西からなんか刀もって来てるわ。

ということで「にしむくさむらい」である。
先日というか、まあ今も先日書いた後の続きで6月22日の蒸し暑い夜中なのだが、本ブログの更新理由の一つに「月別アーカイブを見ると31日ない月が分かる」というのを記した。
これはその通りで、なんだか5年くらい続いているその月々が何日あるのか、アーカイブで確かに分かる。
よくこれだけ「その場でさらりと忘れられる」ような内容を書いたらしいと、赤面である。
まあそれは置いておいて冒頭の「にしむくさむらい」。
31日ない月を表した言葉なのだが、実はつい最近知った。
思い返すに、少なくとも幼稚保育小学中学高校ではそんなものを聞いたことがない。
それほどカリキュラムにおける優先度も高くなさそうだし。
ただ気になるのは、その「語呂合わせ」精神だ。
こないだまで知らなかったのはいい。
もう知っているから。
ただどうも、覚えにくいのを語呂合わせで覚える精神が気に食わなかったのだ。
「語呂合わせで覚えたことがない」人は、いないだろう。
例を出すのもためらわれるくらい、人々の心の中には歴史、科学あるいはパスワード分野にて語呂合わせにお世話になっている。
ああいやだ。
もちろん僕もお世話にはなっているのだが、その文章としての意味のなさや破壊感がいやなのだ。
しかもその用途上、頭の中なり口なりで、どうしても発するでしょう。
恥ずかしいことこのうえない。
実は、とあえて重要視するが、世の中は「語呂合わせで覚えられないことの方が多い」のである。
だって、「昨日好きな人と一緒に学校の窓から夕日を見たという思い出」を語呂合わせでなんか覚えられないでしょう?。
語が介在しないわ。
どちらかというと「語呂合わせで覚えられないことの方が多い」人になりたいし。
=====
え、昨日窓から見た、夕日ですか。
行きますよ。
「いーれーいれいれ、れれれれれれいーれいーいーいー・・・」
あービットで覚える方ですか。
すごいですね。
でも自分、どちらかというと「語呂合わせで覚えられないことの方が多い」人になりたいですし。

放置感

これを書いているのが実は6月22日とかで、どうも1ヶ月ほど遅れた状態でブログを更新。
要は保存するとき、わざわざ前ブログの次の日を踏襲しているわけだ。
よって、本当の6月22日に到達するのは1ヶ月後になるわけでして、そもそも「カレンダーを隙なしで更新する必要なんかないんじゃない?」という気がする。
そんな縛りは内容から見ても、全く必要ないということに、開始4日目くらいには思っているのだ。
ただひとつ理由があるとすれば、月別アーカイブを見ることで「31日ない月」が一目で分かる。
何気に、これが本当の理由だったりする。
とは言え、近頃めっきり忙しいので1ヶ月も放置、知らぬスポンサーが広告を出している。
放置していたので文句は言えず、また以前以上に前に書いたことが思い出せず顧みもしない。
同じ事書いていたら超はずい。
このはずい思いをしないようにするために、僕はこれからより、以前書いたのを見ないだろう。
だからこの回も見ないでね。
6月22日の僕や。

1月1日はいつもマジシャンズ・レッド。

「おまえんとこにあった日めくりカレンダー、なんかいろんな色がついてるぞ」
ああそれ?。すごいんだぜ。
「え、何が?」
お前、こんなの知ってる?。地球の生まれたときから現在までを、1年で表したカレンダー。
「ああ知ってる。西暦って大晦日のラスト数分だか数秒とかなんだよな」
そう。あれの、人生版なんだよ、それ。
「え、じゃあ人生80年間を1年で表したってこと?。誰の?」
俺の人生だ。
「すごいじゃない。いやいやかな?。寿命とか分かっちゃうんだろ?」
いや、書いてはない。スケールとして、生まれた日が1月1日、死ぬ日が12月31日ということ。
そしてその日にあたる人生の部分が、どんな感じか、かなり曖昧にわかるんだ。
「曖昧に?。内容なんて書いてないけど、この日ごとの色づけで分かったりするの?」
そう。
表紙の裏に説明あるだろう。
「ああ。青だと健康低迷期、赤が運気向上いいことある、か。黄色が人間関係円満で、黒が身近に不幸が起こる、とかいろいろあるな。まあ怖いけど、確かに曖昧だなあ」
そうだな。でもこのカレンダーで最も重要なことがわかった。
「そうだろうね。曖昧とはいえ、人生の目盛りごとのイベントが分かる。今までお前に起きたことで象徴的なことが、このカレンダーの色分けとして載ってるんだろ?。黒の不幸なんかをこれまでの人生と照らし合わせれば、逆算で寿命とかわかるだろうしな」
お前、ぜんぜんわかってないよ。
「何がよ」
12月31日を見てみろよ。
「ピンクだ。青とかじゃないんだ」
俺にとっては寿命なんかより、死ぬ日がモテ期の絶頂のときだってことがわかっただけで満足なんだよ。

フレームがフレームが。

震災について少し触れたあと、「闇夜の国から」の前奏部が流れてきた。
現在も被害状況が更新され続けている東日本大震災。
今なお人は、悲痛と鼓舞に心をにぎられ続けている。
その影響で延期されていた井上陽水ライブでのことだった。
それ以上語るものは特に何もない。
でも無理する。
このライブでは「闇夜の国から」とラストの「長い坂の絵のフレーム」が特によかった。
少年時代に「少年時代」を歌っていたら、知らないおじさんに「お前、今だよ!!」と怒鳴られた僕が言うんだから、それはそれは本当によかった。
ついでにがんばっちゃうと「闇夜の国から、長い坂の絵のフレームがシュッ」って、どう?。
なんか面白くない?。
・・・やっぱり無理する必要はなかったし、知らないおじさんのくだりの嘘を言うこともないし。

手にラメのつくバッグ。

手に持つところがやたらキラキラしたバッグは、何を意味しているのだろうか。
「お前は手元が貧相だ」
しかしこうなると、キラキラしているものは全て何かが貧相であることを物語っていることになる。
そんなことじゃないだろう。
「ここだ!、手に持つところはここだ!!」
親切である。
東京タワーの点滅するライト。
「ここには東京タワーあるから!!」
それとおんなじ意味。
「心はいつも17歳!!」
僕が一番キラキラしていたのは、いつだったか。

軍艦1億2000万乗員 その2

昨日からのつづき。
【あらすじ】
「いくらを惜しまず使用」というCMを見た。
これだけやれば惜しんでないと言えるのではないか。
=====
これを考える上で困るのが、「惜しまない」というのが「無駄遣い」になってしまいそうになる点だ。
「いくらのつぶれたのがパッケージ内側に点々としてる」
これが「いくら惜しまないぜ」と意気込んだ結果であったとしても、それを見た一般は「もったいな」と思うだろう。
おもしろいことに「惜しまない」という意味のひとつにある「もったいがらない」を実行したら、「もったいな」と思わせてしまうことがままあるわけなのだ。
ただ、「もったいな」と思わせることが「惜しまない」ということでもあるから、それはある意味当然。
しかし、それでも「もったいない。無駄」と「もったいないけど、贅沢だなあ」の両方どちらが「惜しまない」ことであるとするならば、それは後者でありたい。
となると、「惜しまない」ことには程度があることに注意しなければならない。
無駄になっちゃだめだ。
それを踏まえて考えてみる「これだけやれば惜しんでない」。
「砂場の砂がすべていくら、いくら場」
ああもったいない。
何やってんだ。
惜しむとか惜しまないとかの状態じゃない。
「いくら場」のコピーみたいになっているし。
しかし、単に「ああそうですか」という感じがしたであろう「砂場の砂がすべていくら」。
少しは掘り下げてみよう。
まず、山を作るのが難しいだろう。
どろどろしているから、山を作ろうとしても勝手に「なれて」しまう。
「いくらの山」
これがどんぶり上なら「惜しまないことの程度」の範囲内であると言えそうなのだが、いくら場はだめだ。
一方、掘る関係も無理だろう。
掘っても掘ってもすぐに近くのいくらがなだれ込んでくるし、トンネルなんて夢だ。
「いくらのトンネル」
多分、じめじめしている。
いくら場については、あと臭いだろうとか、何気に気持ちいいだとかあるが、もういい。
いくら場はもういい。
幾分かいくら場に触れたことで、それでもう十分「これだけやれば惜しんでない」ことになるだろう、いくら場に関しては。
おそらく、いくらを惜しんでないということは「ごはんか何かの上にどっろーといくらをかける」ことしかない。
その器からいくらがこぼれたら、それはもう「無駄」範疇だし、デコメと称して相手の携帯電話をかっさらい、いくらを挟んで返してくるというのもそれだ。
例えば考え方を変えて「雌のサケが全然雄のいないところで産卵している」というのは、無駄だがいくら産み出しのおおもとでもあるので何かしら意図があるとも捕らえられ、それなら無駄というより「惜しんでいない」ことになるのではないか。
しかし冒頭、「惜しまない」ということを考えるには、他者の存在も考慮する必要があることを示した。
他のサケは、決死の覚悟で陸へ上がり、そこで産卵している雌を見てどう思うか。
「いくら、惜しんでないなあ」
「無駄遣いだなあ」
たぶんどちらでもなく、そもそもどう思うか自体もないだろう。
せっかくそんな面白いことをしてくれているのに。
惜しいなあ。

軍艦1億2000万乗員 その1

「いくら」を惜しまず使用というフレーズで気になるのは「いくらを惜しむシーン」について。
あるいは「どれほどのことをやれば惜しんでいないことを示せるか」というのもある。
もちろん両者とも、食べ物を粗末にするようなことは問題外。
食べ物はいつだって惜しまれなければならない。
しかしそれを踏まえたうえでも、相応に考えられることはあるだろう。
いくらを惜しむ。
上記の鉄則を自然界にも当てはめるのであれば、いくらを食する生き物全ては「いくらを惜しみながら食べて」いるのだろう。
自分にはもったいない。
でも食べなしかたがない。
あるいはそうやって食べられていくいくらたちを目の当たりにする海の女王的なもの。
摂理とはいえ愛おしいいくらたちがひょいひょい食べられるさまを見て、女王的なものは何を思うか。
命の消滅を惜しみ、目に涙。
しかし安心してほしい。
たぶんだが、海の女王的なものの涙はいくらなので、収支ゼロだ。
なんだか以前、人工いくらのことをテレビで見た。
それはひどく本物そっくりで、おいしいのだそうだ。
おいしくて本物そっくりなのなら、わざわざ卵を食すことはない。
なんとなくレンネットを思い出させるこの話は、同時に「いくらが惜しいシーン」そのものとも言えそう。
いいんだ、いくらなぞ人工で。
いくらより先のステップは人工でまかなえないけど、まあいいじゃないか。
でも「人工いくら」と聞いて、「うんと、1億2000万人くらい」とか思いついた今の自分は、まあいくないね。
明日、「こんだけのことをやれば、いくらを惜しんでいないね」をやってみるつもり。

鉄二

「この度は本当におめでとうございます。司会をやらせていただきます鈴野と申します」
「こちらこそお願いします」
「ではさっそくなんですが、今回ご結婚されるお二人の司会をやらさせていただくにあたり、お聞きしたいことが」
「といいますと」
「どのようなきっかけ、おつきあいがありましたかを拝見したいんです」
「ああ、なるほど」
「そうすると司会にも艶が出ますので」
「いやあ、そんな人に話すような何かはないんですよ」
「ただ、僕と彼女は趣味が合って、それからなんです」
「え、それって何ですか」
「二人とも鉄道が趣味で」
「ああ、最近流行っていますよね」
「そうなんです。二人とも電車とか線路が好きで」
「それで、サークルとか」
「いや、そうでないんですが」
「ここがすごいんですけど、ぼくら、手相が路線図なんですよ」
「どういうことです」
「ほら、僕の右の手のひら、山手線っぽくないですか」
「ほんとだ!!」
「で、彼女の左手がほら、こう」
「おお、中央線周辺だ」
「ね、すごいでしょ」
「井の頭線まである」
「で、こうやって手を合わせると」
「こりゃ東京都の路線図だ・・・」
「そして手相の人に言わせると、東京から立川の中央線が、結婚線なんだそうです」
「すごいですね、結婚線の開通だ」
「僕が中野まで、彼女が中野から」
「いや、これはほんとすごい」
「まあ、こういったいきさつでして」
「でも、ここまで見事だと、地下鉄とかも欲しいですね」
「いやあ、子供はまだ早いですよ」
「!!!!」

おいしいコーヒーのいれかけかた2

昨日からの続き。
【あらすじ】
「入れたばかりのコーヒーすらあった」というフレーズの「急に人がいなくなった感」。
他にもないか。
=====
お昼ごはんにかったい鶏肉を食みながら、一緒に食べてた人と考えました。
「爪楊枝の先がぬれている」
急にいなくなった度合い:小
いわゆる「まだあたたかい!!」と同じ感じ。
「補助席に子供を乗せた無人の自転車がすーっ」
急にいなくなった度合い:高
これはだいぶ急にいなくなった。
危ないので、どうせなら自転車を降りてから消えたいところ。
「ボディソープのポンプの押す所がゆっくりと元に戻る」
急にいなくなった度合い:高
押し込んだときまではいたのに。
これが出たとき、「急に人のいなくなることは、怖いことなんだね」と結論づけられました。
「おんぶしていた子供が、まだ浮いている」
急にいなくなった度合い:高
何気に、この子もすごい。
「やまびこだけが帰ってきていた」
急にいなくなった度合い:高
完全に山の神を怒らせた結果くさい。
「こんぶのダシがちょうどいい感じになっている鍋があった」
急にいなくなった度合い:中
本来ここを逃してはならないわけだが、いなくなった。急である。
「あと1ピース入れれば完成するジグソーパズルが置いてあった」
急にいなくなった度合い:小
パズルをあてがう時間もなく、いなくなった。
「子供が楽しげに、母親の上着らしい服を手に引いておもちゃコーナーへ向かう」
急にいなくなった度合い:高
一方で、母親の空蝉の術の可能性もあり。
「飲んでいたスープが宙に、食道と胃を形作っていた」
急にいなくなった度合い:高
体内に取り込もうとしているものすら置いて急にいなくなるとは、なんだか律儀。
「トイレの水面が揺れている」
急にいなくなった度合い:中
最初はこれが思いついているものの中でベストでした。
=====
さっそく使ってみよう。
「私が少しだけ目を離したあいだに、彼女はこつ然と消えてしまった。あまりに突然だった」
「そこには、おんぶされていた子供が浮いてすらいた」
・・・まず子供をとらえてみるところから始まりますな。

おいしいコーヒーのいれかけかた

「入れたばかりのコーヒーすらあった」
こういう文章に出会ったのはいつ頃だっただろうか。
恐がりのくせして「世界のミステリー大百科」みたいなやつを見たときか。
あるいは怪奇小説か、ジョジョか。
いわゆる「急に人がいなくなりました」を表現しているこれは、どれほどに当初の僕をビビらせただろうか。
なんせ「入れたばかりのコーヒーすらあった」わけで、それは「いなくなる」要素が少なくとも本人には全くないことをすばらしく端的に表している。
故の、意識せざるを得ない、よくわからんものの介入。
なんなんだ介入。
コーヒーも飲ませてもらえないくらいの、急の介入。
そのスイッチを知らぬ間に押してしまって、自分も近いうち急にいなくなるんじゃないか。
そう思うと、せめて自分のいた形跡でも残そうかとコーヒーをばんばん入れてしまうわけである。
「たくさんの入れたばかりのコーヒーすらあった」
最初のほうのはもはや「入れたばかり」とは言えないし、「すら」じゃないだろう、「すら」じゃ。
次回
「急に人がいなくなりました」を違う表現でやってみよう。