迂闊だった。
今日は「ユニコーン」という昔のバンドのカバーが出る日だったのだ。
知らんかった。
僕が興味を持つ、数少ないバンドだが、とっくの昔(15年くらい前?)に解散した。
そして何故か、今なお解散し続けている。
※今から5年ほど前、「ユニコーン」ブームがまた来る、みたいな情報が鳩や風、ニュース速報や競馬新聞によってもたらされたことがあった。
あれから5年がたった。
家に帰ると、姉が「ユニコーン」と「奥田民生」の、今日出たというCDを渡してくれた。
持つべきものは、弛まぬ勇気。鋼の体。孤高たる精神。思いやりの心そして姉である。
既にCDを堪能した姉が言った。
「なんか、いろいろあったけど、結局はユニコーンだったよ。」
僕は言った。
「ずいぶん、かかったね。」
「うん。長かったよ。」
今夜、僕は姉の軌跡をたどる。
カテゴリー: 疑問結論など
爪を切る
A「え、夜に爪切ると、どうなるって?。」
B「だからー、親の死に目にあえないって言われてるよ。」
A「ふーん。そうなんだ。まぁ、いいか。俺は今、切りたいんだ。」
C「あれ?、うちのいなかだと、切ったやつが近いうちに死ぬ、って言われてる。」
A「近いうちに親と俺、みんな死ぬ!!。」
ということを思いついたのですが、この話にはアヤシイところがあります。
それは「自分の死んだ状態」は、「親の死に目にあえない状態」であると言えるのか、という点。
もしそうだとするとAは、近日死んだタイミングで自動的に「親の死に目にあえない」状態も達成できたこととなる。
すると、以下のように、全員がその契り(?)を果たすことができる。
A:爪切る
B:親の死に目にあえない
C:Aは死ぬ
また、Aの「みんな死ぬ!!。」という心配も無用となる。
Aが死んだ後、ほどよい時間がたってから、親は「あいつは、親の死に目にもあえないヤツだったよ・・・。」
と思いながら天寿をまっとうすることができるのだ。
ところで、僕は「親の死に目にあえない」というのは、その当人は生きていて、親が死ぬときにその場所に立ちあえない、というニュアンスを持つものと思っていたのだが、どうなのだろう。
このニュアンスで正しいのであれば、Aは夜の爪切りで家族全滅の覚悟をしなければならない。
「爪を切る」ことでAは近いうちに死ぬのだが、そのとき既に「親の死に目にあえない」経験を踏んでおかないと、Bが永遠に達成できなくなるからだ。
ところでこの話、どうなんだろうか。
そろそろ、Aは爪を切るのを断念してくれるだろうか。
伝言
前を歩く2人の女性達の会話が空気に残っていたようで、僕の耳に届いた。
「並木君って、超ウケる?!!。」
女性Aは、並木君によって、超ウケたのだ。
ところでみなさん、どうだろうか。
自分がすごく面白いと思っている話を、誰かに話すとする。
そのとき、その面白さは、相手に100%伝わっているでしょうか?。
例えば僕が、Bさんに「今度、俺の甘食食べたら、半殺し2回だからな!!。」と言ったとします。
僕は甘食を、甘い紅茶と一緒に食べるのが大好きなので、本気でこんなセリフを言うことあるかもしれません。
でもまぁ普通は、ひょうきんさをアピールする感じで使いますね。
このセリフ。
ひょうきんポイントはだいたい4つではないでしょうか。
1.甘食
:奔放過ぎる命名のされ方や、何故か悲しいその存在感。
2.甘食で半殺しの危機
:「え、だって、あの甘食だろ!?。」と思わせる効果。
3.半殺し2回
:全殺しなのか、3/4殺しなのかという点。
4.説明
:この程度のセリフを無理やりひょうきんに見立て、それを解説してしまうアホらしさ。
でも、おそらくBさんには全ては伝わらないでしょう。
それはBさんがちゃんとした人間である、とかそういうことが原因ではありません。
それまでの経験などから、物事をどうとらえるかが、人によって千差万別だからだと思います。
Bさんが甘食屋の娘だったとすると、ひょうきんポイント1は、スルーでしょう。
幼少の頃、甘食でたいへん面白い経験(靴の奥に詰められていた、など)をしたとすると、1は琴線に触れます。
昔、山で遭難したときに唯一の食料が甘食だったら、2のところできょとんとします。
このあいだ全殺しの憂き目にあっていたなら、3では笑うどころか、少し透けがひどくなるでしょう。
このセリフがおもろいかは別として、1から4全てに感慨深いものを感じ取れる、そんな濃度の濃い人間は、言った本人くらいなのです。
だから、どれかは伝わっていない。
=======================
女性Aは、超ウケた。
だから、並木君は烈ウケることをやったに違いない。
並木君。
連絡求む。
ダンボール:一箱分
当ブログは、基本的に時事ネタを避ける。
それは、他のところで確実にここよりおもろいことが書かれるであろうことは想像に難くなく、それってもうお手上げだからである。
もうほとぼりも冷めたのでよいと思うのだが、ダンボール肉まんである。
僕は当時、どれほど世間が「ダンボール肉まん」と「伊藤家の食卓」の2トップをいじるかを、ちょっと気にしていた。
「少しの食材をボリューム満点の料理にパワーアップさせる裏ワザ」。
おそらく紹介されるであろう豆腐や寒天などの合間に、ひっそりとダンボールを紹介すれば、視聴者は気付かないだろう。
僕は、濡らしたダンボールをボールにちぎって入れちぎっては入れ、の映像が頭に流れてしょうがなかったくらいだった。
もちろん、実際はダンボール成分や処理の方法などにより、かなり人体に有害と思われる「ダンボール肉まん」。
しかし、何気に「ぎりぎりイケるんじゃないか?」と思わせる点が「ダンボール肉まん」にはある、と思っている。
そして、俗に言う「裏ワザ」とは、そのようなレベルの題材が一番映えるものであるとも思っている。
「うわー、全然考えなかった。それ、うまく行くの?。でも、もしかしたら・・・」くらいのヤツ。
ダンボール肉まんの件は、ちょうどだった。
※ところで、この裏ワザは捏造である、とかになった。
ざんねんである。
僕らの夢を壊すな、と当局に言いたい。
身乗り出し
何かのCMで、「SMAPの稲垣吾郎氏が、身を乗り出してテレビを見る」というシーンを見た。
僕のテレビ視聴歴は長いが、身を乗り出すほどの番組は、そうはなかったと思う。
かなり興味深い映像だったのだろうか。
・「Mステで、カメラから隠れながら互いの足を踏み、いがみ合うkiroroの映像」
・ノミの心霊写真
・「この番組中、テレビ画面からマイナスイオンが出ます」
こんな感じのものだろうか。
ちなみに、僕はkiroroが大好きです、ということで許してもらいたいとも思っている。
まぁ、あんまし身を乗り出してテレビを見るってときは、ないね。
もし僕が、今度テレビを見るときに身を乗り出すことがあるなら、「下から見るととスカートがのぞけるテレビ」がお求め安い値段で売り出された頃になる。
紫煙八景・サイテス
新宿にやたら高い喫茶店があって、行ってみた。
そうしたら実際にめったら高くて、「今なら、力いっぱい豆を挽くことができる。」と思ったほどだ。
そこでこんなことを聞かれた。
「禁煙席になさいます?。それとも喫煙席?。」
もちろんこのような意味のことは、あらゆる店、特に飲食店などでは必ず聞かれる。
例えば、僕がたばこを吸う人間であり、そこでも吸う魂胆であったなら「喫煙席で。」となり、僕は喫煙ゾーンに誘われることになる。
ところが、僕がたばこを吸わない人間であったなら、なんと言えばいいのだろうか。
たばこを吸わない人間が必ずその煙に弱いか、というとそうでもなく、むしろ僕はそれを嗅ぐのが好きだったりする。
禁煙席がめちゃくちゃ混んでいるときなどは、たばこを吸わずとも「喫煙席」の方で構わないのだ。
よって、後者の場合「禁煙席になさいます?。それとも喫煙席?。」という質問は結構難しい。
もちろん答えるのは「どっちでもいいです。」と、簡単だが、しかし一方で「どっちでもいいなら、○煙席に決まってんじゃねーか!!」というような、「禁煙席になさいます?、それとも喫煙席?の定石」というものが、一般常識的にあるんじゃないか、と邪推したりしてしまうのだった。
要は、たばこを吸わない人にとって「喫煙席/禁煙席」の相対的なパワーバランスが分からないのである。
それは、たばこを吸う人の人口どうこう、というよりは、社会地位的な意味合いも込められたものである。
ということで「喫煙席/禁煙席」のカテゴリ分けは、「たばこを吸う、吸わない」で分けるものではなく、「たばこの煙に強いかどうか」で分けられた方がいい。
「喫煙席/禁煙席」 という名前も、「強煙席」「弱煙席」とでも言いなおすべきだ。
ただし、この分け方には盲点がある。
「弱煙」体質で、たばこを吸う者のことである。
彼らのために「M席」が必要であることは言うまでもない。
ところで、今ブログは「たばこを吸わない人間が必ずその煙に弱いか、というとそうでもなく、僕はそれを嗅ぐのが好きだったりする。」あたりでかなり破綻しており、普通は「たばこを吸わない人は禁煙席が当たり前。」に決まっているかもしれない。
よって、それ以降の考察は、希少な生物にしか該当しない内容っぽいことを明記しておくよ。
紫煙八景・保健体育
たびたびブログにも書くが、私は水生昆虫に対して、そこそこの興味を持っている。
田んぼに行き、水面をのぞく。
人工池があれば、水面をのぞく。
ちょっと大きな「かめ」に水がたまっていれば、水面をのぞく。
高速道路。
一面、田んぼの風景に、ぽつんとため池が認められたりしたら。
そこに行きたい気持ちと、どうやっても行けないという事実。
池や沼に、日々一喜一憂している。
私がぼそっと「いい池してるなぁ・・・。」などと口にしたら、そのときは浪漫飛行中である。
ところで「水生昆虫」に興味を持っていることは、「いとみみず」に興味を持っていることに置き換えることができる。
なぜならば「いとみみず」は水生昆虫のえさとして取り上げられることが非常に多いためである。
例えば、水生昆虫の写真を見るということは、1/3くらいは「いとみみず」の写真を見ているようなものなのだ。
また「いとみみず」は水生昆虫と同じように、あまり見かけることができない生物でもある。
私は今まで、トカゲの死骸やよく分からない生物を捕まえた子供を見たことがあるが、「おかあさーん!!。いとみみずがこんなに取れたよ!!。」という子供には、出会ったことがない。
いや、実は捕まえた子供もいたかもしれないが、それは詳細に書くと「捕まえていた」だろうし、「付着していた」となるだろう。
要は、小さいのである。
私もよくは知らないのだが、なんとなく田んぼですごく細い、小さいものがピラピラしていたら、それは「いとみみず」であることにしている。
そして「こんなにエサがあるんだから、何かいるんじゃないか」と心ときめかせるのだ。
このように「いとみみず」は、ある人種にとってはターゲットとなっているが、それでも「えさ」としてであり、少なくとも主役となるような人格を持たされてはいない生物だ。
がんばっても「えさ界」の主役である。
私は中学生の頃、「いとみみず」が主役の写真に出会った。
保健体育の教科書である。
「たばこの害」と銘打たれたその写真は、正常な水にいる「いとみみず」と、ニコチンを添加した水にいる「いとみみず」である。
その差は歴然。
正常な方は、ちゃんとみみずしており、どこか「これから飲みにいこうか」という雰囲気すら出している。
しかしニコチン側は、ちゃんとみみずしていない。とうに死んでしまっている。
この写真を見たとき、私はたばこの害について、水生昆虫について、いとみみずについてで脳内大騒ぎだった。
そこそこのたばこなら、だいたい一本の誤食で、幼児の命を奪うという。
そして、たばこによる事故の多くは、誤食であり、誤飲だそうだ。
誤飲。
死んでしまったほうの「いとみみず」が経験したシチュエーションは「飲みかけのジュースに吸殻を入れました」というものなのだ。
私は「口に吸殻のかけらが付いている空き缶」を見ると、保健体育の教科書を思い出す。
「あぁ、水生昆虫のえさが・・・。」
ということで、吸殻はちゃんと灰皿へ。
そうしないと、こればかりは、いとみみずに申し訳ない。
紫煙八景・自失の念
絶叫マシーンに乗りたがったり、お酒などで酩酊感を味わったりしたがるのは、少なからず誰しも「自らを失う願望」のようなものがあるからだ。
ある作家は、この願望が何を意味するのか、を書きたかった。
もちろん彼は次のことを知っているだろう。
「みんな、おぼろげかもしれないけど、そういうものがあるというのは知っているだろうなぁ。」
生きるということは、同時に死というものへ向かっていくことである。
したがって、我々は既に「ゆるやかな自失」を実行していると言える。
この法を背負っていても、人間というものは、時として故意に自失を求めるのだった。
これは、なんなんだ。
「近代社会における生活水準の向上が、死というものの重みを軽減した。その代償である。」とかいうんじゃ、もったいないぞ、話として。
よし、実学主義だ。
酒もってこい、酒!!。
などと思ったかは全然知らないけど、話はもうすぐ終わります。
簡単に言いますと、僕はたばこの煙を吸うのが、大好きなのです。
おそらく、小さい頃に、父親がたばこを吸っているときに、すっごくたくさんアメ玉をもらったとか、そんなんだと思うのですが、とにかくあの香ばしさが好きだ。
ただ、吸っている人による。
こういうだけでだいたいのことは読み手の脳内で補完されていると思うので言及はしません。
また、においの強度ね。
あんまり煙たすぎると、だめだ。
健康のことも考えちゃうしね。
一生懸命ボールペンに付いた値札シールをはがしているときに、ふと煙が香る。
そんなんがいい。
もちろん、そんなときの僕に「自失」どうこうは、全くない。
だが、今回の話の後半部分は、僕以外の人にとっては副流煙話であり、僕は自失まっしぐら、ということになる。
無害な煙で、吸ってる人もおいしい。
そんなたばこは、早く作れ!!。人!!。
紫煙八景・律儀な男
こんなクイズがあった。
「5個のたばこの吸殻から、1本のたばこを作り出せる男がいます。」
「今日は25個の吸殻を手に入れることができました。」
「その日、彼は何本のたばこを作り出せるでしょうか。」
クイズというものの持つ性として、5本ではないな、と思われてしまうのはしょうがない。
そして「25個の吸殻から新たに作った5本を吸い、生じた5個の吸殻でもう1本できるから、計6本作ることが出来る。」という解答に到達するのは、さほど困難ではないと思われる。
だが、そんなことよりも「問題の男」が気にかかる。
彼は「5個の吸殻から、1本のたばこを作り出せる」技術を、自分がたばこを吸うためのみに費やしているようだ。
また、解答として「新たに作った5本を吸い、生じた5個の吸殻でもう1本」とあることから、彼の生み出す「吸殻たばこ」はほぼ新品である様子。
「たばこの吸殻から、1本のたばこを作る」という点が、なんとも男の悲哀を感じさせる。
新品同様のたばこで、何かできないだろうか。
何で新たな吸殻を生み出すために、吸っちゃうんだ、男!!。
どんだけ好きなんだ、たばこ。
だが、彼は律儀なだけなのだった。
クイズに意外性を持たせるためだけに、彼はたばこを吸い続ける。
土地開発
本日、3次元の友達とラーメンを食べた。
ここのラーメン屋は、どうしたことだろう。
食べる席ひとつひとつにモニタが設置されており、そこでなにやら流行りの歌のプロモなどが流れる。
よって、若者は食欲だけでなく、いやおうなしにCD購買意欲も刺激されるような仕様なのだ。
人間で欲と言えば3つほど思い出されるが、それを複数、同時に満たすことは難しいとされていた気がする。
そのような人間の気質のおかげか、食欲を満たしても「いますぐCD買いに行かな!!。」とはならなかった。
さて、目の前のモニタでは、どこかで聞いたことあるような人のプロモがやっている。
だが、僕は最近の音楽事情に極めて疎い。
「最近の歌とかには、ついていけなくてねぇ・・・。」
えんがわのひなたぼっこの様相である。
と、モニタに「柴田淳」なる人物が現れた。
申し訳ないのだが、全く知らない人物だ。
彼女がなにやら曲を出すのだろう。
「シバジュン、待望の・・・」みたいな字幕が出る。
そこでなんとなく「田くらい、略さなくてもいいのにね。」とかいうことを言い、ラーメンとプリンを食べ、ゲーセンに行って帰った。
しかし帰り道、僕は深い後悔を味わうこととなる。
「さっきのシバジュンの田のくだり、「日本の食料自給率低下の一因が、こんなところにも。」と付け加えるべきだった・・・!!。」
この後悔は、みんなが思っているよりも深いが、直りも早い。