めめについて

めめというちゃとら猫を飼っている。
彼女はもう1年くらい前だろうか。
うちの庭にふらふらと現れた。
「ふらふら」というのは、実際目的地もなかっただろうが、その姿にも通ずるものでもある。
やせ細っていて、年齢も不明。
病気を持っているかもしれないので家には入れられない。
とりあえずエサを与えるために捕まえようとした家族が見たのは、病的に薄くなった毛のなかを颯爽と走るノミだった。
猫の毛のなかを走るノミは素早い。
しかしとにかく颯爽と走り抜けるので、なんだか気持ち良さそうに見える。
猫にとっては小さい虫が体表を這い回っているということで、くすぐったいことこの上ないだろう。
猫はノミにとってハイウェイなのかもしれない。
ノミはもういいが、とにかくめめはぼろぼろだった。
けっこういいところを省略するが、現在は少し毛の少ない事以外はいたって元気で、かすれた声で甘えてくる。
おそらく彼女に取って今の生活に不具合はなく、せいせい服を着させられるから自分の体がなめづらいことくらいだろう。
ところで以前、彼女の尻から虫、いわゆる寄生虫が出たらしいのである。
回虫だろうか。
僕は見た事ないが、そんなことを家族が言っていた。
いきつけの動物病院に行ってもいいのだが、何となく市販の虫下しを試したところ、どうやらいなくなったようす。
人に入り込んだら目に潜入して失明させてしまった例もあるらしく、おさまってよかった。
と、このような由来がある以上、彼女は何かにつけて「虫でちゃうし」と言い含められる事が多くなってしまった。
甘えてきても、なでられつつ「虫でちゃうからねー」と言われてしまう。
ねこじゃらしで遊んでいても「興奮しすぎて虫でちゃうかもしれないから」と言われてしまう。
ひなたぼっこをしていたら「寝ながら尻から虫がでる」と、どこかで聞いたような語呂のが誕生してしまった。
猫ですらこうなのだから、検便的なもので虫が疑われてしまった子供は大変な憂き目に合ったことだろう。
憎むべきは虫である。
ちなみにめめは慢性鼻炎だそうだ。
今もズボンに甘えられて鼻水をつけられてしまった。
悪魔が来りて笛を吹く。
現在ふとんのど真ん中で寝るのが彼女の流行だ。

焼身の主張

脂がのっている。
悪い事はそんなになさそうではある。
しかし、脂がのっているのを箸でぎゅーっとやることで表現するのは、どうかと思う。
そんなことをしたら、かなりぱっさぱさな魚だって脂が出る。
表面が少しテカるくらいで充分だ。
鼻をつまめば、よくわからない何かが絞り出されてくる。
表面が少しテカるくらいで充分だ。
話は変わるが、「ほ?ら、こんなに脂がのっていますよ?」の次には、何がくれば面白いだろう。
例えば七輪の中へ、脂がどぼどぼ垂れている焼き魚は、面白い。
数秒で、魚自体が消えるかもしれない。
「脂がのりすぎていて、魚がほとんどなかった」ということだ。
対象をめがねになすり付けるのもいい。
ぞうきんを絞る映像もいい。
なんとなくだが、脂がたくさんのっているような気にさせるだろう。
対象が燃えているのもいい。
あくまで「脂がのっていること」が重要なのであって、特にそれを食すことは度外視だ。
あるいはアルコール添加なしでのフランベ。
脂がのっているような気がする。
もう食べたあとでもぐもぐしているのは、一見「脂がのっていること」を見せてくれていない。
しかし熟考すると「あまりに脂がのっていたため、食べちゃった」ということで、間接的にすごく脂がのっていましたを演出していて、たいへんよい。
そのとき口から脂がちょい垂れているのが、いい。
口のキャパシティでは脂量をカバーしきれないくらいなのだ。
食べた人がよく燃えたら、どうだろう。
それは、何らかの主張があると思わせる。
しかしそれが「僕が食べたの、脂がこんなにのってました」であるとは、誰も思うまい。

とてもシーケンシャルな星空をみはじめ

?、?だと、やっぱり次は皿ですね。
ね。
?、?、皿。
ポップなお菊ですね。
まあこれはいいとして、この法則があったとき、?が田中だったら、どうなるでしょう。
田中、高橋、皿。
いいですね。
不条理な方向で投げ放っている感じが、いいですね。
放った割には「わかるやつにはわかる」みたいな風で、いやらしいですね。
僕はぜんぜんわかんないんですけどね。
僕には田中が3人、高橋が2人いて、合わせると6人でした。
そのうちの高橋の2人は川へダッシュ、1人の田中は山にスナーク狩りに行きました。
僕と田中2人、あわせて皿人は田中僕田中になりました。
僕はぜんぜんわかんないんですけどね。
ただ、僕はどんなにか田中が女の子だったらいいのにと思ったでしょう。
宮沢賢治が何かを思ったくらい、思ったよ。
全然関係ないけど、ワードとかのオートコンプリートっぽく、何か商品名を入れようとするとそれに紐づいたURLが出てくる機能、めんどくさそうよね。
もりな
ここまで入力すると、ふきだしにずらっとお菓子サイトへのユーガットメール、いやURLが出てくるんだ。
いいですね。
疲れにまかせて堂々とした感じが、いいですね。
ちなみに「ユーガットメール」のところは「ボーイミーツガール」とどちらにしようか迷ったよ。
僕はぜんぜんわかんないんですけどね。
田中ミーツ田中になるには、田中のミーツを僕が引き受けて、質を落とす事なくしかも田中のミーツであることを相手に理解してもらえるように、田中にミーツしなくちゃいけないんだ。
僕がミーツになれれば、問題なく田中ミーツ田中になるんだけど、ちょっとミーツは。
ミーツは年中、ふくらはぎの穴から樹液が出ている人しかなれないらしくて。
「樹液って、蜜のことじゃあないですよ」
ミーツは、こう言われるのが一番嫌いなんだって。
そんなことはわかってる、わかってるよって。
別にかけたわけじゃないんだよって。
ミーツになるには蜜が出てるとかって、しかもそれを樹液と取り間違えたって。
そんなことないんだって、怒るんだ。
むしろ順番が逆らしいんだ。
ミーツと蜜と樹液の順が。
今まではミーツ、蜜、樹液というのが定説だったんだけど、実はそうでなくて、ミーツ、蜜、樹液なんだって。
一見ぜんぜん変わってないんだけど、量がすごく変わるんだって。
量で順番が変わるくらいなら、この世の中いろいろ変えられる事があるのにね。
僕はぜんぜんわかんないんですけどね。

くびれおに

今ドラマで、首つり死体を目の前に金銭関係で口論をする人々のやりとりがあった。
特性上、非人道的なシーンを表現したいところなのかもしれないが、フィルターを外してそれを見れば「口論する人たちの横を、揺れる足がちらほら」となり、なんだか面白い。
はやく下ろしてやろうよ
なんか一段高いところから口論に参加している、位の高い人みたい
シャンデリアのオプションです
どれもよく当てはまる。
自殺における縊死は、うまくフィットしなかった場合はかなり苦しいと聞く。
でも揺れている。
その妙な差異もおかしいかもしれない。
あくまでドラマだし。
それにしてもこのシーンで一番最初に思ったのが「たかっ」だった。
ちょっと、高かったのである。
ドラマの首つりシーンをみて、首つりの高さが気になるとは思わなかった。
首を吊るためには、実はそんなに高さはいらないという。
苦しいが、座高くらいのところに頸部を圧迫するための紐などを仕込めばいけるとか。
そんななかで高さを目指す首つり者たち。
彼は落差を使っての脱臼を狙ったのだろうか。
これは苦しまないらしいし。
しかしドラマでは、首つり自体(なんかいい響き)がシャンデリア様のものに紐をつけて、高いところで行われていた。
落差どうこうの高さではなく、高高度のところでの普通の首つり死体だった。
高いところでみじっかい紐での首つり。
意外性。
誰の目にも触れられないようにしたい。
星に少しだけ近い。
心境はいかなるものなのだろうか。
もちろんその心境とやらは、もうなくなっているのだろうが。
まあ、ドラマでよかったよネ。

陰陽の羨望

前から好きな事は好きだったのだが、ここのところJUDY AND MARYの「ランチ イン サバンナ」ばかり聞いている。
作られた背景は全く知らないが、歌詞にビルやらサバンナやらが出てきて、その対照が楽しいのである。
対照。
付箋だとか吸い殻だとか使いかけのペンだとか。
この富栄養な世の中で、何と何を紐でむすめば、あるいは線をひけば、全てを網羅できるのだろうか。
歌を聴いていて、そんなことと中島らもの小説を思い出した。
落ち着きがちだが、男と女だろうか。
ぼくが思うに、男と女はかなり似ている。
外見的に言っても、ほぼ同じであると考えて間違いない。
ある本に「セントバーナードとチワワの化石を見た未来人はそれを、「同じ犬というもの」とは認識できないかもしれない」という旨のことが書いてあった。
そんなことはないんじゃないかとも思うが、とにかくそれと比べたら男と女はおんなじだ。
おんなじものをつなぐために線をひくと、それは点だ。
点では全てを網羅できないだろう。
男、女、違う。
これまた落ち着きポイントだが、生と死だろうか。
生と死を紐でむすぶとそれは、例えば人間では「人生」となるだろうか。
となると、全てを人生が網羅していればよいことになるが、ざんねん。
例えば「神田川の川底に埋もれている舟木一夫の缶バッジ」は、誰のどんな人生にも「かすっていない」と思われる。
作った人もそのひとつを意識して作った訳ではないだろうし、舟木一夫はその存在すらしらない。
あるかどうかわからない。
しかしその時点で、すでに僕の人生には「かすっていない」ことがわかる。
おそらく誰の人生を持ってしても「舟木一夫の缶バッジ」は網羅できていないだろう。
生と死を紐でむすんでも、全てを網羅できるとは考えにくい。
こういった方面ではなく、場所を紐でむすめばいいのだろうか。
横浜と成田だろうか。
便利だろうが、全てを網羅しているとは言いがたい。
横浜成田間すら、網羅できてはいないのではないだろうか。
南極と北極だろうか。
全てとは、そんなもので表現しきれるのか。
昔の船乗りなら、海図の対角線がまさにそれだったかもしれない。
しかし今は、線を引こうとしたその先がどんどん遠くに行ってしまっていたりすることが知られている。
そもそも2点を定義して紐づけるということ自体がナンセンスなのかもしれない。
そんなことより、何かおもしろいオチはないのだろうか。
N極とS極を紐でむすぶ。
磁石が持ち運びやすい。
こども店長と菅井きんを紐でむすぶ。
じっとしていない。
自分の左手と右手を紐でむすぶ。
これは例の、落ち着きポイントを探そうと尻ふりを見られたかのように、気分が悪くなるやつ。

探す

コンタクトレンズが取れてしまったとする。
それはけっこう、漫画な光景だ。
しかし周りの人は眉間にシワを寄せて道路に目をこらすあなたを見て事態を把握、探すのを手伝ってくれるだろう。
そして見つかる。
ここで、どんどん「周りの人」を増やしてみる。
まずふたり。
計3人が屈みながら地面を見ている。
さらにふたり。
5人が落ち穂拾いだ。
さらにふたり。
この辺で「もしかしたら服に付いているかもしれません。回って見せてくれませんか」となる。
見つめるふたりの前で回ってみせる。
そしてふたり。
ちょっと範囲を広げてのコンタクトレンズ探し。
ふたり。
「ずっと回っていたんじゃ大変でしょう。わたしが回してあげます」
回してもらっているあなたを見る2、3人。
周りを探す10人弱。
ふたり。
「これは本腰を入れる必要がありそうだ。とりあえずみなさん、松屋に行きませんか」
ふたり。
照明機材を用意しましょう。
ふたり。
水買ってきましょう。
ふたり。
ああそれ、ぼくがやっておきますから。
すいませんねぇ。
ふたり。
ああそこは探しましたから、あっちの方向お願いします。
・・・
こうなってしまっては、誰もコンタクトレンズを探しているのだなんて考えもしない。
もはや「国のきっかけ」みたいなことになっている。
ぼくはここまで探しましたから。
土地の獲得である。
あっち、涼しかったですよ。
避暑地の誕生である。
お菓子買ってきましたよ。
職業の誕生である。
国が土地と避暑地と職業で成り立っているかどうかは分からないが、きっかけとしては十分だろう。
あれ、あのお立ち台みたいなところででプロレス技かけられてるのは誰ですか?。
おなじみの国王である。

詩金の時計塔

先日、重力がどうこう考えていたとき、他の事も思いついていた。
「時間が重力に屈するとき」。
なんかすごくアレだが、思いついた事は至極つまらないこと。
5時30分もしくは6時30分あたりだ。
もちろんアナログ時計で、しかも地と垂直になっていなくては、よくわからないことになってしまうけど。
針がだらりと垂れるところを想像すると、思いのほか寂しい感じがする。
いつも動き続けているものがちからなく静止しているように見えるのは、寂しいのだ。
しかし、その時計は夕日あるいは朝焼けに照らされているだろう。
それは自体は、けっこう悪くない。

はじめての死亡届

死亡届を、ここではもちろん自身の死亡届になるが、自分で書く事はできないのだろうか。
さすがにその提出になるとほぼ不可能だろうが、もしできたとしても窓口にどんな顔して現れればいいのか。
おそらく後ろの風景が透けているため、窓口係はすぐに事態を把握、こう叫ぶだろう。
律儀!!
ユーアー律儀!!
2個目のはいらなかったと思うが、まあ難しいだろう。
となると、せめて死ぬ前に書いておくことはできないだろうか。
もちろん唐突な死である場合も難しい。
例えば死亡原因に「飛行機事故」という旨の事が書けてしまう「死亡届事前記載者」がいたとする。
となるとどうしても「そんなことがわかっているのなら、飛行機に乗るなよ!!」と思ってしまう。
しかし彼彼女にはわかっていたのだろう。
たとえ飛行機に乗っていなかったとしても、そのときが来たら飛行機が自分のところに墜落してくることを。
だから堂々と「原因、飛行機事故」。
世にも奇妙な物語みたいだ。
そもそも、僕は死亡届に「死亡原因」欄があるかどうかも知らない。
日常生活で触れる機会のある、この語句と似たことば「志望原因」のポジティブさを鑑みると、どうしても書きづらい「死亡原因」。
いや、履歴書なんかでも、まず「志望原因」なんて記載されていないな。
どちらかというと「志望動機」だ。
となると、死亡届にあるのか気になる「死亡動機」。
確実に自殺の詳細枠である。
自殺はいけない。
死亡届も書かなくていいや。

かかっ

サザエさんだって「おさかなくわえて町まで 出かけたら」とやれば、それは陽気などらねこ目線での日曜劇であり、現代版我輩は猫であるのようになりかねない。
いや、現代版ならば「わたし、猫だから」くらいにしなくてはならないかも知れず、聞いてもいないのにそう垂れる90年代の香りのするレデーのようだ。
我々にとって90年代とは何か。
それはノストラダムスに怯えた日々である。
どんな人でも、その片すみには崩壊への戦慄と、最後に食べるものという決意を持っていたはずだ。
しかしながらノストラダムスも、今では一発変換されないまでに、市民権を剥奪されている。
実は、彼は一部の人々にとっては救世主であったにもかかわらず。
それは破壊衝動に駆られたような特異な人ではなく、もっぱら普通目な人。
だが、散漫で惰性のひどい生活に対し、蒙昧だが「なにか、こうさあ」と感じていた人々であった。
残念ながら、それをノストラダムスはなんら解決しなかった。
解決するような問題の形も体していなかった訳だが、とにかく人々はその分、惰性が余計に感じられただろう。
(重要なおしらせ)
どうにか「はだしでかける」というオチを目指して書いてきましたが、全然まとまりません。
ケータイの電池もきれかかっ

形見

ひどい話題かもしれない。
しかしきわめて他意はないので、まあ聞いてもらいたい。
形見の話である。
誤解を恐れずに言えば、現代は昔よりも「形見を人為的に指定する事のできる可能性が高い」、いい時代である。
唐突に訪れる人生の終ではそうもいかないだろう。
しかし、幾ばくかの覚悟を胸にその瞬間を迎える、主に病気による終焉というものが昔よりも多いのは間違いないようだ。
故にこの場合の「形見」というものは、ある程度本人の意向が含まれたものになりやすいのである。
人形を形見にしたいのであれば、それを大切にしているところを常々見せていればよいし、気に入ったいすなんかを形見にしたいのならば、気持ち良さそうに座っていればいい。
形見というのは、残された人にとって、へたすると当人よりも重要なものとなりえる。
猶予があるなら、日々の形見づくりを行っておいたほうがよいのではないだろうか。
さて、ここまでくると、また違った考え方を持つ人々の登場を無視する訳にはいかない。
いわゆるおちゃめ精神を持った人たち。
彼らはその形見の意味するものを逆手に取って、残された人々を翻弄しようと画策する。
あの世でにやりとするつもりなのである。
「お母さんの形見の一万円札」
何があったかはわからないが、これはもうお母さんしてやったりと感じずにはいられない。
子供のほうも、もちろん母親を失ったことは悲しいだろうが、そのおちゃめっぷりにまた、別の涙が出るだろう。
「これ、お母さんの形見の一万円札だから、使えない」
いいお母さんである。
「お父さんの形見の養命酒」
これも、意図して形見にできたとしたら、かなりやり手のお父さんである。
父親の形見の品として、仏壇に養命酒がおかれていたりするのである。
もちろん亡くなった背景等が関わるが、多くの場合誰しも「あいつうまいことやりやがった!!」と思うに違いない。
「おじいちゃんの形見のUSBメモリー」
おじいちゃんはスパイか何かだったのだろう。
僕は今のところ「形見づくり」を全くしていない。
しかし何か考えておいた方がいいのかも知れない。
「形見として、ジャミラの断末魔のモノマネを伝授する」
ものでなくてもいい。
形見を選べるというのは、確かにいい時代である。
そしてもう一度、言っておくべきだろう。
他意はないが、ごめんなさい。