生クリーム

僕が女の子だったらエロくなるところだったよ!!。
生クリームをかけられてしまったとき、そう言おうと思っている。
それは関係ないが、何かデザート的なものを注文するチャンスを得たとき、少しだけ甘い生クリームのホイップがあるものかどうか。
それがポイントになることがある。
これだけで、ショートケーキの存在価値の高さがうかがえるというものだ。
最初に生クリームを食べたときの記憶は、ない。
しかし、そこそこ幼かっただろうそのときですら、口に含んだ生クリームに対して無感動のままでいられたとは考えにくい。
子供らしさを出すためのテクニックに「鼻の頭に生クリームついてる」があるように、それは子供のためのものである。
そして子供だったら必ず好きそうな味、感触なのである。
となると、生クリームが苦手な子供がいるとするなら、それは何かゆがんだ思想や健康法を押し付けられてしまったか、「誕生日ケーキに返り血が!!」みたいなトラウマを生じさせる事件があったりした子供である。
それは早急な矯正が必要であり、さもないと生クリーム白書な時期を逸することとなる。
もう、口のまわりにすごくシェービングクリームついてる
今の関係ないが、「誕生日ケーキに返り血」は、いやだ。
一番起きちゃいけないところで、起きちゃいけない事件が起きてしまっている気がする。
そんなのを見たら、もう白いものですら見たくなくなるんじゃないだろうか。
しかもいちご、みたいな。
ということで、子供がモンブランを所望していたら少し心配な気分になる。

天使のはね

「決定的瞬間」という言葉が使われたとき、それはおまえどんだけハードル上げてんのか分かってんのか、と言いたくなるくらいである。
ただ、上がる分くぐりやすくもなるわけで、その点よろしい。
先日、先を歩いていた女性の目の前に、いきなりさやえんどうが落ちてきたところを目撃した。
まわりにさやえんどうに関するものはなく、あるとすれば近隣マンションのベランダから落ちてきた、家庭菜園さやえんどうだろうか。
僕は女性の動向に釘付けとなった。
というのも、これは主観が入るのだが「さやえんどう」というのはだいぶ昔からそのゆるさが着目され、何かといじられてきた歴史を持つ。
それが目の前に落ちてきた。
さて、どうするんだい。
ある意志が介入してきたとしか思えないシチュエーションである。
さて、どうするんだい。
残念ながら、というか当然だが、女性は何事もなく、あるいは気づきもせず、歩いていってしまった。
回答のひとつである。
だから僕もそれにならい、気づかないふりをして、歩いていってしまった。

空書の春

人が何かを思い出そうとするとき。
例えばある漢字について、だ。
そのとき手でその字を書く「しぐさ」をすることがある。
これを「空書」というそうだ。
なかなかに夢広がる動作と名前と言えそうだが、ここでは「いい空書、わるい空書」について考えてみる。
まず思いつくのが「やたら画数が多い漢字」に対する空書だ。
これはぜひ空書プレイヤーの前に陣取って観察したいところ。
お祓いやってるみたいに見えるはずで、いい空書である。
「あれ、お祓いですか?」
「いや、暇という字です」
食い気味で回答したいところである。
一方、わるい空書として「一画一画、迷っている」が知られている。
やり直しなぞいくらでもできるのだから、とりあえずすらすら書いてみるべきなのだ。
それを迷いながらやってしまう。
そして前に書いた部分を忘れてしまったりするのだ。
そう、空書は、書いた部分は自分にしか「見えない」のである。
また、ケーシー高峰のホワイトボード空書が有名だが、あれも実は本当に書いちゃってる点で、わるい空書である。
そして話は変わるが、「白衣の人がホワイトボードに何か書く」シーンにおいては、「いいケーシー高峰」と「わるいケーシー高峰」の存在が生ずる。
「いいケーシー高峰」・・・ケーシー高峰
「わるいケーシー高峰」・・・ちゃんとしたことを書く
飽いたので以上。

買い替え

「バーチャル笑っていいとも」が行われるとするなら、1回目ゲストはドラえもんか初音ミクじゃないかと思っている。
そして、製作会見で誰かが「タモさんの髪の雰囲気をCGで表現するのに苦労しました」とか言うのだ。
そんなんだったら、やめちまえVWI!!。
パソコンを買い換えようかと思っている。
なにやらOSを新しくしようかの流れになっており、そうなるとハード的に耐えられるのかなどを考えはじめると、もう買い換えるか、にたどりついてしまったのである。
しかし買い換え後の、データやら立ち上げやらのめんどうを考えると、どうしても躊躇してしまう。
醍醐味なのだ。
その、データやら立ち上げとやらは。
新しいパソコンを買う醍醐味としてのそれは、誰もがうなずく「包装をはがす」に匹敵することなんである。
実際やる状態になったならあんがい楽しめると思うのだが、それまでがなんだかめんどうだ。
そして発生するゴミだ。
パソコンを買うと、ダンボールが山積するのである。
そりゃあ、届いたパソコンを開けてみたら本体が粉砕。
これはかなり残念であり、その点ちゃんと保護してよね、はある。
ただ、とにかくゴミが大量に発生する。
途方にくれる。
そんな躊躇、心配があるため、購入したいが2ヶ月ほどは何もしないでいる。
この均衡を打破するには、パソコン小麦粉アタックくらいしかないかもしれないが、醍醐味のひとつを奪ってしまうことにもなりそう。
そんなんだったら、やめとくかPKA!!。

イモムシ

「イモムシハンドブック」
なかなかいい本を手に入れた。
それはコンパクトで、内ポケットなどに忍ばせておいても目立たなさそう。
写真と簡単な生態について記されたそれを所持していれば、いつ何時イモムシに関するあれこれが発生したとしても、不安にならないだろう。
名の如く、この本の主役はチョウやガの幼虫、いわゆるイモムシであって、成虫のほうは焦点を当てていない。
これは、なんかわからんイモムシを発見した際、ほとんどが成虫ばかりの写真である一般的な本よりも有効。
ただしその分、ずっとイモムシで、はしやすめがない。
イモムシが苦手な人は、ちょっとつらい。
とはいえ、僕もイモムシは得意じゃない、むしろ苦手だが、それでもなかなかかわいいじゃないか、と思うようなイモムシも数多く知ることができた。
そして一方、寄生バチに対する怒りのようなものも芽生えていることを感じ取ったが、まあ仕方ないかと勝手にクールダウンした。
あるポケモンが「ようちゅうちぎり」という技を覚えるんだったら、ぜったいそのポケモンは好きにならないだろう、というくらいの幼虫好きにはなれたが、そばには絶対にいてほしくないのは、ゆずれない。
イモムシだから。

ほじり

「出てます6億円」
「キャリーオーバー66億円発生中」
こういった旨が並列で記載されているくじの広告に何も感じないわけではないが、最近なにやら鼻孔の内側に傷があるらしく、そのかさぶたが気になって仕方がない。
気にするといっても指を突っ込んでは、それは鼻ほじりになってしまうため、なんとなく日々生活において鼻孔内側を意識するという、どうやったらいいのかよくわからない状態で、いま。
それにしても「ほじる」という言葉は、よくもまあ「ほじる動作」をうまく体現したものだなあと思う。
「ほじる行動」を見て、最初に「あれ、ほじるって動詞で表そうぜ」と言ったやつはかなりいいセンスの持ち主である。
これが例えば「さらら」とかだったら、もう全然「ほじる」のあらっぽさ、生々しさが表現できていない。
「鼻さららしてたら、血が出てきたよ」
鼻さららなんかで、血が出るかよ!!と怒りたくすらなる。
ところで今、なんとなく思ったのだが、耳掃除はあるのに鼻掃除が、少なくとも言葉としてほとんど聞かないのはなぜなのだろうか。
ということを考えたとき、それは耳よりも鼻の方が「人間の動物じみた部分」だからではないか、と思った。
まず、粘性の液体が出る出ないという差があるでしょ。
もういいか。
どうやら「人間の、動物じみた部分」を「掃除」どうこう言うのは、なんだか人に他意を感じさせやすいのである。
となると、「鼻も掃除したよ」というクリアランス宣言を行いたい場合はどうすればよいのだろうか。
ここはひとつ、鼻さららでいかがでしょうか。

ねこがでるでる

昨日から。
【あらすじ】
ねこを飼っている人に「ねこが出るぞ」と言ったら、あわてるかも。
=====
例えば、ねこを飼っている人のうちの玄関先で話しているとき、その人の背後を見ながら「あ、ねこねこねこねこ!!」と言ったら、もう確実に飼い主はあわてて後ろを振り向きつつ、玄関の開いている部分に自らの足をもって壁を作るだろう。
これは小型犬であってもそうだろうが、大型犬だと少し違う感じになる。
すなわち、大型犬は突進して玄関のすきまから外出を試みるのに、そのでかさゆえ、ねこや小型犬ほどの瞬発力は生み出しにくいのである。
一方、飼い主は、瞬発力こそないがパワフルに突進してきた場合、足くらいでそれが押さえられるとは思わないだろうから、おそらく玄関をいったん閉めるだろう。
「ねこが出る」という言葉が多少なりとも人をあわてさせるというのならば。
これらのことから分かるのは、その狼狽は主に「ねこが出るときのすばやさ」から生まれていると考えても良さそうだ。
かめならどうだろう。
実際に玄関先の廊下からかめが迫ってきていたとしても、飼い主へ「あ、かめかめかめかめ!!」と言うことで相手をあわてさせることはないのであって、むしろ「うちのかめをそんなに見たいのか」と勘違いすらさせてしまう。
かめはすばやくないのである。
ただ、さきほどの「出るときのすばやさが人をあわてさせる」とは、少しだけ気色の違うシーンもあることに気づいた。
「あ、さかなさかなさかなさかな!!」
熱帯魚を飼っている人に、同様にシチュエーションでそういってみたらどうだろう。
このときその人をあわてさせるのは、熱帯魚が外に飛んでいってしまうことではない。
その人は「さかなさかな・・・」を聞いたとき、おそらくこう考える。
なぜか水槽から飛び出してしまったらしい。それがぴちぴちはねて玄関先の廊下まで来たのだ。
早くしないと熱帯魚が死んでしまう。
死が飼い主をあわてるのである。
こういったシーンがあるとなると、やはりねこは外に出さない方がよい気もし、そして「ねこが出る」という言葉にそれはあわててしまうよね、の今回。

ねこがでる

ねこを飼う、多くのものにとって恐ろしいことと言ったら「ねこが出る」ことではないだろうか。
外出させまくる飼育方法ももちろんあるが、事故や周囲近所へのいたずらは怖い。
ねこは出さないことに越したことはないという意見は、そこそこ正解なのではないだろうか。
そうしたなかでの「ねこが出る」。
なかなかに暴力的で魅力がある言葉である。
我が家では、例えば窓を開けているものに「ねこが出るぞ」というと、あわてて後ろを振り向きつつ窓を閉める動作を一律して行う。
わかっているのだ。
ねこが出たときのめんどうくささが。
勝手に帰ってくる気もするのだが、なんだか心配なときは近所を出歩くことになる。
夜になっても帰ってこない場合は車や縁の下をライト片手に探すことになる。
見知らぬ人が自分のうちの車の下にライトをあて歩いていたら、いやでしょう。
実際、のぞきと間違われたことがある。
正直ライト片手にのぞきを行うのは、リスクが高すぎるし、なんだかアナグロ(まちがい)だ。
ただ、こちらの方が明らかに分は悪いため、「のぞきじゃありません。ねこです」と回答しどうにかその場を収めた。
とはいえ、周囲を不安にさせる行動なんて、いけないのだが。
ということで、「ねこ出る!!、ねこ出る!!」とか言われると、かなり焦る。
あわてて周囲を確認する。
またそれが、一見自分がそうなりそうなことをやっていないときに言われると、なおさらだ。
「ねこ」が何かの隠語で、自分の社会的容姿のどこかから、見えてはいけないものが見えそうになっているんじゃないかとすら思ってしまう。
ただ、今回の内容が、どれほど一般的なものなのかを問われると、少々困ってしまう。
ねこ飼い主に対して、唐突に「ねこが出るよ」と言ったことがないからである。
次回
何かいろいろ考える。

記憶と新人劇団員

恩田陸の文庫本を読んでいたら、何箇所かにデジャヴという言葉があった。
恩田陸はデジャヴが好きである。
そうかどうかは分からないが、ちょっと考えてみると「デジャヴが嫌いな人」というのはいなさそうなことに気づく。
「うわこれ、何かどこかでおんなじことをやった感じがする・・・。きもっ、死にたっ」
あまり聞かない。
どちらかというと、デジャヴな感覚はみんな好きだろう。
なにせデジャヴな感覚に陥った人は、確実に「もうやったことある感じがする?」と身近な人に報告してしまうくらいだから。
報告することだったら「私、ついに便意を自在にコントロールできるようになりました」など、他にもあるだろうに、それを抑えてデジャヴのことを報告してしまうのである。
それはどうやら、楽しいことらしい。
ところでデジャヴは既視感と訳されるようで、その反対、未視感というものがある。
それは「見慣れていたものが全然知らんものに見える」ということらしく、ジャメヴというそうだ。
デジャヴもなかなかだが、ジャメヴは、いいね。
敵1グループを毒状態にしそうな感じだ。
それに意味が、幼なじみへの恋愛フラグみたいでもある。
この、幼なじみ1グループを魅了状態にしそうなジャメヴ。
少し違うかもしれないが、多少なりともそんな気持ちにさせる事柄を経験した人は多いだろう。
僕はよく、そこらでひっくり返っている飼い猫に対して「あれ、お前だれ?」みたいな動作をしてみる。
「お前、どこの猫?」
はっと気づいたかのような動きをし、猫の様子をうかがってみるのだ。
そうすると、猫も大したもので、なんとなく雰囲気を把握するらしく、さっと緊張状態になり「え、私のこと見覚えありません?」みたいな感じでこちらをうかがい返す。
こんなことをよくやられては、猫としては「あれこの人、前も忘れちゃってなかった!?」という感じだろう。
かわいそうである。
ちなみに、このやり取りから生まれたことわざが、あの有名な「ジャメヴのデジャヴ返し」である。
この文はいらないか。

バイオハザードその2

昨日からのつづき。

【あらすじ】
こんな、のら動物を見ました。

=====

<見たもの>
 プレーリードック
 ハクビシン

=====

半そででは少し寒さを感じる。
そんな秋の夜でした。

私は自宅への道を歩いていました。
少し急いで。

というのも、その日は見たいテレビがあったか何かで、いつもより小走りになっていたのです。

今思うと、ここで急いでいなければ、あんなことにはならなかったでしょうに・・・。

私はいつもよりもずいぶん早く自宅付近に差し掛かったのに気づき、心から喜びました。

見れる。
いや見られる。
テレビが見られる。

おいみんな。
テレビが見られるぞ。

テ。

レ。

ビ。

テレビ。

テレビが見られるぞ。
さあ帰ったら、どうしてくれよう。

すぐに、ソファの近くにテーブルを持っていこう。
そしてテーブルの上に、買ってきたピーチティーを置こう。

くつ下を脱ごう。
クッションを頭と足の位置に置こう。
そして、テレビだ。

階段を上がり、玄関が見えたときまでは、このようにテレビでした。
しかし私は、玄関の下に何かがいることに気づいたのです。

カバでした。
とても大きなカバでした。

カバが玄関の前を右往左往していました。

まさか、テレビの前にカバのくだんがあるなんて。
そんなはずはない。

私はその動物をよく見ました。

すると、それはカバよりも少し小さいようでした。
そして、すぐにコビトカバであることがわかりました。

まさか、テレビの前にコビトカバのくだんがあるなんて。
そんなはずはない。

カバよりかは、大きさの点ではあるかもしれないが、希少さから言うとどうなるかわからないけど。
私はその動物を本当に、ちゃんとよく見ました。

すると、それはコビトカバよりも少し小さいようでした。
私はコビトカバがどのくらいかがよく分かりませんが、「このくらいなんじゃないか」という感じは、絶えず持ち続けている男でしたので、小さいことがわかりました。
そして、すぐにカピバラであることがわかりました。

カピバラが玄関の前を右往左往していました。

まさか、テレビの前にカピバラのくだんがあるなんて。
そんなはずはない。

なんだかごわごわしているな。カピバラさんとは何かが違うな。
私はその動物を暗視しました。

すると、それはカピバラよりも少し小さいようでした。カピバラよりも少し小さいたわしのようでした。
そして、すぐにプレーリードックであることがわかりました。

あの、動物園にいる、プレーリードックです。
確かにペットショップなどで売られていましたが、そこらで頻出する英単語のような動物ではありません。

なんでプレーリードックが、俺のうちの玄関で右往左往しているのか。

考えようによっては、ファンタジーです。

「よう、入れよ」

しかし私は考え直しました。
プレーリードックはかわいいですが、かなりなげっ歯の持ち主です。
だっこでもしようものなら、そのげっ歯が私の皮膚を貫通します。

私はそのげっ歯を興奮させないようにいったん家に入り、相応の準備をすることにしました。
飼い主が探しているかもしれないので、保護をしようと思ったのです。

家に入り、すぐにダンボールを見つけました。
これに入れてあげよう。

そして再度玄関を開けたとき。
そのプレーリードックは玄関と床の隙間に挟まってしまい、和紙のようになってしまいました。

うそです。
いなくなっていました。

もうあれからずいぶんたちます。
私は今でも、玄関の前をプレーリードックが右往左往しているんじゃないかと、ふと考えるのです。

そして、この話のなかでの「カバ~プレーリードック」の流れは、相手の承諾を得やすくするための技法「ドア・イン・ザ・フェイス」を応用したもので、このテクニックのおかげで、より「プレーリードックならいそうだよね」「プレーリードッグがいたんだ」感を出すことができました。

みんなもこのテクニックを使って、何かの承諾を得まくろうぜ!!。

追記
ハクビシンは何か、ゴミ袋をくわえて夜の森に入ってってました。