ピレネ

人は挑戦する生き物であり、それは全ての人が一度は挑戦してみたある事柄で証明づけられる。
「まきぐその作製」
朝からこんなことは書きたくないのだ。
しかしどうも、人は一度は、作ろうとした経験を持つらしいのである。
アメリカにこんな逸話がある。
「おばあちゃん、なんでピレネはうまくできないの?」
「昔の人はうまく作っておったんじゃよ。でも、あまり高くすることができたものだから、神様が起こってその頂きに雷を落としてくずしてしまったんじゃ。それから、人がピレネを作ろうとしてもすぐくずれてしまうんじゃとさ」
まきぐそのことを「ピレネ」と呼ぶのは古来よりであるらしいから、なんとなく昔は高かったというのも間違いではなさそうだ。
え、「作ろうとした経験を持つ」あたりから信用ならない感じだって?。
おかしいなあ。
おかしいねえ。

おそらく今月いちばんの勇気。

もしかしたら、もう「原文ママ」は触れるだけでやけどをしてしまう。
そんな危険なものになってしまったのかもしれない。
しかしそれは今まで多くの人の心に何かしらの影響を与え続けていたことの裏返しに他ならない。
読書中、唐突に現れる原文ママ。
「原文ママって、なに?」
僕はずいぶん長い間、なんとなく「もともとの文章があって、間違いがあったとしてもそのまま書いてますよ」を意味するものだとは認識していた。
しかしその曖昧なイメージを吹き飛ばすのが、やはり「ママ」だ。
なぜカタカナなんだ。
「原文のまま」でいいじゃないか。
なぜ出版社はかたくなに「原文ママ」をつらぬくんだ。
「今風にアレンジしました」でいいじゃないか。
なぜ変だったり、卑猥な文章に味があるとか、そういう発想になるんだ。
わざわざ変だった文章をさらすことないじゃないか。
なぜ人々は争いをやめないのだろうか。
多少のことは許し合えばいいじゃないか。
なぜ大便をするとき、それより前に小便が出てしまうんだ。
小便は次回のトイレタイムまで取っておきたいこともあるじゃないか。
(原文ママ)
なぜパパじゃなくて、ママなんだ。
「原文パパ」がいたっていいじゃないか。
(勇気)

にじり土足

昨日「愛鳥家」や「菜園家」だとか書いていて、こんな書き出しを思いついた。
「人はたくさんの家を持っている」
これは複数ある人の性質や面のことを「○○家」という言い方に注目、なぞらえたわけだが、僕は結構こういうのは嫌いだ。
なんか、安すぎる。
ただ、そう思う原因は最近の「○○家」と名づいたラーメン店の乱立かもしれない。
さてどちらかというと今回気になるのは、いろんな「○○家」を考えてみたらおもしろいんじゃないかということだったが、ちょっと考えてみてもいまいち思いつかない。
例えば「倹約家」というのがあるのだから「散財家」もあるだろうと検索してみると、そこそこヒットする。
ただ、その差は歴然としていて、それは散財家というものがよりあとに作られた言葉であることを意味している。
あるいはやはり「散財」というのはあまりほめられたものではないということで、「おれ散財家!!」と手を挙げて宣言する人が少ない、ということなのかもしれない。
そんなこんなで「○○家」はそれほど僕のなかでは広がっていない。
唯一なんか思いついているのは、冒頭の「たくさんの家」というところ。
以前何かで「小さい家がたくさん立っているところ」の映像を見たことがある。
それは道通神社というところで、確か蛇の神様をまつっている。
そしてその蛇が住めるようになのか、奉納された小さい家がたくさん立っているのだ。
その見た目はかわいいが、反面異様でもあるだろう。
そしてこれだけは言うのが心苦しいのだが、いちおう。
蛇足だがそこに住む蛇は土足だ。
それにしても今までのキーワード。
「愛鳥」「菜園」「蛇」「散財」
なんか尋常っぽい話が出来そうじゃあないですか。

二次元世界禁呪

「あんな大事故だったのに、誰も怪我をしていないなんて大したものですね」
「ほんとうですよ。もう少しずれていたらと考えると、今でも身震いします」
「あと右に1ドットずれていたら、当たってましたね」
「いやあ、それどころか、半ドット」
半ドットと口にした瞬間、彼はどさっという音とともに崩れてしまった。
どうも口にしたことで、それで自分を表現するような処理が走ってしまったらしい。

親への介入

全然関係ないけど「生みの親より育ての親」って、もちろん意味はそうでないんだろうけど、ここでの「親」って「母親」になるような気がする。
「生みの親」ってところがね、どうしても。
これだけに着目すると、父というものは、実は親でないと言える。
寂しい。
たしか、三千里探されるに値しているのは母だしな。
なあ、父よ。
・・・なあ、父よ。
寂しさをバネにして、それにどうしても親たりえたいか。
産雄性単為生殖上等か。
後者はよくわからないが、とにかく親たりえたいのなら、冒頭のようなことわざを新たに開発、親としての父を示せたりするといいかもしんない。
「父の背中より他人の背中」
冒頭の「生みの親より・・・」の父バージョン。
かなり寂しい。
いちおう親というものはね、というきっかけにはなりそうだが、一方で「生み」という最高レベル生命の神秘に父が対抗できるものは「背中」くらいだということが分かった。
なお、見た目似たものに「父の背中より新潮文庫」や「父の背中よりガイアの夜明け」などがあり、これらは親観点とすると全然親になれてない。
「父の子は父」
「かえるの子はかえる」という親っぷりがなかなかのことわざを持ち出してみた。
親どうこうもあるが、それよりも子は父のことが嫌いになるだろうことが心配。
「父の心子知らず」
それをどうにかしようという今回。
「父の居ぬ間に洗濯」
完全に加齢臭問題が背景にあり、親の権利獲得にはほど遠い。
「鉄道員(ぽっぽや)(父)」
男親としての感じはいいのだが、かっこが多い上、「ぽっぽや」が「ぱっぱや」だったらすごく面白そうな事が今分かってしまったため、威厳の点で親としては難しい。
「父の目がテン!」
理想の父親ランキングにたいてい入るらしい所ジョージ氏にあやかってみた。
もちろん親のどうこうのことは考えておらず、聞いても「へえ」としか言えないような「父の目がテン!」。
いいんじゃないでしょうか。
類似に「父のまもるもせめるも」「父が笑ってコラえて」があり、前者は忌野清志郎の「パパの歌」、後者は日曜日の父像そのものである。
意外にも、これらが親としての父を考える上で結構いいモデルとなりそうなことが分かった。
よかった。

NHKで、20時から。

そこでおすすめなのが「コーヒーカップでページを抑えながら本を読む」ということで、それはいいにおいがするし、本も読める。
また結果として、コーヒーのにおいを嗅ぐために本を顔に近づけるかたちになる。
すると変だったりエロかったりする挿絵のある本でも周りにはそれが見えなくなるため、周囲を気にする事なく読める訳だ。
僕が小さい頃、ファミコンソフトの「忍者龍剣伝」というゲームがあり、僕はそれを「なんかくるくる回る技を、敵ぎりぎりにあてることで倒す」という方法でクリアしたんだった。
するとそのエンディング。
たしかキスシーンがあるんだ。
その頃の僕は「和紙でくるまれていた」と形容されるほど無垢だったから、それが恥ずかしくてせっかくクリアしてもすぐリセットした。
でも、無垢ではない今でもリセットする理由はある。
忍者のキスシーンってのがおもしろくて仕方がないから。
顔を覆う布があるのなら、キスはなんだかよく分からないものになってしまうし、ことのあともべたべたで息苦しい。
また、それを外したとなるとキスの相手に顔がばれる訳だから口封じが必要だ。
相手はまだ顔見た事ないんだろう。
なんとなく、プラトニック。
忍者のキスシーンというのはそんなことを考えさせ、思いのほかスリリングなんだということがわかる。
そしてそんなことばかり考えていたから、さきほどから僕は大人の階段を2段またぎで降り続けている始末。
でも大丈夫。
たとえ「小説版 忍者龍剣伝」が出たとして、それを読まないと大人になれないのだとしても、そのキスシーンの挿絵はコーヒーのかおりにまぎらわして隠せるはず。
「小説版 忍者龍剣伝」自体に耐えられるかは分からないけど。

霧が晴れたら その2

昨日からのつづき。
【あらすじ】
プロレスにある「毒霧」というものについて何か考えよう。
※毒霧:変な液をぷーっと相手に噴きかける。
=====
「毒霧成分がウイルスやほこりをキャッチ。毒霧クラスターはシャープだけ」
「部屋の消臭ができるファブリーズ毒霧タイプ」
「塗料を含んでの、プラモデルの塗装」
「刀傷に苦しむ患者に医者が毒霧、麻酔をかけ候」
「高知県山岳部に濃毒霧注意報」
「毒霧にかかる虹」
「俺が調合したやつよりも、単にリステリン噴いた方が効いたよ」
「よりミストの粒子が細かくなるように、歯の隙間の調節に時間をかける」
「いくらうがいしても、口から緑のが出るわ」
「毒霧を受けた相手の胸元に、やきそばの短いのがついていますねー」
「神の御心が太陽となり、吐息が風となり、毒霧が酸性雨となった」
「毒霧を仕込んでいるのを忘れてため息をついてしまったので、だっらー」
「風車がびちゃびちゃ」
「吐息とそれに伴う毒霧をすりこむ事で、手のかじかみを防ぐ」
「低濃度の毒霧は虫除け効果があるため、夏のプロレスラー付近には混雑が見られます」
「カレーうどんと向いの人のシャツが、えも言われぬ色に」
「キスをすると、相手のくちびるガードがハンパない」
「毒霧によるぼやけから回想シーンに入っていく画期的な場面移行手法」
「まずプロレスラーの両手がみどり」
「作るシャボン玉もみどり」
「くちびるのしわもみどり」
「つまようじの先、みどり」
「妻、みどり」
「青信号のことを、みどり」
「投げ込まれるタオルにも、拭き取ったみどり」
終わり。

霧が晴れたら その1

思い出し笑いの最たるイベントは、お茶を噴き出すことだ。
それは単に見た目すごいことになるだけではなく、目の前の食事がだ液ミストにさらされることを意味している。
ある人はそれを毒霧と形容した。
毒霧は確か、あるプロレスラーが得意とした攻撃方法で、口からへんな色の液をぷーっと霧状に吐き出す。
これを浴びた相手は何らかのダメージがあるのだろう。
そして「毒霧」を披露した思い出し笑いのその人は、あだ名が「ムタ」「ライデン」などとなる。
そして話は少しだけ戻るが、お茶のミスト粒子の細かさと思い出し笑いの我慢の度合いあるいはその面白さは、比例するだろう。
僕は今までそれほどちゃんと毒霧のことを気にしていなかったが、あらためて考えてみると毒霧を噴く彼自身が一番危険なんじゃないかということに気づいた。
さすがに液そのままを口に含んだまま試合進行はできないだろうから、袋かなにかに入れているのだろうが、それでも破裂の危険は常につきまとう。
霧でも効果のある刺激物が、もれなく口内で炸裂するのである。
危険だ。
そして試合において、相手以外の危険を口の中に仕込んでおいてもよいのだろうか。
試合への集中力の数%は、確実に口の中を気にする事に費やされるに違いないだろうし。
と、夢のない話はここまで。
毒霧のインパクトはプロレス技のひとつと数えられるくらい、ちゃんと確立している。
物理的な攻撃というよりは心理的なものである気もするが、その点もよく見ればプロレス技としては数少ない「MPにダメージを与える」という、プレミアの高い技だといえよう。
次回は毒霧についてなんか考える。

靴下模様の空飛び猫

以前からちょくちょく書いているが、飼い猫がよく靴下をくわえて持ってきて鳴くんである。
聞くところによると、猫なりに「持ってきたったぞ」と獲物を与える母親風な意味もあるんだとか。
となると猫飼いがまっさきに考えるのが「お金を持ってきてくれればいいのにねー」なのだが、それはあまりに現金というもの。
「カルカン」
パックに入ったカルカンを持ってきたら、それはかわいいだろう。
人間側としては「あけて」と解釈する事ができ、それはいつもはつっけんどんな猫が甘えている証拠だから。
しかしかわいさの面で行くと、これもなかなかだ。
「ペディグリーチャム」
まちがっちゃったのー?とだっこしてあげたくなる事うけあいである。
と、この流れ、だ。
この流れだとどうしてリモコンやなくしていたペンダント、勇気、領収書などになっていくことは明白だ。
それはいやだ。
しかしそれ以外はどうだと考えてみても、いまいち思いつかない。
逆に新鮮なのが「ねずみ」だ。
なんとなく昭和の風を感じながら、「猫とねずみ」の絶対的相性のよさを噛み締める事ができる。
「流れぼし」はどうだろう。
完全に童話、CMの感じで少々気持ち悪いが、見た感じはいい。
ただ、現在屋根の上に登るのが好きな猫はどのくらいいるだろう?。
「丸まったアルミホイル」は?。
ちょっと悪意があるな。
「小石」
ある意味、もっとも心配で、怖いものである。
どんな意味があるのか分からない。
転がして遊んでいたものなのだろうか。
きばの間に挟まってしまったのだろうか。
小石を一つずつ持ってきて嫌いな風呂を埋め尽くそうとでもいうのだろうか。
猫も胃石が必要なのだろうか。
無能の猫だろうか。
猫に無能はないか。

溶かす訳には行かない話。

カレーの中に当然という顔をして御座るジャガイモにそれほど文句もないが、何となく思うのは「各家庭におけるカレーの違いのほとんどは、ジャガイモの大きさなのではないか」ということだ。
よく家庭別カレーの違いについて話の盛り上がる事がある。
しかし考えてみると、石臼の調子からスパイスの調合などといった、料理をする事を自慢げに話す独身男性のような家庭はあまりなのではないか。
それはカレーの違いがメーカーの出すルー種別に絞られていることを示す。
となると違いというのはそのルーの種類と、せいぜい具についてくらいなのだ。
ルーといえばバーモントカレーだ。
数多くの他メーカーが新ルーを開発し続けてきたが、いまだその牙城がくずされたということを聞かない。
もうバーモント州の人に申し訳ない気持ちになるくらい、日本人にとってバーモントはカレーなのである。
そうなると、もう具だよ違いは。
僕は、初めてキャンプを経験する子供たちが一番驚く事といったら「自分の家とは違うサイズに切られたジャガイモ」そのものなのではないか、と考えている。
そして差異のある認識上のジャガイモ片と目の前のジャガイモ片。
どちらが正解なのかがわからないため、その驚きを隠そうとする。
うちのはもっと大きい。
大きく切るよ。
そういったところからストレスが発生、人格形成などに支障をきたすから、カレーに入れるジャガイモ片の大きさは妥当な線を前もって調べておき、それを家庭でのデフォルトとする。
そのくらいしないと、こんなくだらない話がなりたたないわけでして。