お料理しやすいらしい

キッチンをのぞくと、古びた容器にこう書いてあった。
「おかあさん」
ハナマルキというメーカーが出しているお味噌の商品名だ。
非常に残念で、これに触れるのは僕にとって、そこはかとなく敗北感を感じてしまうものなのだが、しかたない。
お味噌の商品名が「おかあさん」である以上、それはこうなっているのである。
「だし入り おかあさん」
少々ホラー漫画タイトルである。
風呂からなかなか出てこない母親を心配した家族が目にしたもの。
それはいい香りのする湯船なのだった。
なお、この商品にはこんなフレーズがついている。
「とけやすくて、お料理しやすい」
となると、こうなるわけだ。
「おかあさん とけやすくて、お料理しやすい」
「おかあさん とけやすくて、お料理しやすい」
なんとまあ、派生しやすいこと!!。

リリカルデント

虫歯を一掃してから半年は経つが、やっぱり食べることに躊躇しないでいいっていうのは素敵。
などと言いつつも、すでにどこかが痛いような気もして、なんだかもやもやする日々になっています。
舌で触ってみて、なんとなく分かるのです。
穴の開いている箇所が。
そこは半年前の通院では「大丈夫でしょ」扱いだったのですが、実は歯医者に行くきっかけとなったのが、ここ。
こいつが素晴らしく痛み出したがために、誰もがいやがることベスト3に入る「歯医者への通院」を決めたのです。
誰もがいやがることベスト3
1位 井の頭公園で「僕という名の船で出航しよう!!」と、知らない男に言い付きまとわれる
1位 小学校のときに書いた母親への感謝の手紙が、母親によって朗読される
1位 徳光さんが泣いている
1位 歯医者への通院
1位 親類のヌード写真を担当する
1位 店員がかつおぶしだよと言って、鉛筆の削りカスをすすめてくる
1位 「出航しよう、さあ早く!!」  まだ言われている
(同率一位)
ところがこいつは治療されていません。
いつ事を起こすのか、気になるわけです。
まあ、既に歯医者に行く経験は最近のもので更新、済んでいるわけだし、もし痛み出しても、勇気は出てくると思うんですが。

過剰にとろける思い

CMはときとして過剰な演出をし、目を引かせる。
「店舗に殺到するお客さん」「対向車のいない道を、だいぶなスピードで走行する車」などはよく見られる演出だが、新しい気持ちでそれを見ると、なかなか楽しいもの。
一方、方向性の違う過剰な演出もある。
「あの娘はピザのチーズが伸びるだけで、あんなにも喜んでくれるのか」
あるCMを見ていて、なんとなく思った。
人を喜ばせたいと思うことは、誰しも心に秘めているもの。
それがあの娘については、ピザのチーズを伸ばすことでかなえることができるなんて。
これでもう、彼女のハートは射止めたも同然。
青少年達はそう勘違いしてしまうだろう。
そして延長、女の子はチーズが伸びることが大好きだと思い込んでしまうのだ。
このケースの登場人物で、悪いヤツは一人もいないわけだが、勘違いをさせてしまうことが、問題点ではある。
しかしこの勘違い。
「チーズの伸びることがうれしい」人自体はかなり多く、それだけだとCMの出来事も間違ったことを言っていないわけで。
あくまで「喜びすぎ」が問題なのではあるが、それも人の程度によるものなので。
チーズが伸びる映像で失神してしまう女の子がいたって、おかしくはない。
でもそれは、チーズに対する思いが過剰というよりも、その子が過剰なのだろう。
とにかく、「チーズの伸びることへの喜び」が持つ勘違いに気づかせることは難しいのかもしれないし、訂正しにくい勘違いというのは、もはや勘違いじゃないとも言えるのである。

知覚過敏

先日少々「鼻」について書いたので、それで思い出したことを。
以前、僕の鼻をなにやら大きいと指摘したその人は、それに関することとして、こんなことを言っていた。
「東北出身ですか?」
東北出身だと鼻が大きいのだろうか。
僕は知らない。
寒げな地方だが、外部に突出している器官がでかくていいのだろうか。
冷えてもげるんじゃないか。
僕は知らない。
東北地方で、むかし大規模な鼻インプラント現象でも起きたのだろうか。
=====
n氏「ところで、世間では「鼻が大きい」っていうと、どうにも連想されることがありましてねェ」
-「ちょっと、下ネタやめてよね」
n氏「もちろん。ズボンのジッパーの奥に潜むやつの話なんて、したかないよ」
-「ちょっと、まだ下ネタなんだけど」
n氏「いやだから、とにかくたまたまだってことが言いたかったんだ」
-「むしろダイレクトになったんだけど」
=====
たまにはこういうのもいいんじゃないかと。
楽だし、たくさん挙げられるしね。

ワンクッション その2

「空気読める度チェック」のようなものがある。
僕は読めているのか読めていないのか。
わからない。
さて、この「空気読める」について気になることがある。
この概念が認知される以前は、この「空気」とやらはどうなっていたのかということである。
?適切な言葉はなかったが、昔からみんな「空気を読む」ことを体得していたのか。
?そもそも「読むべき空気」はなかったのか。
社会生活を営む我々にとって、?はありえないだろうから、この「空気読める」は?であり、それは人間の基本的な能力であると言える。
となると、昨今の「空気読める」概念は、例えば以下のような位置づけとなるだろう。
●ある歩道を歩行中
【昔】
「あ、あの車、左折してくる」

「僕は本当はまっすぐ行きたいけど、左折するフリをする」

車は歩行者がまっすぐこないと認識、速やかに左折する

左折を終えた車を横目に、まっすぐ進む
【「空気読める」認知後】
「あ、あの車、左折してくる」

「僕は本当はまっすぐ行きたいけど、左折するフリをする」

「空気読める」

車は歩行者がまっすぐこないと認識、速やかに左折する

左折を終えた車を横目に、まっすぐ進む
昔は特に特別なことをすることなかったタイミングで、「空気読める」認知後には「空気読める」概念(ここでは「空気読める判定」と言うべきか)が発生している。
何もなかったところに「空気読める」概念が発生。これは別に交通についてのことだけではない。
日常生活のすべてにおいて、このワンクッションがおかれることになる。
「背伸びをする」→「みんなににらまれる」→「いっけねテスト中だ」
「背伸びをする」→「空気読める」→「みんなににらまれる」→「空気読めてませんでした」→「いっけねテスト中だ」
始まりと終わりは同じ。
しかし、2回も「空気読める判定」が生じたことが分かる。
それぞれの行動を細かくしたとき、そこに生じる他人との関わり合いの部分に「空気読める」が生じている。
このことから「空気読める」とは、日々の行動をより細分化することによって生まれた、集団生活を行ううえで必要な能力のことと考えられるのだ。
=====
「・・・話の途中だけど、ちょっといい?」
「あなたなら?を力説すると思ったんだけど」

ワンクッション その1

例えば電車内で、誰かからずっと見られるというのは気持ちのいいものではない。
しかし今、見られている。
ガラス越しに。
電車の窓はよく光を反射し、特に夜にもなると鏡のように車内を照らし出す。
冒頭にあるような、ガラス越しの直視。
このようなワンクッションおいた直視というものは、相手に気づかれることが少ないと思われているためか、けっこう多く行われているようである。
しかし、このことが相手にばれたら。
それはワンクッションおいているから気持ち悪さも半減、というわけにはいかない。
「隣の人、ワンクッションおいて私のこと見てる!!」
倍増である。
ワンクッションおいているがために、直視以外あるいは直視以上のうしろめいたい何かを内在していると捉えられてしまうためだ。
視線が直視、もしくはワンクッションおいた直視で他の人に迷惑を与えかねないのなら、それはただ自分を見つめなおすことくらいにしか使えないのである。

たぬき

少し前、信楽焼きのたぬきを誰かに送ろうとしている人がいた。
ネットで買い、そのまま相手先に送るつもりらしいのだが、このとき僕は「相手はいやがらせと勘違いするのではないか」と心配になった。
送ったことを言わないつもりらしいのだ。
サプライズなことをしたいらしいのだが、相手にしてみれば、突然たぬきの置物が届くミラクルが起きることになる。
僕は信楽焼きのたぬきがどういった存在意義を持つのか、疑問だった。
例えば玄関に置いてあるとき。
意図が見出せない。
表札を持っていたとすると、持たせる意味が分からない。
いらっしゃいませと書いてあったとすると、何をおまえがいらっしゃいませなのだ、と意味が分からない。
とにかくこの置物。
昔、たぬきと焼き物と徳利について、抱腹絶倒の物語でもあったのだろうか。
?????
昔話 たぬきと焼き物と徳利
むかしむかし、あるところに
おさけの大好きな、たぬきの陶芸家がおったそうな。
?????
網羅できました。
と、思い出した。
確か「たぬき」で「たをぬく」→「他を抜く」ということで、他人に先んじた繁栄を意味するものとして、その点、この置物はめでたいものだったはずだ。
よかった。この置物はいやがらせ以外の意味を持っていたのだ。
うーん、でももんやり。
たぬきが他人に先んじた繁栄をしているかどうかを考えると、どうも。

歩蛇2

【あらすじ】
教えない。
=====
ある毒蛇に噛まれると、百歩歩くと死ぬだとか、三歩歩くと死ぬだとか言われている。
このときの97歩の差はなんだろうか。
※除外「被害者のそのときの体調」「蛇個体の持つ総毒量」
・被害者に、既に毒が盛られていた。
類似:被害者に、既に血清が盛られていた。
・家の中で噛まれ、2歩歩いたところでくつろいだ。その後、1歩歩いたら死亡。
・3歩歩いたところで知り合いのバイクに乗せてもらい、その後死亡。
・被害者が大男で「あいつの1歩は33.3歩に相当するね」と噂になっていた。
類似:「あいつの1歩は0.03歩に・・・」
・被害者はもう亡くなっていたが、何とか97歩分を気合で歩いた。
・被害者的には、3粒で100mだった。
・被害者がローラースケートを着用していたため、何歩歩いたのかが、結局よくわからなかった。
・被害者が腹足類で、何歩歩いたのかが、結局よくわからなかった。
類似:鳥、百足など
・蛇の体調
・蛇のさじ加減(これは実際あるかも・・・)
・被害者が被害を受ける直前、32匹ばかり既に噛まれていた。
うーん、適当。
みんなも、蛇には噛まれないようにね!!。

歩蛇

先日、ある本を読んでいると、こういった文に遭遇した。
「そのヘビに噛まれると、10歩歩く内に死んでしまうことから、そのヘビは十歩蛇と呼ばれる」
これをみて、僕は昔読んだ図鑑を思い出した。
「そのヘビに噛まれると、100歩歩く内に死んでしまうことから、そのヘビは百歩蛇と呼ばれる」
同じ種類のやつなのだろうか。
それにしても、この蛇がいる地域の人たちはその毒の強さを被害者の歩いた歩数で見ていたか。
何か残酷だ。
その図鑑では続いて「五歩蛇とも言う」と書いてあった。
すると、だ。
冒頭、十歩蛇の本を読み進めると「五歩蛇とも三歩蛇とも呼ばれる」という記載が。
これで「十歩蛇=百歩蛇=五歩蛇=三歩蛇」の式が成り立つことが判明した。
ここで考えさせられるのが、先ほどの「毒の強さ、歩数でみたか?」以外で。
・少なくとも4人噛まれている
・この、最高97歩の差はなんだろうか
・我々人間は、生まれた瞬間に「80×365×10000歩蛇」に噛まれているという気持ちの悪い考え方
(80歳、一日10000歩として)
このくらいある。
その中でも特に気になるのが「97歩の差」だ。
これを「被害者のそのときの体調」や「蛇個体の持つ総毒量」で片付けるのは簡単である。
しかし、それをもってしても97歩もの差として現れるだろうか。
「三百六十五歩のマーチ」換算だと285日である。
次回、この97歩の真相に、迫ろうとはする。

まとめようとしない

僕がブログを書くかどうかは、手元にメモ帳があるかないかが分かれ目であって、それがないところを見ると、今はすごく異常なことになっている。
周りを見ればなんか話のひとつやふたつ思いつくだろうともう何行目かに突入しているわけだが、同時にそんな風にして濁した回がいくつも思い浮かばれ、もうこの部屋にはそんな都合の良いものはないだろうと悲しくなる。
やっこさん、今日も曲がり角でスタンバってるらしいよ。
ごめん今の全然関係ない。
それにしても特に何もないため、何もないなりにどうにかしてみよう。
おまかせ!! ぱんぷきん
なんとなく考えた、どこかのチャンネルの15時くらいからやっていそうな番組タイトルである。
衣類の収納方法についての特集が多く、ためになるはずだ。
現在、僕の部屋はちらかってはいるが、その原因は衣類ではないため、僕はこの番組を見ない。
かなしみフォーマット
なんとなく考えた、小学生高学年をターゲットにした青春小説のタイトルである。
本当にあったら、ごめんなさいだ。
なんでも忘れることのできる主人公だったが、その制御が次第にできなくなる。
そして、忘れたくないことを忘れそうになったとき、主人公は自分の体に傷つけ、その傷跡を見ることでそれを思い出そうとするのだ。小学生に見せられねえ。
かきがいのある、おでき
なんとなく考えた、なんか腹の立つ言葉である。
全体的なゆるさもさることながら、できものに「お」をつけていることが気に食わない。
それにかきがいのあるとは、どういうことか。
すごくかゆいのだろうか。
おれ、人より腸が長いんだ。
なんとなく考えた、告白されても困ることである。
どうしろというのだ。というか、どうしてそれが分かったのか。
と、そう考えてしまったらすでに「おれ」の手中なのかもしれない。
やんぼー。
やんぼーという生物を考えてみよう。
やんぼーは、だいたい10cmくらいだろう。
薄茶色をしていて、細長いのだが、案外太い気がする。
何の仲間だろうか。
わからない。
しかし飛ぶだろう。
とんぼからどうしても離れられないのかもしれないが、田んぼに多く生息、ひゅんひゅん飛んでいそうだ。
とんぼと違うのは、とんぼが直線的な動きをするのに対し、やんぼーはくるくると、人のまわりを回っている気がする。
特に珍しいことはなく、虫網があれば誰にでも捕まえることができるだろう。
ただ、捕まえても、それは薄茶色の細長く、すこし太い、よく分からないものなので、人はそれを逃がす。
するとやんぼーはまたくるくる飛び回るに違いない。
やんぼーは、やめよう。
身のある話をしよう。
バナナの皮がどうこう、って話は多い。
バナナの皮が、道に落ちていたとして、それを踏んだらどうなるか。
まあ、共通意識としては、すべりころぶ、だろう。
では、バナナが道に落ちていたとして、それを踏んだらどうなるか。
ここで、この事例に対する新しい共通意識を提唱したい。
にゅるりだ。
バナナを踏んだらどうなるか。
すべっただのころんだだのの次元ではない。
にゅるりだ。
♪にゅるりだ にゅるりだ 風に吹かれて
僕のたいしたところは、どうでもいいことのひとかじりを、たくさん覚えていることかもしれない。
だからってこりゃないけど。
身のある話も、身が出たのでやめよう。
そういえば、昨日も出たな、バナナ。