焼身の主張

脂がのっている。
悪い事はそんなになさそうではある。
しかし、脂がのっているのを箸でぎゅーっとやることで表現するのは、どうかと思う。
そんなことをしたら、かなりぱっさぱさな魚だって脂が出る。
表面が少しテカるくらいで充分だ。
鼻をつまめば、よくわからない何かが絞り出されてくる。
表面が少しテカるくらいで充分だ。
話は変わるが、「ほ?ら、こんなに脂がのっていますよ?」の次には、何がくれば面白いだろう。
例えば七輪の中へ、脂がどぼどぼ垂れている焼き魚は、面白い。
数秒で、魚自体が消えるかもしれない。
「脂がのりすぎていて、魚がほとんどなかった」ということだ。
対象をめがねになすり付けるのもいい。
ぞうきんを絞る映像もいい。
なんとなくだが、脂がたくさんのっているような気にさせるだろう。
対象が燃えているのもいい。
あくまで「脂がのっていること」が重要なのであって、特にそれを食すことは度外視だ。
あるいはアルコール添加なしでのフランベ。
脂がのっているような気がする。
もう食べたあとでもぐもぐしているのは、一見「脂がのっていること」を見せてくれていない。
しかし熟考すると「あまりに脂がのっていたため、食べちゃった」ということで、間接的にすごく脂がのっていましたを演出していて、たいへんよい。
そのとき口から脂がちょい垂れているのが、いい。
口のキャパシティでは脂量をカバーしきれないくらいなのだ。
食べた人がよく燃えたら、どうだろう。
それは、何らかの主張があると思わせる。
しかしそれが「僕が食べたの、脂がこんなにのってました」であるとは、誰も思うまい。

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