今ドラマで、首つり死体を目の前に金銭関係で口論をする人々のやりとりがあった。
特性上、非人道的なシーンを表現したいところなのかもしれないが、フィルターを外してそれを見れば「口論する人たちの横を、揺れる足がちらほら」となり、なんだか面白い。
はやく下ろしてやろうよ
なんか一段高いところから口論に参加している、位の高い人みたい
シャンデリアのオプションです
どれもよく当てはまる。
自殺における縊死は、うまくフィットしなかった場合はかなり苦しいと聞く。
でも揺れている。
その妙な差異もおかしいかもしれない。
あくまでドラマだし。
それにしてもこのシーンで一番最初に思ったのが「たかっ」だった。
ちょっと、高かったのである。
ドラマの首つりシーンをみて、首つりの高さが気になるとは思わなかった。
首を吊るためには、実はそんなに高さはいらないという。
苦しいが、座高くらいのところに頸部を圧迫するための紐などを仕込めばいけるとか。
そんななかで高さを目指す首つり者たち。
彼は落差を使っての脱臼を狙ったのだろうか。
これは苦しまないらしいし。
しかしドラマでは、首つり自体(なんかいい響き)がシャンデリア様のものに紐をつけて、高いところで行われていた。
落差どうこうの高さではなく、高高度のところでの普通の首つり死体だった。
高いところでみじっかい紐での首つり。
意外性。
誰の目にも触れられないようにしたい。
星に少しだけ近い。
心境はいかなるものなのだろうか。
もちろんその心境とやらは、もうなくなっているのだろうが。
まあ、ドラマでよかったよネ。
投稿者: nimbus7942
5分間
はらがいたいのら!!。
これを短くするとはらたいらになりそうだ。
腹が痛くなってきた。
なぜだ。
今飲んでいる、あったかい紅茶にそんな作用はないはずだ。
昼食の担々麺か。
辛いからか。
しかしおいしかった。
辛いから。
いてててて
やっぱここで「いてててて。」と、「。」をつけたら痛さが伝わりにくい。
「。をつける余裕があるじゃないか」
そう。
僕は余裕がないのに余計なことをする。
切実なお願いごとを書いた張り紙に、マスコットキャラクターを書いてしまう。
「それほど切実じゃないな」
はらたいらの件だってそうだ。
はらいたーいのら!!
!!だってそうだ。
僕は昔、1杯の紅茶に角砂糖を4つくらい入れて、それをマリービスケットと一緒に食べるのが好きだった。
今ではそんなに角砂糖を入れることはないが、その影響が今出てきたのか。
ああ今、マリービスケットというのが本当にあるのか、ちゃんと調べてしまった。
それらしいのはあるので、安心だ。
安心だ安心だ
じゃあま
陰陽の羨望
前から好きな事は好きだったのだが、ここのところJUDY AND MARYの「ランチ イン サバンナ」ばかり聞いている。
作られた背景は全く知らないが、歌詞にビルやらサバンナやらが出てきて、その対照が楽しいのである。
対照。
付箋だとか吸い殻だとか使いかけのペンだとか。
この富栄養な世の中で、何と何を紐でむすめば、あるいは線をひけば、全てを網羅できるのだろうか。
歌を聴いていて、そんなことと中島らもの小説を思い出した。
落ち着きがちだが、男と女だろうか。
ぼくが思うに、男と女はかなり似ている。
外見的に言っても、ほぼ同じであると考えて間違いない。
ある本に「セントバーナードとチワワの化石を見た未来人はそれを、「同じ犬というもの」とは認識できないかもしれない」という旨のことが書いてあった。
そんなことはないんじゃないかとも思うが、とにかくそれと比べたら男と女はおんなじだ。
おんなじものをつなぐために線をひくと、それは点だ。
点では全てを網羅できないだろう。
男、女、違う。
これまた落ち着きポイントだが、生と死だろうか。
生と死を紐でむすぶとそれは、例えば人間では「人生」となるだろうか。
となると、全てを人生が網羅していればよいことになるが、ざんねん。
例えば「神田川の川底に埋もれている舟木一夫の缶バッジ」は、誰のどんな人生にも「かすっていない」と思われる。
作った人もそのひとつを意識して作った訳ではないだろうし、舟木一夫はその存在すらしらない。
あるかどうかわからない。
しかしその時点で、すでに僕の人生には「かすっていない」ことがわかる。
おそらく誰の人生を持ってしても「舟木一夫の缶バッジ」は網羅できていないだろう。
生と死を紐でむすんでも、全てを網羅できるとは考えにくい。
こういった方面ではなく、場所を紐でむすめばいいのだろうか。
横浜と成田だろうか。
便利だろうが、全てを網羅しているとは言いがたい。
横浜成田間すら、網羅できてはいないのではないだろうか。
南極と北極だろうか。
全てとは、そんなもので表現しきれるのか。
昔の船乗りなら、海図の対角線がまさにそれだったかもしれない。
しかし今は、線を引こうとしたその先がどんどん遠くに行ってしまっていたりすることが知られている。
そもそも2点を定義して紐づけるということ自体がナンセンスなのかもしれない。
そんなことより、何かおもしろいオチはないのだろうか。
N極とS極を紐でむすぶ。
磁石が持ち運びやすい。
こども店長と菅井きんを紐でむすぶ。
じっとしていない。
自分の左手と右手を紐でむすぶ。
これは例の、落ち着きポイントを探そうと尻ふりを見られたかのように、気分が悪くなるやつ。
探す
コンタクトレンズが取れてしまったとする。
それはけっこう、漫画な光景だ。
しかし周りの人は眉間にシワを寄せて道路に目をこらすあなたを見て事態を把握、探すのを手伝ってくれるだろう。
そして見つかる。
ここで、どんどん「周りの人」を増やしてみる。
まずふたり。
計3人が屈みながら地面を見ている。
さらにふたり。
5人が落ち穂拾いだ。
さらにふたり。
この辺で「もしかしたら服に付いているかもしれません。回って見せてくれませんか」となる。
見つめるふたりの前で回ってみせる。
そしてふたり。
ちょっと範囲を広げてのコンタクトレンズ探し。
ふたり。
「ずっと回っていたんじゃ大変でしょう。わたしが回してあげます」
回してもらっているあなたを見る2、3人。
周りを探す10人弱。
ふたり。
「これは本腰を入れる必要がありそうだ。とりあえずみなさん、松屋に行きませんか」
ふたり。
照明機材を用意しましょう。
ふたり。
水買ってきましょう。
ふたり。
ああそれ、ぼくがやっておきますから。
すいませんねぇ。
ふたり。
ああそこは探しましたから、あっちの方向お願いします。
・・・
こうなってしまっては、誰もコンタクトレンズを探しているのだなんて考えもしない。
もはや「国のきっかけ」みたいなことになっている。
ぼくはここまで探しましたから。
土地の獲得である。
あっち、涼しかったですよ。
避暑地の誕生である。
お菓子買ってきましたよ。
職業の誕生である。
国が土地と避暑地と職業で成り立っているかどうかは分からないが、きっかけとしては十分だろう。
あれ、あのお立ち台みたいなところででプロレス技かけられてるのは誰ですか?。
おなじみの国王である。
詩金の時計塔
先日、重力がどうこう考えていたとき、他の事も思いついていた。
「時間が重力に屈するとき」。
なんかすごくアレだが、思いついた事は至極つまらないこと。
5時30分もしくは6時30分あたりだ。
もちろんアナログ時計で、しかも地と垂直になっていなくては、よくわからないことになってしまうけど。
針がだらりと垂れるところを想像すると、思いのほか寂しい感じがする。
いつも動き続けているものがちからなく静止しているように見えるのは、寂しいのだ。
しかし、その時計は夕日あるいは朝焼けに照らされているだろう。
それは自体は、けっこう悪くない。
体温計
検索される画像第1位は、アイドルでも子猫でもエロ系でもなく「少し高めを指した体温計」だそうだ。
うそだが、あながち遠くはないだろう。
汎用性高いから。
で、これで今日は終わり。
少し高めなもので。
巣作意欲
クモが巣を張るとき、何をもって「よしここに巣を作ろう」と思うのだろうか。
なにげにちゃんと研究されているかもしれないが、僕は知らない。
有利である。
こういった流れに際し、「知らない」ことは有利である。
考えてみた。
1
風通しの良い場所
風通しがよいと、羽虫も風に乗って通過してきそうである。
クモ物件では風通しが重要視されるに違いない。
2
昔、誰かが巣を張っていた痕跡がある場所
それは、ここで獲物が得られた事を示す。
よって今後の期待値も高いため、巣を張ろうという気にもなるはずだ。
3
風水的にいい場所
風水というものが自然の何かを考慮した物なのだとしたら、それを他の生物が利用していないはずはない。
クモもそうで、一見獲物がかからなそうなところでも巣を張るのは、風水的にいいからなのであろう。
4
女子大生のマンション
これは一見「着替えをのぞこうとしている」と思われがちだが、実は逆で外から部屋内を見せないようにするという、かなり健気な理由なのである。
叶わぬ恋なら、せめて役に立ちたい。
そう思ってクモは、太めの糸で巣を張るのである。
5
長袖の袖の中
いったん迷い込むと、一方通行。
それがクモの巣作製意欲を沸き立てる。
しかし長袖使用者にとってはかなり気持ち悪い。
長袖を手にとり、腕を通したら指にクモがついているのである。
私、こんな指輪してたっけ?
私、こんなロックな指輪してたっけ?
かなりびっくりする。
6
西武球場
クモたちには夢がある。
それは「どのくらい大きな巣を作る事ができるか」だ。
今までの最高記録は地下鉄丸ノ内線のトンネルで、対岸に糸をつなげるのに苦労したがどうにか完成。
しかし始発により破壊されてしまったのである。
そしてそれを遥かに凌ぐ西武球場が今、クモたちにとって熱い。
7
外灯付近
クモたちは、虫が正の走光性を示すことを知っているので、外灯が入れ食い状態になることを期待している。
もう、外灯自体を巣で覆いたいとすら思っている。
8
掃除機ホース内
何か分からんが、ここはいろいろなものが通過していく。
だから巣を張ってみたいと思っているだろう。
9
鳥ののど
得られる物も多そうだが、かなり綱渡りな状態である。
これができるのなら、クモ的にはそろそろ待ちではなくて積極的な狩りが始動できるようになるだろう。
10
左舷
以上。
ぼくわ
なんだか家の無線LAN環境が、へんになってしまった。
なぜだろう。
家のLANは分からないが、何となく分かることといえば「ぼくわ」ではじまる文章のことだ。
すごく出ている。
あるいは出そうとしている。
どちらにしても、読み手は一歩下がった状態からの読み出しとなるだろう。
「ぼくわ、か・・・」
例えそれがモノホンであったとしても、だ。
モノホンかどうかは文章の稚拙さや筆跡、または読み進んで行けば分かる。
一方、そうでなさそうなら「書いた人はどうにかして「っぽさ」を出そうと苦心したのだ」と、どうにも冷めた視点になってしまう。
※当ブログはモノホンなので、冷めた視点にはならず温かい目でご覧になっていると思う。
故意の「ぼくわ」なら。
どうせならその「ぼくわ」の周辺も極力「ぼくわ」テイストにしてほしい。
でも「ぼくわ慟哭した」とか書かれると気になって面白い。
何気に「ぼくわあした、やきゅうをしました」とかやられると、それは思いのほか哲学的だ。
そうもなると、実は「は」と「わ」の違いなんて重要ではなく、何かを書くか書かないかが重要で、書いたら何かはひらえるわけで、そっちのほうがいいのかもしれない。
と、自分を励ましつつも「モノホンがまさにそれなんだよ」と自責する、夜の各駅停車かな。
運命の人
「運命の人に出会えるオンラインゲーム」という感じをうたう広告を見た。
仮想空間で運命の人に出会ってしまった場合、どうすればよいのだろうか。
まず、そのCGなキャラクターがそうなのか、ネットワークの向かい側で操作しているだろう人間がそうなのだろうか。
「運命の人」自体がかなりもやもやした定義であるため、難しいところであるが。
もし、なんらかの決定的事象により前者である事が確定した場合、つらい新婚旅行になる。
いや、もっと前の段階からいろいろとつらい。
もう、いろいろと。
※前者の決定的事象
・停電が起きたのだが、なぜかそのキャラクターが画面に表示されつづけた
・目と目が合った
・ちゃんとした意味で、一目見たとき電気がはしった
・そのキャラクターを表示した時点でフリーズ
・不思議な事に、触れた
一方、ネットワークの向こう側の人であったとしても、つらい。
まず、誰だかわからない。
異性なのかどうかもわからない事が多い。
「僕たち、どうやら運命の人の間柄らしいんだ!!」
そんなことを言っても、相手はどうしていいのかわからない。
それはちょうど「そのCGなキャラクターがそうなのか、ネットワークの向かい側で操作しているだろう人間がそうなのだろうか」という疑問から始まり、何となく不幸の連鎖である。
ただ、この不幸はそのままゲーム内のキャラクター自身にも降り掛かるかもしれない。
目の前のCGな異性が運命の人なのか。
それとも俺たちを操作している、向こうの世界の人がそうなのか。
交錯する世界における「運命の人」というのは、たいがい悲劇的な結末を迎えることになっている。
海に帰れなくなった人魚姫か。
城に帰れなくなった王子様か。
「・・・・もう、戻れないんだ・・・・」
ロマンシング サガ2。
ゲーム内のキャラクタ、王子様の方のご意見。
戻れないそうである。
重力
高い塀から落ちて怪我をし、それを「重力の暴力」であるとして訴える。
あまり聞かないが、それは重力というものがあまりに身近であるためだろう。
生まれでた瞬間、いやもっと前からか。
その力を受け続けてきた生物にとって、それは当たり前の責務なのである。
しかし一歩下がってみると、あまりに不当な現象でもある。
勝手に発生しておいて、呪縛を与えている。
そして重力も重力だが、それをごていねいに受け続けている我々も我々である。
知るか重力!!。
もう俺は宇宙へ行く!!。
そんなニュージェネレーションが増えてくるかもしれない。
しかし、それにより何を失うか。
それはまあ知らないよね。