回転の弾丸

この弾丸は貫通しやすいから、非人道的ではないよ。
そんな話があるのだろうか。
ダムダム弾という、ポップな名称とは裏腹に殺傷能力の高い弾丸がある。
これはあたると変形し、標的にとどまって大きなダメージを与えるとかで、よろしくないとのこと。
ということでスピン、貫通能の高い方が人道的ということに。
なんじゃそりゃというのはさておき、気になるのは「弾丸を回転させようとした人たちの真意」だ。
それはおそらく「弾丸をとどまらせちゃまずいよね」という観点ではなく、いかに相手にダメージを与えるかを模索したことの一つの結果だろう。
もしかしたら使用する側の安全面を考慮した結果というのもあるかもしれない。
どちらにせよ、弾丸と相手に与えるダメージの知見がわかってきてからの、あとづけのような気がする。
それでも弾丸の種類に、人道的と非人道的に分けられるというのだから、へんなところだ。
この弾丸は相手が死んだ事すら気づかないから、非人道的ではないよ。
いつか、これすら「人道的か非人道的かに分けられる」ことになるんじゃないだろうか。

しゃっくり

しゃっくりが「母胎内にいたころの水中生活から、転じて肺呼吸を行うようになる我々の、肺を鍛えるための運動のなごり」だというような記載をどこかで見たような、見ていないような。
真偽は定かでなく、かなりあやしいが、少なくとも味のある話である。
もちろん程度がひどければ問題だが、小さい子がしゃっくりをしているのがいとおしく思えるようだ。
「この子はお腹のなかにいたころのことを思い出している」
一方おじさんがやっていたりしたらなんかいやだ。
「なぜお前が横隔膜をけいれんさせることがあるのか」
今、目の前のおじさんがしゃっくりをしている。
おじさんは夕焼けのふるさとでも思い出していたのだろうか。

あやつり人形

あやつり人形というものを想像すると、「糸で吊るされたやつ」が思い出される。
何となくなのだが、「吊るされている」という段階で人より劣ります感が出まくっている。
上から引っ張ってもらわない限り、力なくだらりとしているんだろうから。
収納されているときを想像すると、とてもざんねんだ。
となると、棒をつけて下から操作するタイプのあやつり人形というものはあるのだろうかという話になるが、これは確か見た事のあるような気がする。
教育テレビあたりで。
で、これはどうかというと処刑風だ。
糸に比べて細かい操作がしやすそうだが、いかんせん串刺し。
収納風景は、一見そういう調理方法?、といった感じだ。
長い棒の両脇に人形を付け、その間に人が入って操作するタイプも思い出した。
ものまね王座あたりで見た。
これが他のものと違うのは、「操作するのに人が必要です」がすぐに分かる構造であり、しかも「なんだか楽しい」ということだ。
細かな動きはできなさそうだが、とても楽しそうに見えるのである。
これの収納をどのようにやっているのかは知らないが、収納スペースの関係で、人の入るところに別の人形が入れられていたりすると、非常に哲学的なものを感じる。
人間大の人形で、人がそれ自体を支えてあやつるタイプもあるだろうか。
あるとすれば、それは操作する人自身が人形と同じことをすれば、人形いらないんじゃないかという気もする。
しかし必要なときもある。
もちろん人の入るところに収納する、例の用途である。

さりげ

さりげない話、というものに憧れている。
天候や気温の話、近況、「髪切った?」でもいいはずなのだが、どうもうまくできない。
以前書いたかもしれないが「対人魚雷」のパフォーマンスの悪そうな感じだとか、自動ドアが開かなかったから、僕が死んだら葬式でその旨を虫の知らせとしてネタにしてもいいよとか、大陸棚ニューウェーブってなんか面白くない?、とかだ。
先日ダンスの劇みたいなものを拝見し、すごく面白かったのだが、それを誰かに言おうとするときにどうしても必要なのが「ポーズ」だ。
気に入ったポーズがあったのだが、それは口でどうこう言うよりも実際に見せた方がいいに決まっている。
でもポーズはさりげなくない。
さりげないポーズというのは「いつも」だから。
説明に必要なのだから、さりげなくないポーズをするべきなのか。
そもそもダンスの話がさりげなくないのか。
人によっては、さりげない話とは何も話さないことなのかもしれない。

見た目が9割

いまだに「食べるラー油」を食べていない。
なんだかすごくおいしそうな見た目だが、にんにくが苦手なので難しいところだ。
浴びるラー油
アーユルヴェーダ
注文の多い料理店
あびる優
今のは関係ないが、僕には「あまり好きではないが、見ている分にはおいしそうに見えるもの」というものが多い。
ビールは、CMの冷え冷え感がすごくおいしそうに見える。
しかしあまり得意ではない。
生がきもだ。
見た目だけで、なんだか新鮮なものは違うね、くらい感じてしまうのだが、これは完全な食わず嫌い。
食べたらおそらく生がき以上の質量を持つ何かを出す。
どれもこれも、商品をうまく見せられるプロがいるからそう見えるのだろう。
苦手な物もおいしく見せられるなんてすごい。
なめるラー油
ばけねこ
あじみ
ラー油
今のも関係ないんだ、ほんと。

帰れない二人

「帰れま10」ですらなかなか終わらないのだから、「帰れません」なら全然帰れないねえ。
そうぽろっと言ってしまったとき、ちょっと変な空気になるのを感じた。
な、何か僕おかしな事を・・・?。
「番組最初の方は大進撃だよね」
「第982位!、でもすごくよろこぶよね」
空気ぜんぜん変わんない。
いいから。
普通の「帰れません」のほうでいいから。
どちらも浅はか過ぎの可能性も。

曲線と断絶

駅のホームで電車を待っていると、向かい側ホームに大きく「2」と書かれたシャツを着た人が立っていた。
「2」はすごく大きくて立派で、「なんの2位だよ」とかのツッコミがあまりにフトドキ。
そのすばらしさに感銘を受けた。
しかし困った事に、このすごさを誰かに伝えようとしても、「2」が「に」であるところが足をひっぱる。
どうも「に」だと気の抜けた感じになる。
こちらがどれほどにだにだ言っても、どうも「に」ではその立派さが伝わらないのだ。
な行がいけないと思う。
な行はやさしいが、その分迫力には欠ける。
その分「ご」は誰しも認める迫力がある。
「ご」に勝てるのはもう2文字以上のものだけで、ある意味異種格闘技枠を考えないとだめだ。
ああ、あの人はなんで「5」のシャツじゃなかったのか。
そうすればその立派さを、まあ「2」ではなくなったけど伝えやすいのに。
だが、あの人はそんな僕にこう言うかもしれない。
「あなたは誰かにそれを伝えなくちゃいけないんですか」
そりゃそうだ。
立派だったんだもの。誰かに言いたい。
「でも、その感動を誰かに伝えたところで、さらに深まるものでもないでしょう?」
そんなことはないですよ。
その人が一緒に感動してくれたら、それは大きい。
「それはただの共感。たとえ伝えなかったとしても、あなたのなかの2が強弱どちらにもゆらぐことは決してないでしょう」
そ、そうですけど。
「わたしは川エビの唐揚げのお皿の下にたまるエビのひげが大好きです」
奇遇ですね!!。
こうして僕は2のことを書いたりしているが、今日のホームでもその人は見つからなかった。
「2」のシャツを着ていないので、わからんのだ。

おとなしさんの十八番

2 Minute Silenceという曲の紹介がされていた。
2分間、ずっと無音らしい。
詳しくは分からないが、似たような曲はあったような。
すごく長く間をあける曲で、未だに演奏中のやつとかもあるし。
この手の曲で重要なのは、作られた背景と聞き手の補完能力なのかもしれない。
共感できる背景なら聴いている間にいろいろ考えるだろうし、共感はそれほどできなくても無音の曲を聴くという経験はなんらかの影響を与えないわけでもなさそう。
つまるところ補完はもっぱら聞き手の勝手になるわけだが、まあそれが長所とも言えるし、話題にもなるし。
ただ難しいのは、単にこの曲を聴くだけだと、イヤホンで耳栓をした状態とさほど変わらないというところだ。
周辺は音であふれている。
せっかくの無音らしいのだから、そこは無音な状態で聴かないともったいない。
この曲をノイズキャンセラー付きのイヤホンで聴いたらどうなるだろう。
残念ながら、期待するようなことにはならないだろう。
何もないというのは難しいのだ。
しかしより無音を感じる、楽しむ姿勢としては悪くない。
話のタネにもなる。
うちでは猫がなんか夜とか、かっさかっさするので、無音というのはなかなか難しい。
パソコンはシーシー言うし、静かだと思ったら遠くでブレーキ音、モールス信号のような耳鳴り。
無音な感じの環境でこの曲を聴くというぜいたくができたらどうだろうか。
できた方はこう感じるんじゃないかと思っている。
「この曲、たった2分なの?」

準備中その2

昨日から。
【あらすじ】
ある駅で「準備中」のシールだけが貼られた無地の看板を見つけた。
たぶん準備してないと思うが、どんな感じなら「準備中」っぽくなるのだろうか。
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例えば、下書きっぽい絵の上に準備中の貼り紙をしていたらどうだろうか。
下書きの存在によって、今後必ず新しい看板ができあがるのだ。
その準備をしているのだから、準備中なのだ、と。
しかしこれは難しいところだ。
下書きがあるということは、これは準備中というよりはもはや絶賛進行中である。
そもそも、準備というものは水面下あるいはそれに準ずる感じで行われるものである。
表立って進行が進んでは、準備中ではない。
これは、例えば準備中の看板にはしごをかけていたとか、看板近くにハロゲンヒーターがついていたとか、生活のあとがあったとか、お弁当がまだあたたかかったとか、交通整理の警備員さんがいたとか、頑丈な柵で囲まれていたとか。
先日の「お店における準備中」では何となく準備中だったんだ、という感じの物でも、看板の話になると、どうも全てが、進行中の範疇に入ってしまう気がする。
これは、お店の準備中が、準備中という静的な状態のままでも問題ない事もある点と、看板ではかならず動的(描かなくてはならない事)な状態になるという点の違いだろう。
なに書いてんのか分からなくなってきた。
では、これはどうだろう。
「両側の看板の更新度が非常に高いなかの、真ん中の準備中」
これは結構いいと思う。
両側の更新の頻繁さを考えると、この一帯の広告パワーは優れているようだ。
そのなかでひとつ、準備中となった看板。
これとて人気のはず。
準備中となっているからには、そりゃ準備してるんでしょうよという感じである。
最後。
昨日まで貼られていた「準備中」の貼り紙がはがされている。
一番「準備中」な気がする。
となると「準備中」の貼り紙ははがされる瞬間から「準備中」になりえるのであって、その貼り紙はなかなか美しい事になっているみたいだ。
知らなかった。