紫煙八景・例の件で

僕の机の上に、たばこが置いてある。
確か今年の1月くらいに買ったやつだ。
中を見てみると、ほぼ満員御礼。
ほとんど吸っていないのだ。
その理由は簡単。
僕は、たばこを吸うチャンスを作ることができていないのである。
そんなたばこの箱を見ていたとき、僕は気付いた。
たばこを吸う人は、そのチャンスを作り出せる魔法の言葉を知っている、ということ。
「一服」
なんと、便利な言葉だろう。
どんなに忙しい作業の合間でも。
「ちょっと、一服してくる。」
たとえ体育館内ドミノ100万枚イベントの前日ラストスパート時期であっても、この言葉で作業から抜けることができるのだ。
そして、ヘタするとたばこを吸わないで少年ジャンプの巻末はがきコーナーで笑っていたりして、それを見られたとしても「まぁ、一服だからな。」と思われるに違いない。
※それに比べて、たばこを吸わない人にとって、「一服」に変わる言葉があるだろうか?。
「ちょっと一休みしてくる」
自動販売機の前で伸びをしているだけで「何やってんだ」と言われそうだ。
「一服」という言葉のカリスマ性は、ない。
このように「一服」という言葉の、たばこ吸い人に対する包容力は、目を見張るものがある。
しかし、それは「たばこを吸う行為」がなんとなく仕事、ノルマっぽい、という感じのあらわれでもありそうだ。
「たばこを吸う人は、たばこを吸うのが当たり前であり、義務である」というイメージ、考え方が浸透している。
例えば、たばこを吸わない人は、喫煙が「たばこ代も馬鹿にならない」「健康に悪い」「におう」ものであり、すすんでやるような行為ではない、と感じている。
だから、彼らは「喫煙は、絶対的なモノに無理やり押し付けられた、仕事みたいなものなのではないだろうか。」と推測するのだ。
※この推測に「わっか」「しゃぼん玉に煙を入れると、面白い」などといった少数派「ファンタジー枠」も、一応は含まれているはずだが、悪い喫煙イメージを払拭する力は、「ファンタジー枠」にはない。
そして、喫煙者のほとんども、喫煙に対するこの「仕事イメージ」を少なからず持っているだろう。
だから、「一服してくるね。」という言葉はある意味「ちょっと、別の仕事してきます。」と同等に違いない。
たばこを吸う人は、魔法の言葉を使ってよくいなくなるが、それはそれでかなり忙しい。
僕がたばこを吸うチャンスを得るために「一服」という言葉を使うかどうかは、ちょっと考えどころなのだ。

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