軍艦1億2000万乗員 その2

昨日からのつづき。
【あらすじ】
「いくらを惜しまず使用」というCMを見た。
これだけやれば惜しんでないと言えるのではないか。
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これを考える上で困るのが、「惜しまない」というのが「無駄遣い」になってしまいそうになる点だ。
「いくらのつぶれたのがパッケージ内側に点々としてる」
これが「いくら惜しまないぜ」と意気込んだ結果であったとしても、それを見た一般は「もったいな」と思うだろう。
おもしろいことに「惜しまない」という意味のひとつにある「もったいがらない」を実行したら、「もったいな」と思わせてしまうことがままあるわけなのだ。
ただ、「もったいな」と思わせることが「惜しまない」ということでもあるから、それはある意味当然。
しかし、それでも「もったいない。無駄」と「もったいないけど、贅沢だなあ」の両方どちらが「惜しまない」ことであるとするならば、それは後者でありたい。
となると、「惜しまない」ことには程度があることに注意しなければならない。
無駄になっちゃだめだ。
それを踏まえて考えてみる「これだけやれば惜しんでない」。
「砂場の砂がすべていくら、いくら場」
ああもったいない。
何やってんだ。
惜しむとか惜しまないとかの状態じゃない。
「いくら場」のコピーみたいになっているし。
しかし、単に「ああそうですか」という感じがしたであろう「砂場の砂がすべていくら」。
少しは掘り下げてみよう。
まず、山を作るのが難しいだろう。
どろどろしているから、山を作ろうとしても勝手に「なれて」しまう。
「いくらの山」
これがどんぶり上なら「惜しまないことの程度」の範囲内であると言えそうなのだが、いくら場はだめだ。
一方、掘る関係も無理だろう。
掘っても掘ってもすぐに近くのいくらがなだれ込んでくるし、トンネルなんて夢だ。
「いくらのトンネル」
多分、じめじめしている。
いくら場については、あと臭いだろうとか、何気に気持ちいいだとかあるが、もういい。
いくら場はもういい。
幾分かいくら場に触れたことで、それでもう十分「これだけやれば惜しんでない」ことになるだろう、いくら場に関しては。
おそらく、いくらを惜しんでないということは「ごはんか何かの上にどっろーといくらをかける」ことしかない。
その器からいくらがこぼれたら、それはもう「無駄」範疇だし、デコメと称して相手の携帯電話をかっさらい、いくらを挟んで返してくるというのもそれだ。
例えば考え方を変えて「雌のサケが全然雄のいないところで産卵している」というのは、無駄だがいくら産み出しのおおもとでもあるので何かしら意図があるとも捕らえられ、それなら無駄というより「惜しんでいない」ことになるのではないか。
しかし冒頭、「惜しまない」ということを考えるには、他者の存在も考慮する必要があることを示した。
他のサケは、決死の覚悟で陸へ上がり、そこで産卵している雌を見てどう思うか。
「いくら、惜しんでないなあ」
「無駄遣いだなあ」
たぶんどちらでもなく、そもそもどう思うか自体もないだろう。
せっかくそんな面白いことをしてくれているのに。
惜しいなあ。

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