家に、ほとんど乗っていないスクーターがある。
レトロな雰囲気のもので、なかなか高価だったもの。
しかし乗らない。
そもそも使用するほど、遠くて線路が行き届いてないところへ行く事がないわけだが、同時に怖かったというのがある。
一度乗ってみたら、怖かった。
それは「特に何もせず、グリップをぐりりとやるだけで走る」ことへの違和感だった。
車はどうか。
車はすごく大きくて規模もでかいことが見て取れるので、「まあアクセルを踏めば進むくらいのシステムは携えているのだろう」と思える。
しかしどうだスクーターは。
ほぼ自転車じゃあないか。
しかしぐりりとするだけで、すーっと進む。
やたら進む。
少しの労力ですいすい進む事が、信用ならない。
なんかあるんじゃないのかと疑う。
アクション映画では、たいていの車はエンジンをかけたときに爆発する。
スクーターのグリップに手をかけるとき、そんなことを思い出す。
爆発はいやだ。
死んでしまうし、周りにも迷惑がかかる。
タイヤから刃が出るのだろうか。
グリップのぐりり度合いによって刃の出方が変わるのである。
意味はわからないが、とりあえずそれはもはや交通手段としてのスクーターはどこにもなくなってしまい、ただ刃が出入りする仕組みの、何かだ。
しかしスクーターは何かの仕組みに落ち着く事なく、ちゃんと進むのだった。
その素直さが、また怖く。
カテゴリー: 雑文
帽子
ずいぶん昔から「つばのない帽子」を愛用していたが、最近なんだか「つばってすごく便利なんじゃない?」という気がしてきた。
まず、持つところとしての機能。
つばを持てば帽子をかぶるのも、微調整するのも楽だ。
一方、つばのないやつは両手でぱこっとかぶらなくちゃいけないし微調整も両手だ。
いや、そもそも前後左右がないため、微調整がいらない。
帽子をかぶりたくないとき。
つばのあるものならそこを持てばいい。
それに対して「つばがないやつ」は、くしゃっとして持たなくてはならない。
大人が「何かわからないがくしゃっとした布」を持っていてはならない。
それは完全に「それで汗を拭こうとしたらそれはパンティーで、そこから始まるエトセトラ」の雰囲気そのもので、「それわたしのパンツじゃない!!」だの続き、いわゆるさぶい。
さぶいと言えば、当方インフルエンザA型とか。
どうしよう。
おねがい舞の海 その3
昨日からのつづき。
【あらすじ】
美容室で恥ずかしいのは「頭骨の形が美容師にばれちゃう」だ。
恥ずかしくない頭骨の整え方を、嘘を交えて考察。
=====
1:整えたい頭骨の対角線に位置する部分を軽く押し続ける。
実は、頭というのは全てが均一にバランスが保たれることで形を成している。
例えば、ある顔の部分を親指の腹で軽く押し続けると、その力が作用して反対側の部分が少し盛り上がる。
これを利用して頭骨を整える方法で、うそ。
あごのしゃくれている人は、幼少の頃に枕の形が影響したのかもしれない。
2:両手を顔の前で交差させてそのまま耳をつまみ息を吸い、大きく口を開けて「あー」と言いながら息を吐く。
これでなぜ頭骨の形が整えられるのかはわかっていないが、なぜか整うとうわさされている方法で、うそ。
元々は「スキー場ですてきな男性と出会えるおまじない」としてティーン誌に掲載されていたが、その目的で実戦した女性全6人のうち、3人が頭骨への作用をなんとなくうわさした。
3:幼少から金魚鉢をかぶっておく。
かなり直接的な整え方として古くから知られている方法で、うそ。
この世に金魚が誕生してからまもなくして考えだされている。
しかし現在、その強制的なやりかたが、主に健康面へ悪影響を及ぼすのではないかと心配されている。
そもそも金魚鉢型が「整った頭骨の形」として成り立つのかどうかも、時代によって不定。
よって、この方法を行うにしても、風呂のあと10分だけかぶるといった適切な手段をとるようにしたい。
4:ヘルメットの裏に「理想の頭骨像」を描いた紙を貼っておく。
いわゆる「睡眠学習法」と同様の効果を期待した方法で、うそ。
ただしこのヘルメットを、特に着用しなくてもよいところが、「睡眠学習法」と異なる点である。
あとはヘルメットの該当する部分をなでるだけでそこの頭痛が治るなどの民間療法も存在しているため、ヘルメットには何か神秘的なものがあるのかもしれないと、もっぱらの評判。
5:頭髪を剃った状態で、街に出まくる。
あえて頭骨の防御を捨て去り、ほどよい風化にまかせるという方法で、うそ。
ただし街で見かける丸坊主の人の頭の形はなんだか良さそうに見えることもあるため、一概にはあなどれない方法だろう。
雨風にさらされるほどに頭骨はより自然味を帯び、優美な曲線を描くだろう。
しかし効用を急ぐあまり、本骨(ほんぼね)をちょい外気にさらすような衛生的に良くない愚行は避けたい。
以上。
アスパラガス
いつごろか書いたような気もするのだが、検索で引っかからないため今回挙げさせていただくアスパラガスについて。
「アスパラガス」とは何か。
こう尋ねられたら、僕は自信を持って「先端です」と答えり。
お、なんかいいんじゃないだろうか「答えり」。
厳か感が増す。
まあそれはいいのだが、とにかくアスパラガスは「先端」である。
あそこが一番うまいんだ。
このことはほぼみんなに当てはまると思っていた。
みんな先端のやわこいところが好きで、茎?のところは「先端を収穫する上でどうしても生じるものだから、カタいけど仕方ないか」という感じで食べているのである。
ところがそうでもないらしい。
茎派がけっこう多いのである。
現在の統計上、先端:茎が6:4くらい。
アスパラガスということで、スパゲティが好物な女の子の意見が得やすそうだが、そこは統計。
ちゃんと野郎にも聞いている。
ともかく先端よりも茎がいいなんて、ちょっと意外に思っている。
そして食い分けが成立していることに感心している。
ポッキーの両端から食べていくという往年のラブゲームがあるが、見た事ない。
しかしもしあったとしても、その端には差異がある。
すなわちチョコレートがおいしい端と、手で持たれてしかもチョコない端。
どちらがいいかは言うまでもなく、自分が残念な手持ちの方だった場合は相手がミポリンとかゴクミとかのレベルでなくてはバランスが取れず、さすがに「ミポリン」だったのか「ミホリン」だったのかすら思い出せぬ。
もちろん、自分がチョコレート部分の方だったとしても、ポッキー両端食べの相手がぜんぜん知らないひとだったら、いやだ。
となると自分はチョコレート側で、しかも相手がミポリンだったらどうだという気にもなるが、そこはミポリンの心情をないがしろにするわけにもいかずもうしわけなく、えいポッキー両端食べなんてやめてしまえと解けないレイトン教授の何作目かのDSを布団の上にやさしく叩きつけり。
黒ひげ
黒ひげ危機一発について気になる事ができた。
「なぜ剣を刺すと飛び上がるのか」
僕が思いつくのは「剣が刺さってびっくりした」くらいだ。
海賊家業においては、何か失敗すると樽の中に頭だけ出して詰められ、剣をさされたりそのまま海に投げ込まれたりするという、残念な法的処理がなされることでもあったのだろうか。
そもそも樽の中にいる黒ひげが、いったいどういう状況なのかがいまいちわからないのである。
<黒ひげが樽に入っている理由>
樽を風呂桶として使用した、入浴中
自分の表皮についている細菌を利用した新しい醗酵食品の開発
海賊特有の寝床
樽の中が低反発素材で満たされており、入るとマッサージ効果
水の満たされた樽の底に小銭を落としてしまった
ともかく、黒ひげは樽の中。
そして剣の登場だ。
剣を刺すとなぜ飛び上がるのか。
冒頭にも書いたように、「剣が刺さってびっくりした」が有力のような気がする。
なにせ剣が刺さると驚くものだし、あの瞬発的な飛び上がりは何か緊急性のあるものを想像させるから。
しかし考えてみてほしい。
剣が刺さっているとき、絶対飛び上がってはいけない。
飛び上がる事によって、刺さっている箇所から下方にさらなる切創が生じてしまう。
傷口がひどく広範囲になってしまうのである。
たまたま「刺さるところ」が足先だったらいいのだが、胸や肩などだと、飛び上がる事によって致命傷にもなりかねない。
現在、正式ルールは「飛び出させたほうが負け」なのだそうだ。
そう考えると「傷をより負わせたほうが負け」となり、そこはどうも結構海賊っぽくないのである。
※ウィキペディアによると「樽の中で縛られた仲間を助けるため、剣を刺してロープを切り、助ける」とある。
刺される剣の位置を見て、黒ひげが樽の中でくねくねと体を動かすさまを想像するとかわいいし、ロープが切られたときの喜び跳躍というのもかわいい。
しかしルールに則ると「助ける」と負けということになり、よくわからん。
覚えられなう
ひどい話なのだが、僕はどうも「一度覚えられなかった人については、ずっと覚えられない」らしく、Twitterだと「覚えられなう」とでも言うだろうか。
ともかくそんなで、とりあえず「覚えられなう」なんてもう二度と使わないから!!。
先日、へんな串に刺さった肉を食べに行ったのだが、僕はそこで「以前会った事あるはずの人物」のことを、まんまと思い出せなかった。
全然違う人だと思っていた。
ところが話しているうちにどうも「以前会った事あるはずの人物」であることが判明。
全然違う人だと認識していた僕はそのことに驚き、「まあ大きくなって」などと醜態をさらしたわけだ。
ただ、この癖?でとにかく心配なのが、「どこぞの会ったところで話した事を、次に会ったときも同じ風に話していないか」ということ。
これは非常に恥ずかしい気分になる。
まったく同じでも恥ずかしいが、少し抑揚や内容が違っていたりしてもいやだ。
なんや、おまえは時と場合によって同じ話を変えるのかい。
そんなことがあったりしたら恥ずかしいことこの上ない。
ただ今、ある話内容を変更せざるを得ない、あるいは変更したほうがいいということもあるんじゃないかという気もしてきた。
例えば「ウルトラマンセブンのウルトラアイみたいなメガネをかけてきた人の話」をする場合。
話し相手が「ウルトラマンセブンのウルトラアイ」について知識がないと判断されていれば、そこは「シャアのお面」と言い換えたほうがいいはずである。
もちろんこの例では「ウルトラマンセブン世代とガンダム世代はそれほど離れていないから、この言い換えはおかしい」という意見も出よう。
そのときは「シャア」の部分を、その人の世代に合ったガンダム作品から選ぶ事のできる「シャア枠の人」に変えるだけでよく、そう考えると「ウルトラマンセブンのウルトラアイ」の説明はどんな世代にも通じるということで、本当によかった。
まあ今回何が言いたいかというと、なんか同じ話することあるかもしれないけどごめんね、ということ。
例
様相
冬がはじまっていたよ
今年はなんだか寒い。
そのせいか、よくわからんタイミングで関東にも雪が降ったりした。
珍しい雪を持ってきたのに。
ちょっと前のニュースなのでいつ頃か忘れてしまったが、どこかあまり雪になじみのない地方の話。
子供たちのためにか、雪を輸送してきた人がいたのだ。
しかし、その場所ではちょうど季節外れの雪が舞っていた。
輸送してこなくとも、雪が見れてしまったわけである。
なんとなく決まりの悪そうなその人。
ただ、その人を紹介するテロップはよかった。
「雪を持ってきた人」
雪を持ってきた人。
槇原敬之とか松任谷由実のシングルで、なかっただろうか「雪を持ってきた人」。
その人は残念がっていたが、十分神秘的ではあった。
平和降り立つ。
最近、いくつかのイメージが突然思い出されることがあって、困る。
「ラグビーボールを取ろうと一丸となって追い、まさに取ろうとしている選手たち」
このイメージの、ラグビーボールが鳩になっているのだ。
たぶん駅のホームか何かで鳩を見たとき、そう思った事があったのだろう。
おまえらのうのうとしているが、捕まったら大変なんだぞ。
そんなことを考えたのかもしれない。
あるいはフランス料理店のシェフが高架下を自転車で通過するとき、あのたっかい帽子が引っかかったところを見たときだったか。
いやこれは見た事なかったや。
ただそんなシェフが公園で必死に鳩を捕らえようとしていることはおもしろいな、とかは思った事あったかもしれない。
飽食な日本。
いつかは食べ物が不足し、降り立った鳩を必死に捕獲することも、今後あるかもしれない。
以前も書いたが鳩は平和の象徴だ。
その鳩を賢明に捕らえ、小脇に抱えながらゴールに向かう姿勢。
置いた鳩を蹴ろうとするとき鳩は飛び立ち、やはりゴールを通過する。
スクラムへ鳩が投入される。
これらは平和への思いや活動に対して、何らかの意味を持っていると言えないだろうか。
まあとりあえずは、ラグビーがどんなスポーツだったかを思い出さなくちゃいけない。
まずは鳩が競技エリア内に降り立つところから始まるんだったな。
1万人
エジプト、反政府サイドの1万人規模デモというのを聞いた。
以前書いたかもしれないが、日本が言うところの平和だからだろうか。
いまいちデモというもののイメージがわかない。
ゆえに「1万人」の具体的数値をもってしても、よくわからない。
「1万人規模の集団下校」
これならわかる。
すごいってことだ。
もう、横断歩道で渋滞起きる。
「1万人規模の地団駄」
これもすごい。
床も心配だが、彼らをあやす1万人規模の母親も必要なわけで、大変だ。
「1万人規模のマッスルミュージカル」
これもすごい。
床も心配だが、唯一ほっとするのは、彼らをあやす1万人規模の母親が必要ないこと。
「1万人規模の飲茶」
ロイヤル・ドラゴン・レストランあたりでできるのだろうか。
「1万人規模の電球を取り付けるときに生じるねじりぢから」
1万人デモに対するイメージは、これに近い。
すごそうなのだが、どのくらい他への影響があるのか、いまいち分からないのだ。
「1万人規模の都庁を手押しで国会議事堂の前まで持ってこよう運動」
足らないよたぶん。
小僧、ひとつ。
「一つなんとか小僧」のような妖怪はどのくらいいたのだろうか。
いわゆる「一つ目小僧」のたぐいである。
いや、妖怪の話題に「いわゆる」なんて言葉を使うのは変なのだが。
「例の妖怪の件なんだけど」
こんな会話が日常的にかわされる妖怪マニア間でしか、使ってはいけないのではないだろうか「妖怪の話題に関するいわゆる」。
もちろん彼らの間では、「件」は「くだん」と読まれる。
さて話は戻るが「一つなんとか小僧」だ。
「ひとつくち小僧」
大丈夫だ。
もちろんいたはずで、それはそこらにいる小僧大半を占めていたはずだ。
すわなちただの小僧であり、妖怪ではない。
ざんねんだが、僕の考えでは大多数の普通の小僧にまぎれて「一つくち小僧」が生息していたのは間違いない。
水木ぐち(水木しげる漫画に登場するキャラクターの多くが供えている、独特なくちの形状のこと)が特徴である。
「ひとつ箸小僧」
僕がその存在を思いついたとき、もう悲しい逸話が3個くらいは想像された。
3つとも、結果的には箸関連で打ち殺されてしまった小僧の念から生まれた感じになる。
「ひとつおぼえ小僧」
馬鹿なのである。
庭を掃くよう命じたら、その場所ばかり掃き続け。
30cmくらい掃き下げてしまうくらい、馬鹿なのである。
あまりの馬鹿さに主人は畏怖を覚え、晴れて妖怪化。
「小僧、ひとつまみ」
ちょっと趣向を変えてみた。
多分に妖怪なのだろうが、多分に怖くない。
類似案件に「小僧を少々」などもあり、男なんてものは一種のスパイスみたいなものよという、ある種のフェミニズム。
「ひとつ小僧、ふたつ少女」
1姫2太郎みたいなもので、その点では全く妖怪ではない。
しかし気を許すと「ひとつ小僧、ふたつ少女、3なすび」となり、結構いろいろ考えると思いのほか奥深く、そしてよろしくない。
あくまでなすびの妖怪的な色合いだけに注目、「ああ妖怪じみてるね」程度で終わらす。
こういろいろ挙げて参りましたが、結局は、ひとつのどうこうの妖怪ってのは「一つ目小僧」が一番しっくりくるわけでしてまあ、いわゆるひとつの。
おちなくても、おわり。