみず」が主役の写真に出会った。
保健体育の教科書である。
「たばこの害」と銘打たれたその写真は、正常な水にいる「いとみみず」と、ニコチンを添加した水にいる「いとみみず」である。
その差は歴然。
正常な方は、ちゃんとみみずしており、どこか「これから飲みにいこうか」という雰囲気すら出している。
しかしニコチン側は、ちゃんとみみずしていない。とうに死んでしまっている。
この写真を見たとき、私はたばこの害について、水生昆虫について、いとみみずについてで脳内大騒ぎだった。
そこそこのたばこなら、だいたい一本の誤食で、幼児の命を奪うという。
そして、たばこによる事故の多くは、誤食であり、誤飲だそうだ。
誤飲。
死んでしまったほうの「いとみみず」が経験したシチュエーションは「飲みかけのジュースに吸殻を入れました」というものなのだ。
私は「口に吸殻のかけらが付いている空き缶」を見ると、保健体育の教科書を思い出す。
「あぁ、水生昆虫のえさが・・・。」
ということで、吸殻はちゃんと灰皿へ。
そうしないと、こればかりは、いとみみずに申し訳ない。

紫煙八景・自失の念

絶叫マシーンに乗りたがったり、お酒などで酩酊感を味わったりしたがるのは、少なからず誰しも「自らを失う願望」のようなものがあるからだ。
ある作家は、この願望が何を意味するのか、を書きたかった。
もちろん彼は次のことを知っているだろう。
「みんな、おぼろげかもしれないけど、そういうものがあるというのは知っているだろうなぁ。」
生きるということは、同時に死というものへ向かっていくことである。
したがって、我々は既に「ゆるやかな自失」を実行していると言える。
この法を背負っていても、人間というものは、時として故意に自失を求めるのだった。
これは、なんなんだ。
「近代社会における生活水準の向上が、死というものの重みを軽減した。その代償である。」とかいうんじゃ、もったいないぞ、話として。
よし、実学主義だ。
酒もってこい、酒!!。
などと思ったかは全然知らないけど、話はもうすぐ終わります。
簡単に言いますと、僕はたばこの煙を吸うのが、大好きなのです。
おそらく、小さい頃に、父親がたばこを吸っているときに、すっごくたくさんアメ玉をもらったとか、そんなんだと思うのですが、とにかくあの香ばしさが好きだ。
ただ、吸っている人による。
こういうだけでだいたいのことは読み手の脳内で補完されていると思うので言及はしません。
また、においの強度ね。
あんまり煙たすぎると、だめだ。
健康のことも考えちゃうしね。
一生懸命ボールペンに付いた値札シールをはがしているときに、ふと煙が香る。
そんなんがいい。
もちろん、そんなときの僕に「自失」どうこうは、全くない。
だが、今回の話の後半部分は、僕以外の人にとっては副流煙話であり、僕は自失まっしぐら、ということになる。
無害な煙で、吸ってる人もおいしい。
そんなたばこは、早く作れ!!。人!!。