ブイヨンの憂鬱、2。

僕はブイヨンと聞いて、それ自体にはそれほど詳しくないのだが、ひとつだけ思い出すことがある。
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地球。
海は水を湛えていたが、その中にすら生命はいないよう。
だいぶ昔の地球だ。
しかし、何か不思議なことがいろいろ起こり、アミノ酸が誕生。
それが水に溶け込み、これまた何か不思議なことがいろいろ起こり、ちっこい細胞みたいなものが発生したらしい。
これはどのように生命が誕生したのかという疑問に対する有力な答えとなる説のひとつである。
ちなみに、その頃の、アミノ酸が溶け込んだ水や海のことは原始スープと呼ばれている。
そのアミノ酸の濃度は数%で、4?5リットルの水にブイヨン1個を溶かし込んだくらいのものだった。
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長かったねブイヨン。
こんな話を本で読んだことがあり、ブイヨンと街中で聞くたびに、この話が頭に浮かんでくるのだ。
さて、この話で最重要ポイントがあるとすれば、どこだろう。
美しく濁したアミノ酸の合成箇所か。
同様に美しい、最初の生命が発生したところか。
もちろん、違う。
当ブログでは、両方ともお手上げテーマだ。
特に後者のは、足も上がる。
そして最重要ポイントは、タイトルにもある、ブイヨンですらない。
そりゃあなた、「原始スープ」ですよ。
確かに、ブイヨンの例えとか、気になる点は他にもある。
でも「原始スープ」の方が、強い。
明日はこれをいじる。

ブイヨンの憂鬱

井の中の蛙、大海を知らず。
よく知られたことわざだ。
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何やってんだよ、蛙。
もっと大局的な視野を持とうぜ。
グローバルに物事考えようぜ。
世界は、もっと大規模に回ってんだよ。
俺、こんなところでは終わらないから。
今、充電中なんだよ、充電。
あっお前、メロンばっかり取りすぎじゃね?。
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ことわざの意味を、だいたい40パーセントくらいは表せているのではないだろうか。
ここで、このことわざを言い換えてみよう。
鍋の中のブイヨン、大海を知らず。
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別にいいじゃねぇか、なぁブイヨン。
広ければいい、ってもんじゃないよ。
鍋の中だって、重要だよな。
海、あぶないらしいし、海。
え、お前、まさか海に行くんじゃないだろうな。
だって、お前、海じゃ、さすがに希釈されすぎだろうが。
いないのとほぼ同じなんだぞ。
うん、大丈夫だって。おいしいって。
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蛙もブイヨンも、ほどほどがんばれ。

露出、強。

夏の町で出会った人の中で、一番露出度の高かった人物。
それは残念ながら女性ではなく、おじいちゃんでした。
そんな事実を今思い出し、愕然とする男性が案外多いのではないか。
「確かにそうだった。かなりセクシーな女性もいたが、かなりセクシーなおじいちゃんもいた。」
おじいちゃんは女性に対して、防御する箇所が少なくて済むため、どうしてもセクシーさで、優位だ。
しかも、本人は露出度のことを意識していない。
天性の悪っ子である。
ただ、救いというか、残念というか。
助かるところは、まず誰もおじいちゃんにドッキーンとならないことである。
そんな人ばかりだったら、もう「えの素」だ。
しかし、ドッキーンとしてしまう人もいるはずだ。
そんな人は、町中で一瞬たりとも油断してはならない状態が続くことに。
多くの無関心と鋭く細い緊張のはざまに、半裸おじいさんはいる。

夏の日に 紡いでみたよ 五七五その3

前々回の五七五
前回の五七五
暑き夜
 ミッドナイトウェイ
  サーカスだ
     nimbus7942(ミッドナイトウェイをテンポよく読むこと)
休み終え
 色気増してる
  同級生
     nimbus7942(何かあった)
パイプ椅子
 甘えてぐずり
  指を噛む
     nimbus7942(たたんでほしくないの)
かたつむり
 もう触れなく
  なっている
     nimbus7942(気持ち悪い)
金縛り
 指動かせば
  解除さる
     nimbus7942(なったときはこの句を思い出すこと)
コワモテが
 濡れたタオルを
  ビッてやる
     nimbus7942(高い攻撃力)
地下道に
 一輪の花が
  ハンティング
     nimbus7942(ここにしか咲かない花)
なめだすと
 止まらないのが
  あめ玉だ
     nimbus7942(あめ玉だ)
張り裂ける
 この想い胸に
  太陽へ
     イカロス
おとといの
 さきおとといは
  思い出だ
     nimbus7942(夜ご飯なんだったかなぁ)

リオの回答

以前「注文したガトーショコラに添えられているミントの葉は、食べるべきか」というのを書いた。
ハーブの扱い
その後、店員さんに葉の処遇について聞いてみたところ、「飾りですから」との、ジオン軍整備士のような返答。
このコメントは「ステーキについているパセリ」や「さくら風味のケーキ上に乗せられている花びら」など、これまで多くの人々を悩ませ、あるいはネタとして使われたそいつらを、一言でさっぱり解決させる言葉。
「この葉は食べる対象なのか」かどうか、どうこうではなく、それより一歩前の事柄なのだよ、と教えてくれる。
ところで、実際に我々がこの問題に対し、「この葉は食べる対象なのか」ということだけに執着していたか、というとそうでもないと思われる。
消防車のサイレンがかすかに聞こえる。
どこか遠くで火事があったようだ。
そのくらいほんのりだが、どこかで「まぁ、飾りだよな。食べるどうこうじゃないよな」という思いがあったような気がする。
なぜならば、店員さんに聞いた「飾りですから」を、何の疑いが生じることもなく、納得できる自分がいるからである。
しかし、我々の幾人かはそれを無視あるいはうけながし「それにしてもコレ、食べるのかねぇ」と考え、質問し、ひとりでムフフしたりする。
どうやら、物事がおもしろくなりそうな方を選択してしまう構造を持つ人間が、この世には少なからずいるようだ。
それは一見、自然の摂理に反するやっかいな性質。
しかし、それでおもろいことになれば、それはそれでOKな場面も多く、文明社会において、それに多態性を持たせる一種のスパイスになっていると、言えなくもない。
脅威のメカニズムである。

敗者の水進

ひざの少し下ほどの水位。
緩やかな流れを持つ川を、人が渡る姿を想像してみよう。
なんか、負け犬じゃないだろうか。
もちろん別にその人個人がどうこう、ということではない。
当たり前だが、水に足がとられながらの歩行となるため、やたら活力のない、これから廃村に向かいます、みたいな感じになるのだ。
川遊びに興じる子供達も、それほどの時間を要せずに、みんな敗者のような歩き方の仲間入りだ。
友達と笑いながら歩いているのだが、ほらもう足は、陸への最短距離を選んでいる。
おじさんなんかは、水の中を歩くこと自体が久しぶりだったりするので、最初からどっこいしょだ。
ある意味、陸上では見られない、貫禄のようなものすら、ただよわせる。
と、このように人間は、ある水位においては、基本的に負け犬になってしまう。
楽だから、ということで、体を浮かせて両手で川底を歩むとかしちゃうし。
だから、水のないところくらいは、しっかりと歩きたいものだ。

僕のガムシ その3

昨日からのつづき。
【あらすじ】
水生昆虫界の逆イアン・ソープ、ガムシと出会う。
図鑑には「ガムシは泳ぐのがへた」と記載されている。
記載されてしまうくらいなのだ。
どれだけへたなんだ・・・。
僕はさっそく、洗面器に水を入れてきた。
そこにガムシを入れる魂胆だ。
ふと、周りの大人たちは不思議な顔をしているのに気づいた。
前述したように、ガムシはコガネムシ型なのだ。
どうやら、大人たちはコガネムシを水につけてどうすんだ、と思ったらしいのだ。
僕は言う。
「コイツはガムシといって、水生昆虫なんだ。泳ぎがへたらしいけど。だから、水に入れてみる」
今思うと、この説明では、余計に不思議に思ってしまいそうだ。
反省している。
とにかく、準備はできた。
後は、ガムシを泳がせてみるだけだ。
虫かごからガムシを取り出し、水面に置いた。
・・・・・・
浮いた。
そのとき、ガムシが、浮いた。
マンタが、飛んだ。
ガムシは、「泳ぎがへた」とか、そういう予想に反して、水に浮いたのである。
泳ぐどうこう、以前の問題。
浮いたまま、微動だにしない。
指で水中に押しやっても、なんら反応をしない。
指を離すと、ぷかーと浮いてくる。
ガムシは、腹部分に空気を溜め込み、水中での呼吸に役立てることが知られている。
また、今回のガムシはそもそも水中への準備ができていなかっただろう。
浮くのは、別に不思議ではない。
しかし、このときの僕はショックだった。
「泳ぐ泳がない以前に、浮いてるよ・・・」。
水面でぷかぷか浮き、動かないガムシを見て、なんだかコイツはガムシではなく、普通の陸上生活をするコガネムシなんじゃないかと思えてきた。
洗面器を囲んで、そんな風な雰囲気が僕らを取り囲む。
僕はガムシを摘み、ティッシュにつかまらせた後、逃がしたのだった。
あのときのガムシは、本当にガムシだったのだろうか。
ともかく、僕にとってのガムシとは、水生どうこう以前に、浮く、というものなのだ。
追記
なんだか「水生昆虫」の変換が「彗星昆虫」となってばかりいる。
なぜなんだ。
とりあえず、「閃光少女」みたいなもんか・・・。

僕のガムシ その2

昨日からのつづき。
【あらすじ】
水生昆虫界の反逆児、ガムシと出会う。
熊本県、どこか。
親戚のうちに、僕はいた。
当たり前のように暗くなるまで虫取りに励むが、成果は振るわず。
おじさんも「最近はでかい水生昆虫は見かけない」とひとこと。
こういうとき、虫好きのヤツは、外灯に強い期待を寄せる。
虫というのは、うんたらということわざもあるように、光属性を持つのだ。
水生昆虫も例外ではない。
夜になると彼らは光に対して、まるでカワイコちゃんが座っていた座席に吸い寄せられる中高年サラリーマンのようになる。
20時ごろ、僕はアタリをつけていた電柱へ向かった。
虫かごのみ、持っていく。
水生昆虫が目的の今回の狩猟では、彼らが電柱にへばりつくことがない以上、虫取り網は要らないのだ。
ヘビの襲来にビビりながらも、到着。
その電柱の周りは、大盛況だった。
よくわからん、虫かどうかもわからん馬の骨が飛び回っている。
一匹くらいスカイフィッシュが、いたとしてもわからないだろう。
地面には、これまたよくわからんモノが落ちている。
一体くらいキン消しが紛れ込んでいたとしても、わからないだろう。
そのひとつひとつをじっくりみて、ターゲットを探した。
確かにゲンゴロウっぽいモノもいるようだ。
しかし、みんなとにかく小さかった。
なんだか、わからない。
ちょっとざんねんでした、みたいな雰囲気だ。
そんな中、ひときわ大きい昆虫がのっそりしているのを見つける。
それがガムシなのだった。
もちろん、そのときの僕は「ガムシでもいいから!!。」状態だったため、喜んで彼を摘んだ。
彼は何の抵抗も示さず、虫かごに投入される。
ガムシが、本日の成果だ。
さて、さっそく戻った僕は、あることがしたくてしょうがなかった。
図鑑に記載されていた「ガムシは泳ぐのがへた」が気になっていたのである。
み、見てみたい・・・。
つづく。

僕のガムシ

川辺近くの田んぼに水がはられてから、幾分たつ。
虫取り網を持つ少年達に混ざり、その水の中を覗き込んでみる。
すると、小さな生物がちょろちょろ泳いでいるのが見てとれる。
彼らは気づいていないようだが、ある種類のゲンゴロウが何匹かいるようだ。
もちろんそのゲンゴロウは、よく知られた濃緑色の、体長4cmくらいのヤツではない。
しかし、多くは体長1cmにも満たない種類なのに、ソイツは1.5cmくらいはありそうだ。
この田んぼにはよく来るが、この大きさのゲンゴロウが何匹もいることは、少し珍しいように思える。
さて、ノスタルジーな感じかつ、あまり興味深くない出だしでナニだが、今回は「ガムシ」について。
水生昆虫として知られている虫である。
ガムシは、冒頭で説明したゲンゴロウと同じく、甲虫(かぶとむし)の仲間で、こまごました種類も多い。
しかし、その知名度はかなり低いのでは、と思う。
確かに、その姿を図鑑などで見てみると、その理由もわかる。
たとえばゲンゴロウは、美しい流線型ボディを持ち、水をかくのに適した足を持つ。
カメムシ種系で泳ぎ回るタイプも、それに近い。
またカメムシ種系では泳ぎまわらないものもいるが、彼らはその分、やたら攻撃的なフォルムを持つ。
それに対し、ガムシはどんくさいコガネムシ型だ。
特異な姿をした水生昆虫は、子供達の人気者だが、このガムシにいたっては、その限りではない。
「こいつ、他の水生昆虫が水のことや狩猟のこと考えているのに、なんだこのていたらくは!!。」
その写真から、そう憤りを覚えることだろう。
形を見る限り、彼らは何も考えていないように感じるのだ。
ところで、この子供達の感想は、特別局所的な話ではない。
実際、彼らは腐った水草などを食し、そもそも捕獲器官はなくてもOKなのだ。
※ガムシの幼虫はゲンゴロウと同じく、がっつり他の動物を喰らうのだが、いかんせんイモムシ型なので、気持ち悪く、近くにおいておきたくないタイプである。
それに、図鑑にすら「泳ぐのがへた」と書かれてしまうのである。
図鑑の水生昆虫コーナーで、その特徴を「泳ぐのがへた」「体は流線型でない」と書かれてしまうガムシ。
子供達が興味を示さないのも、しょうがない。
ちょっと、水生昆虫を探しに行く子供達のなかに紛れ込んでみよう。
「よし、今日はタガメ(カメムシ系水生昆虫のトップ)とゲンゴロウを採ろう!!」
2時間後。
「タイコウチとか、小さいゲンゴロウでもいればいいんだけれど・・・。」
2時間後。
「アメンボはいっぱいいるんだけれどね。」
2時間後。
「もう、ガムシでいいから!!。ガムシでもいいから!!。」
こんな感じ。
ガムシには悪いが、水生昆虫を愛する子供達にとって、ガムシは最大限の譲歩なのである。
ところで、僕はこのガムシに一度だけ会ったことがある。
つづく。

のりしろ

ガダラの豚。
故・中島らも氏の代表作で、文庫本で「?」「?」「?」と3巻まである、面白いが少々購買意欲を削ぐ小説。
集英社文庫から出ていたが、近頃双葉文庫でも出たようだった。
僕はさっそく双葉文庫版の「上」を買い求め、その紙に書かれている文字をひとつづつ見てみた。
要は、読んだ。
この小説は、前半のまぁまぁ安穏な雰囲気と、後半のVガンダムさながらの赤血球流出な雰囲気の落差を楽しむものであると、僕は勝手に解釈している。
後半あたり、らも氏はだいぶニヤニヤしながら書いたのでは、と思う。
とりあえずそれはどうでもよく、とにかく「上」を読み終えた僕は、「中」を探した。
ところが、どこの本屋でも双葉文庫版の「中」がない。
なぜなんだ。
ふと、集英社文庫の方「?」があるのを発見。
うちにあったかどうかもわからない。
とりあえず「?」を買ってみた。
・・・なんということでしょう。
「?」の前半、半分くらいが、双葉文庫版の「上」のかぶった内容なのである。
「上」のつづきが見たいのに、それは?の後半、からなのである。
どうやら、集英社文庫で?、?、?の3巻として出していたものを、双葉文庫は上下の2巻で出したということのようだ。
僕は、その内容のりしろ部分を読み飛ばしながら、なぜ「?」を買ってしまったのだろう、と後悔した。
そうだ。
集英社文庫の「?」を買ったのは、双葉文庫の「上」のつづきが読みたかったが、双葉文庫の「中」が見当たらないから、という理由からでなのであった。
しかし、そもそも双葉文庫の「中」なんてものは、はなからない。
のりしろに強い憤りを覚えていた僕は、自分の方に過ちがあることを認めざるを得なかった。
ありもしない「中」を勝手にあるものだと勘違いし、セール日を間違えて、ありもしない安い卵を探し求める主婦のようになっていたのである。
「なんで僕、「中」があると思い込んでいたのだろう?」
すぐにわかった。
僕は以前から「ガダラの豚」が、文庫版で3巻まで出ていることを知っており、もちろん今回の新刊もそうであるに違いないと勘違いしたのだ。
だから、その「上」を見て、何の確認もせず「中」があると思ったのだ。
どうやら僕にとって、ガダラの豚はその内容もさることながら、とにかく3巻もある、やたら長いヤツ。
とにかく3巻もあるのかよ、という認識なのだった。
今、部屋の床に、その小説が3冊、平積みされている。
下から、上??の順だ。