パン散財

先日「散財」という言葉を使用したので、何となくそれについて。
最近、ちゃんと昼ご飯を食べるようになってしまった。
それまでは野菜ジュースと菓子くらいだったが、今ではごはんだ。
もちろんいいことであり、「無駄にお金を使う」という意味での「散財」にはあたらないと思う。
それでもそこそこの値段のものを毎日食べ、そして以前の野菜生活を考えると、ちょっとお金の減りの早いのが罪悪感にもなる。
今のところ、僕関連で「散財」とはこの程度の、正直書くこともない内容くらいしかない。
「散財」を獲得するには、このくらいのことはしなくちゃいけないだろう。
もちろん、ここでの散財とは贅沢や粋という意味を持ってはならず、そして金額どうこうでも、購入することですらないということを目指したい。
・サッカー観戦が決まって、うれしさのあまりグローブを購入
・お札の薫製づくり
・お金を金庫に入れるやいなやのマスドライバー射出を目指しての、マスドライバー開発費
・景品が釘で固定されているUFOキャッチャー挑戦
・のらねこに対して、避妊去勢費用として政府の補助金を輪ごむ留め
・整形した目元を見られたくないので、サングラス購入
・へそくりをマリアナ海溝へ
・苦手な豚骨ラーメンの大盛りを、のこすのこす
だめだ。
そこそこ何かしらの意味を持ってしまっている。
散財ってむずい。
散財で思い出したことがある。
「仕方ないけどなんか無駄だな」と思う、パン屋の包装だ。
あれはパンの種類別に分けてくれるから、膨大な小包ができあがる。
確かに揚げパンとカレーパンを同じ袋で包んでほしくはない。
揚げている点がかなり似ているが、カレーパンが揚げパンのきなこに汚染されるのは、ちょっと考えものだ。
しかし同じように、レジ横に購入したパンたちの種類別パックを見ても、ちょっと考えもの。
すごく袋を使うし、手間もかかる。
レジの横に「パンを小分けにする担当」の人が必要なくらいなのだから。
そしてこのパンの包装を確認するためだけにパンを買ったなんてなれば、少しは散財になるかと思ったがそれも行わず。
散財ってむずい。

にじり土足

昨日「愛鳥家」や「菜園家」だとか書いていて、こんな書き出しを思いついた。
「人はたくさんの家を持っている」
これは複数ある人の性質や面のことを「○○家」という言い方に注目、なぞらえたわけだが、僕は結構こういうのは嫌いだ。
なんか、安すぎる。
ただ、そう思う原因は最近の「○○家」と名づいたラーメン店の乱立かもしれない。
さてどちらかというと今回気になるのは、いろんな「○○家」を考えてみたらおもしろいんじゃないかということだったが、ちょっと考えてみてもいまいち思いつかない。
例えば「倹約家」というのがあるのだから「散財家」もあるだろうと検索してみると、そこそこヒットする。
ただ、その差は歴然としていて、それは散財家というものがよりあとに作られた言葉であることを意味している。
あるいはやはり「散財」というのはあまりほめられたものではないということで、「おれ散財家!!」と手を挙げて宣言する人が少ない、ということなのかもしれない。
そんなこんなで「○○家」はそれほど僕のなかでは広がっていない。
唯一なんか思いついているのは、冒頭の「たくさんの家」というところ。
以前何かで「小さい家がたくさん立っているところ」の映像を見たことがある。
それは道通神社というところで、確か蛇の神様をまつっている。
そしてその蛇が住めるようになのか、奉納された小さい家がたくさん立っているのだ。
その見た目はかわいいが、反面異様でもあるだろう。
そしてこれだけは言うのが心苦しいのだが、いちおう。
蛇足だがそこに住む蛇は土足だ。
それにしても今までのキーワード。
「愛鳥」「菜園」「蛇」「散財」
なんか尋常っぽい話が出来そうじゃあないですか。

ひな殺し

目の前の木、とはいっても50mくらい先なのだが、また鷲のものとも鷹のものともわからぬ猛禽類が巣を作ったらしい。
うちのなかでは愛鳥家かつ菜園家で通っている近所のおじさんが知りあいと、木を指差しながら話していたから。
茂みに見え隠れする巣っぽいものを眺めながら、僕はくしゃみのことを思い出していた。
本かなにかで見たことがある。
野鳥のひなは神経質で、巣の下でくしゃみをするだけでショック死してしまうことがある、と。
本当だろうか。
空気の振動かなにかがいけないのか。
それとも許容範囲を超えた大きな音で、生命活動が停止してしまうのだろうか。
どちらにせよこれが本当なら、私たちはおとなしい顔をしているが凶悪な飛び道具を口に装備しているわけで、それはくしゃみという名の遠距離撲殺術。
ひな殺しの別名を得るに値する。
そしてよく知られているように、人間界で「ひな殺し」というと、一般的には「ロリコン」と同義である。
ごめんこれうそ。
ただ、流し目で女子を卒倒させるだとか、男性の目を釘付けにさせるバデとかについては案外的を得た言い換えにも見える。
まあ何が言いたいかというと、以前書いたけど鷲鷹を見るための双眼鏡を買うかどうか、ということだけなんでして。

お前の母ちゃん、しかと。

以前触れたような気もするが、かなり昔のような気もするので「おまえのかあちゃん、なんとか!!」についてです。
いわゆる「お前の母ちゃん、でべそ!!」のたぐいで、調べてみるとどうも以前触れたというのは「やーい。お前の母ちゃん fall’n love !!」というもので、当時こそ平然と公表していたのだが今では、こいつと街で出会ったとしてもシカトするだろう。
基本的に以前触れたものはあまり扱わない方針ではありますが、なんかいいのが思いついたので、今回。
「お前の母ちゃん、セミオート!!」っていうのが突然浮かんだのだが、これは結構いい。
少なくとも今日はいい。
本当は「オート」の方が、少々直球ながらもいいと思うのだが、いきなり「オート」「オート」言われると「嘔吐」と勘違いされそうな気がする。
その点「セミオート」は「セミオート」だから、勘違いされることはない。
どうもこいつの母さんはセミオートを彷彿とさせるんである。
あとは「お前の母ちゃん、おまけ!!」というのを今考えたが、これは普通に憤りを覚えるし、「お前の母ちゃん、売女!!」とかだと、先ほどの種類の憤りとともに、そう叫んだお前は何歳なんだという疑問が噴出する。
「お前の母ちゃん、だけだ!!」だと「何が?」とすごく不安になるし、「お前の母ちゃん、ピンチ!!」だとお前誘拐でもしたんかいと疑いたくもなる。
「お前の母ちゃん、板でドーン!!」だと誰か既に言っていそうだし、「お前の母ちゃん、床下!!」だとお父さんが主犯のサスペンス。
やはりおもしろいのは「セミオート」だ。
明後日あたりにはシカトするだろうけど。

近所にて

近所というのは見ているようで、全然見れていない。
最近になって初めて近所に「釣り堀」があることを知った。
釣り堀といえば奥多摩や中央線沿いに見えるやつ。
そこへんにしかないと思っていた。
それが自転車で5分くらいのところにいるんだ。
ニジマスが。
ほんと、ニジマスがねえ。
5分のところに。
そんな感じで近所に喫茶店があるなんてのも、気づかなかった。
ニジマスと5分と自宅。
この3点を結んだ三角形の中に含まれていたんだ、喫茶店が。
さっそく自転車で行ってみた。
すると閉まったドアに貼り紙。
ゴールデンウィークだから仕方ないか。
しかし驚くべきことに、17日まで休みますとの報告。
ゴールデンウィーク期間における貼り紙の内容は、せいぜいウィークプラス3日までの休暇を告げるものだと勝手に考えていた。
しかし、ここはがっつり休むよう。
いさぎよい。
※研修との事で、休んでるわけではないらしい。

整然とデペイズマン 2

昨日からの続き
【あらすじ】
常套句を仕込むのも、「ここがこの文章のおもろいところですよー」というのを仕込むのもハズい。
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例えば昨日の「バケツをひっくり返したような大雨」というのを考えてみる。
これを「大雨」のことだけをとにかく伝えたいというのであれば、このままで問題ない。
ただ、「バケツをひっくり返した」を「すごい」に置き換えても全く遜色ないが、妙に聞き慣れない独特なものに置き換えてしまったら、伝えたいことがうまく伝わらなくなる可能性がある。
一方、この短い文章で何かしらおもろいことを目指すというのなら、仕方がない。
「バケツをひっくり返したような」が置換のターゲットとなる。
もちろんここで「大雨」のことを変えてしまえという方もおられると思うが、そうなるともう冒頭の定義は去り、そこにいるのは自由人だけである。
自由人は「きけ 和田摘みのこえ」「平成仮面ライダーくちべらしの傾向と対策」など、よくわからないがなんかおもろそうなやつを今後考えていって、できれば教えてもらいたい。
さて「バケツをひっくり返したような」の置換だが、これは「意味を鑑みた方法」と「鑑みない方法」。
方法が大きく二つに分けられると思う。
前者は「天使たちがかなしさのあまり、一斉に泣き出したような」という気持ちの悪いものから「街の風景をかき消そうとする意思のような」という気持ちの悪いもの。
「雨粒を避けようとする小虫も落とさんとするような」という気持ちの悪いものがある。
あくまで「バケツをひっくり返した」の、「水たくさん」の部分を失わないような変化である。
それに対して後者。
僕はどちらかというと好きだ。
「コメツキガニが近づく人の気配に気づき一斉に潜りだすような大雨」
「たくさん」の感じを残しつつ、「水」をなくしてみた。
しかしなんか分かるという感じ。
ただしこのコメツキガニのくだりで「鑑みない方法」を表現するのには注意を要する。
「コメツキガニが一斉に潜りだすような大雨」
こうしてしまうと、とらえようによっては「水たくさん」意味となってしまう。
どうかコメツキガニでは「人の気配」ということを忘れないでいただきたい。
ほとんどの人間にとって重要なのは、コメツキガニはその姿や生態ではなく「人の気配でわーっと潜る」なのである。
「ダルガン星で洗濯物を夜に干したような大雨」
そして「水」も「たくさん」もなくしてみた。
これはよく分からない。
「ダルガン星で初めての王位継承が行われていたときも、こんな大雨だった」
多くのものを失いつつ、哀愁を付加してみた。
「あのとき、雨があまりにひどかったから君の顔が見えなかったって言ってたわよね」
多くのものを失いつつ、進展ポイントを付加してみた。
「眼球が溶けたからね」
進展は終結を迎え、ダルガン星の雨がダルガン星人の眼球へ腐食性を示すことが分かった。
そう、もう飽きているのである。
ただ、仕込むのハズいとか考えていたが今はむしろ、けっこうすがすがしい気分だ。

整然とデペイズマン

ある文庫本を見ていると、こんな旨の指摘があった。
「常套句というか紋切り型の文章が気になる。
例えば、大雨はいつも「バケツをひっくり返した」ようなものであり、広大な土地は「東京ドームの何個かぶん」。
ホームへの返球は「矢のよう」であり、重いものは「小錦の何人かぶん」。
美しい柔肌は「ゆで卵のよう」であり、ツンデレの形容は「カレーうどん」である。
あんまりこればっかでもなあ。
もっともだと思う。
僕もこれをいやがる傾向にある。
しかし考えてみると、この文章を考えた人は、本来の内容以外の視点でこれを評価してもらいたいとは思っていないだろう。
大雨のことを書いた人は「バケツをひっくり返した」ところではなく、大雨のところに注目してもらいたいはずなのだ。
ここで「夜空に浮かぶみずがめ座のところから溢れ出た水のような」なんてアイデンティティを出そうものなら、それは芸術家のやることであり、大雨を伝えるという観点からするとどうなの?という気にもなる。
注目も「みずがめ座からあふれる水」のほうへといってしまうだろう。
少なくとも大雨の件での常套句というのは、それを変えることに意味がないどころか弊害の生じる可能性がある以上、そのままでもけっこう美しいものなのだ。
しかし何となく文章を考えていると、やはり「この文章のキモはここね」というものを考えてしまう。
例えばさきほどの「常套句をちょい替え」や「いいかたちょい替え」のたぐい。
当ブログでも「今回はココがいいからね!!」という気持ちでそういうことをやったりする。
しかし反面、その「はいココ注目ー。オリジナリティだねー」と思われる、あるいは思わそうということにひどく恥ずかしい気にもなる。
この感じは小学生のころ、国語で作文を書くときの「こう書くと子供らしいのではないか」「やさしさが出るのではないだろうか」という子供的なずるがしこさにも似て、誰しも心当たりがあるはず。
僕も冒頭、そこそこのキモになる予定のところを、実はかなり恥ずかしがっており、精神的には芽吹きのように縮こまっていて、これも。
まあ、そんなことを考えるとどうも書きづらく。

二次元世界禁呪

「あんな大事故だったのに、誰も怪我をしていないなんて大したものですね」
「ほんとうですよ。もう少しずれていたらと考えると、今でも身震いします」
「あと右に1ドットずれていたら、当たってましたね」
「いやあ、それどころか、半ドット」
半ドットと口にした瞬間、彼はどさっという音とともに崩れてしまった。
どうも口にしたことで、それで自分を表現するような処理が走ってしまったらしい。

君主制

「3番の人が5番の人に、領内で一番速い馬を与えること」
「2番の人が5番の人に、農民エリアの4割を統治させる権限を与えること」
「3番の人が5番の人に、使者を遣わせて産業文化を学ぶこと」
「5番の人が1番の人に、塩と黒こしょうを7000、納めること」
「3番の人が4番の人の、姪を嫁に迎えること」
スーツ姿の一人をのぞいた、カラオケボックス部屋の全員がいそいそと次のくじの準備をしている。
あいつが王様か。

2432年

テレビに反応し語りかけてしまう事。
古人曰く、人を見、人を聞き、人と関わる事テレビでは足らず。
彼を見た人々の嫌悪感甚だしく、友人知人あらゆるものを失い。
しかし当人笑みこぼれる始末。
ビックリマンのパッケージ模様からレアカード封入品を探そうとする事。
古人曰く、レアごとは全てに共有な割合であるとする。
また、多くの商品が使用済みのようになり、店員甚だ迷惑。
しかし当人笑みこぼれる始末。
個室トイレに入っている人に絶えず話しかける事。
古人曰く、そっとしておくなれど聞き耳を立てていることも悪。
自身へ回帰した時のことを熟考する事。
しかし当人笑みこぼれる始末。
目薬をした人の近くにあるティッシュペーパーをすべて移動する事。
古人曰く、弱者をだます事この上なく駄目。
むしろ両手にティッシュを持ち事を待つ姿勢を示す事。
しかし当人笑みこぼれる始末。
古人これを四悦と呼び、強く戒めるもの也。