では今日は、昨日のおさらいから、新しいものも含めて。
ヨガのポーズをやってみましょう。
まず、「三日月」のポーズ。
はい。
次に、「英雄」のポーズ。
はい、苦しいですけど、がんばって。
次。「三角」のポーズ。
はい。いいですね。
「弓」のポーズ。
はい、次。
「猫」のポーズ。
はい。よくできました。
では、ここからは新しいものも含めたポーズをやってみます。
では。
「船」のポーズ。
はい。これは前のやつですね。
次、「キン肉マンが空を飛ぶとき」のポーズ。
はい、合ってますよ。はい。
次、「かえる」のポーズ。
そう、そうです。
次、「シーソー」のポーズ。
はい。
次は「孔雀」のポーズ。
そうです。
じゃあ次「かかし」のポーズ。
「先生」
「なんです?」
「気になってるんですけど、僕らはいつごろ着陸できるんですか」
月: 2009年5月
かたつむり
でんでん むしむし かたつむり
おまえの あたまは どこにある
つのだせ やりだせ めだまだせ
なぜ「むし」の部分を繰り返すのかは不明だが、よく知られた歌である。
この歌で気になるところは、やはり「やり」部分で、実際気になられている方も多そうである。
これについては諸説あるのかないのかいまいち分からないので、各自調べていただきたいのだが、もちろん当ブログでは正答に興味はない。
ここでは「かたつむりの歌に出てくる、やりだせとは」について、諸説紛々の中の正答っぽいものから、一番縁遠そうなやつを見たい。
1.歌の作者が、よくゾイドで遊んでいた
?ゾイドらない人のためのゾイド講座?
ゾイド:なんだか地球上の生物の形をした機械兵器みたいなやつで、プラモデルがある
ゾイドの中に、たぶんかたつむり型の兵器もいたのである。
作者は幼少よりゾイドをたしなんでおり、その武装の一つに「でんでんむスピア」とか「かたつむランス」があったのであろう。
それを出せとかたつむりに言っているのである。
2.歌の作者が、かたつむりを「小さいトロイの木馬」か何かと思っていた
あの渦巻く殻から、槍を持った兵士が出てくると思っているのである。
命令口調で槍を出すように言っているところをみると、そこに潜んでいることは既に見破っているぞということを兵士達に気付かせ、その士気を下げようとする意図もありそうである。
3.交尾をせがんでいる
この歌でいう「やりだせ」は、いわゆる「槍出せ」ではなく、イメージ的には「ヤリだせ」ということなのであり、作者の性錯綜がうかがわれ、こんなこと書いている僕自身も滅入る。
ところで、かたつむりは雌雄同体である。
作者がそのことを知っていたとするなら、かたつむりの交尾を強要しようとする作者の錯綜は、もう大変なことになっていそうである。
ところで僕は、もうかたつむりの身も、殻も触れなくなってしまいました。
だから、基本的に何も出してくれなくて、登場もしてくれない方がよいです。
かたつむり、終わり。
フォントサイズ
新聞を読んでいるときに気になるのがフォントサイズ、字の大きさだ。
ちなみに、フォントサイズをフォトンサイズとすると、なんとなくかっちょいいロボットの武器っぽくなるが、今回の話とは関係ない。
字の大きさ。
見出しやその題目の概要などが少し大きく印刷されているのである。
「主要国首脳会議 開催」
「新型ウイルスの脅威」
「明日 真夏に迫る猛暑」
程度の差はあれど、新聞を読むものにとって、興味あるものばかりだ。
と、何面かを流し見していくと、上記の見出しと同じフォントサイズで、こうきた。
「さきにとろみ あとで具材」
何か料理の話のようだが・・・。
題材がカテゴリ、重要度に分けられて、それに見合った新聞の場所(面)に掲載されることはわかる。
しかし、それにしてもこの落差は何か。
フォントサイズは変わらない分、その内容が着目され、その落差が浮きだってしまう。
仕方がないが、先に優先度の高いと思われる内容の見出しを見てしまっていると、「なにを、具材を入れるタイミングのことで堂々としているのか」と疑問に思ってしまうのだ。
ところで、このような話になると、どうしてもスポーツ新聞も気になる。
スポーツ新聞は見出しのフォントサイズがすごく大きいから。
そしてその内容は、たいてい「カープ、竜虎狩りで滝登り」みたいなものである。
さすがにあそこまで大きいと、「この内容の見出しがそんな大きなフォントサイズなら、他の字の大きさなんてどうでもいいよね」的な雰囲気となりそうだ。
実際、世界的な事柄を扱った内容の見出しに対し、比較するものためらわれるくらいに大きなフォントの「巨人投壊」見出しは何度もあっただろう。
でも、安心して欲しい。
スポーツ新聞はスポーツを扱う新聞なので、スポーツのことを押していかないと逆に怒られるのだ。
それでも本当に大変なことがスポーツ以外で起きたりすると、それを一番大きく見せてくれたりもする。
そのとき、作り手にどのような葛藤が生じるかは、想像に難くない。
そのスポーツ新聞は、正座をして読まなくてはならなさそうである。
お客体
知ればなっ得!!
百円均一のお店で得するための何か条!!
=====
1.店内に入ったら、まずは大まかな商品配置を案内図などで確認しましょう。
店員さんの手を煩わせずに買い物ができるため、問い合わせ分の時間が短縮でき、店員さんからの印象もよくなります。
結果、目的の商品が見つからないとき、店員さんから「どうかいたしましたか?」と、声をかけてもらえるかもしれません。
2.入店して5分ほどたったら、周りに聴こえるくらいの音量で「ここに来れば、何でもそろっちゃうわねぇ」と言いましょう。
百円均一のお店で「何でもそろう」という旨の言葉を発したことのない人はいません。この場合、そのひどく凡庸なセリフを言うことで、自分は敵ではないことを周囲に知らしめることができます。
同類のものとして「えっ、これも百円!?」や、「ここだけで生活できるんじゃない」があります。
また、店員さんとしても、悪い気にはなりません。
結果、百円均一のお店でよく見られるレジ混みのとき、店員さんが隣のレジでめくばせのブルースをしてくれるかもしれません。
3.手に取った商品を棚に戻す場合は、ちゃんと元の状態にして戻しましょう。
これを行わないと、商品が使用感たっぷりになってしまい、その商品に対する購買意欲を、誰も持たなくなってしまいます。
その先には、最終的には日本経済の衰退が待っていますので、ちゃんとして戻しましょう。
また、店員さんにとっても、商品を元通りにする手間が省ける点で、喜ばしいことです。
結果、店員さんが目玉商品のそばで、おいでおいでをしてくれるかもしれません。
4.店内では、「百円よりも高い商品があるんなら、百円均一のお店じゃないじゃん」という旨のセリフは言わないようにしましょう。
お店によっては百円よりも高い商品を扱っている場所もあります。それに対し、私たちは上記のセリフをはきがちではありますが、ここはひとつ、言わないようにしてください。
言っても百円にまかることはありません。
また、店員さんたちも百円均一ではないことを既に承知しています。そのため、均一という言葉を使用しないなどの配慮をしていますが、どうしても後ろめたく感じているようです。
彼らに非はありません。そっとしておきましょう。
まとめ
基本的に、店員さん主体で動いていきましょう。
走れ
ただし「いやー、間に合った」
田中「なんだよ、ずいぶんぎりぎりだな。待ち合わせの時間」
ただし「ああ」
田中「何かあったの?」
ただし「いやー。友達の結婚式があって、さっきまでそれ行ってたんだ」
=====
ただし「これだけです」
-「これだけですか」
ただし「はい。これだけで、メロスですよ」
-「・・・」
ただし「これだけで僕のあだ名、メロスですよ。酷いものでしょう」
-「ええ、まあ」
ただし「あまりいないでしょう?。周りにあだ名、メロス」
-「まあ、いませんね」
ただし「妙に知られているから、困るんですよ、このあだ名」
ただし「ただ走っているだけでも、面白いらしいんですよ、このあだ名知ってるやつから言わせると」
-「でも、あだ名の由来、なかなか気が利いてるじゃないですか」
ただし「まあそうですけど」
-「それに、なかなかカッコいいらしいですよ、メロス」
ただし「え、そうなんですか」
-「治のなかでは」
タダシ「ふーん。悪い気はしないですけどね」
-「いいじゃないですか。解決ですよ」
タダシ「まあ、そうですね」
-「じゃあ、この問題は解決ということで」
メロス「まあそれでいいですけど」
-「・・・何か、問題が解決したとたん、見違えるようにカッコよくなりましたね」
メロス「え、そ、そんなことないですよ」
-「いや、何か外人みたいですよ、メロス」
メロス「何だ、冷やかさないでくださいよ」
-「ほんとですって。メロス!! メロス!!」
メロス「ちょっ、ちょっと!!」
-「メロス!! メロス!! メロス!!」
メロス「ちょっと!!。何いい具合に終わらそうとしているんですか!!」
nimbus7942「・・・ごめんなさい」
らくする
うかつにもGWなるものが存在することを思い出したのがその連休の前日。
いつもながら、計画的にどうこうすることがなかったため、だらだらと日々を送るかたちとなってしまった。
まず本。
本棚のひとたなを、小説エッセイ漫画問わず、ひとさらいするように読んでみた。
何度か読んだものばかりだったが、なんだか目新しいイメージも受けたりして、いい感じだった。
「読んだ内容を消化し、自分のものにする」
これが徳であるとするならば、前読んだものでも再発見があるという現象は非なるものなのか。
そうだとしたらその非は本と読者、どちらにあるのだろうか。
そういうことを考えるとほんと、すぐ眠れる。
次に映画。
「パコと魔法の絵本」と「きまぐれロボット」を借りたが、とてもよかった。
特に「パコと魔法の絵本」はその題名から、なんとなくハリポな感じがして。
面白いのに、その点不遇な面もあったりしたんじゃないか。
そういうことを考えるとほんと、すぐ眠れる。
次にゲーム。
PSP「ペルソナ」とDS「ダン←ダム」をやったが、面白かった。
特に「ペルソナ」はなにやらカッコよくなっていたけど、ゲーム中に流れる音楽「幼児虐待」はそのまんまで、よかった。
でも添付されていたサントラを見たら、その音楽の題名が「幼児虐待」じゃなかったので、ああそうなんだと思った。
やっぱりその名前で、何か不遇な面もあったりしたんじゃないか。
そういうことを考えるとほんと、すぐ眠れる。
ということで、上記のとおりGW中にネタ的なものは考えなかった。
そのため、このようにどうでもよいような日記調に。
でもいいGWだった。
ひとつ、勉強したから。
GW中、思いつくネタをことごとくスルーしてみた。
その気持ちよさといったら、なかったのだ。
幻想動物生態・枕返し
完全憶測で、いるんだかいないんだかよくわからん生物を紹介する。
◆枕返し
和名:
まくらがえし
生息地:
全国
夜な夜な寝ている人のそばに現れ、気付かれないようにその人の枕を裏返すことが生態の全てで、哺乳類。
今まで研究されたことがなく、ほとんど妖怪扱いであった。
しかし2009年3月、住宅街に出没したハクビシンを捕らえる目的で設置されたオリに枕返しが偶然にかかったため、その存在が明らかとなった。
見た目は頑強な猿のようであるが、言葉を解し、外見上のオス、メスもあるようだが、まだ研究は進んでいない。
よって、枕返しで哺乳類であることは、その外見と本人の申告によるところが大きい。
ただ確かなのは、夜行性であることと、枕を見るとひっくり返すことである。
実験を行ったところ、枕返しは俊敏な動きで寝ている人の枕元に立ち、以下の動作を行うことがわかった。
?人差し指で寝ている人のまつげを触る(小刻みに指を動かし、何度も触る)。
?まつげを触る行動を2秒ほど行う。
?人の頭をそっと持ち上げる。
?持ち上げていた人の頭を放す。
?人の頭が枕に到達するまでの間に、すばやく枕を半回転させる。
?人差し指で寝ている人のまつげを触る(?と同じ)。
?侵入口から逃走する。
その素早さ、そもそもなぜ枕を返すのか、それらも研究題材ではあるが、現在は主に?の行動についての研究が盛んである。
なぜもう一度、人が目覚めているかを確認する行動をとるのか。
まだ分かってはいないが、何かしら枕返しのプライドに関係すると思われている。
これに加え、今後は固定された枕や、その材質による行動の変化が研究されるだろう。
ちなみに、枕返しは全国に幅広く生息しており、その数もすごく多いことがわかってきた。
どうやら家一軒につき2匹、常にペアを組んで生活しているようである。
なぜ今まで枕返しの存在が気付かれなかったかという理由のひとつが、ここにある。
本来、枕が反転しているのであれば、翌日気付く人も出そうであるが、枕返しは2匹いるため、夜中のうちに半回転→もう一度半回転となるため、見た目何も変わっていない。
要は、一夜のうちに「枕返し返し」が行われているため、そのことに気付く人がいなかったものと考えられている。
やさしさ水勢
ウォシュレットには、その水流の強さや種類を示すボタンがいくつがあり、そのときは「やわらか」というのを押した。
するとどうしたことか。
水勢が「やわらか」すぎて、水が僕のアプリコットに届かないのである。
何もしないのと、同じ。
そのボタン「やわらか」というのは、「やさしい」と言い換えることができるだろう。
となると「やさしい」ということは「何もしない」ことなのだろうか。
感慨深いトイレとなった。
「何もしないことがやさしさということもあるんだ」
この後、その分何かをしなくちゃいけなくなったが。
卒業文集 11番
卒業文集
11番 妻子
はい邪魔ですか。
「妻子ある身」っていう言葉がある時点で、どうしてもお荷物方向ですか。
まとめますか。
お荷物だから「妻」と「子」、まとめますか。
そうですか。
持ちますか。
お荷物だから「妻子持ち」といいますか。
なんなんですか、世界。
私のことを、なにやらネガティブに感じすぎではないですか。
「妻」と「子」ですよ、男子諸君。
三種の神器のうちの、二種ですよ、男子諸君。
それを「しみそばかす」みたいに、一緒くたにして。
一体、どういった了見なんですか。
一緒になったときはもてはやして。
飽きたらもういらないなんて。
もう、1円の価値もないとお考えなんでしょう。
あ、今「妻子アルミ」とか考えたでしょう。
一体、どういった了見なんですか。
もう、しばらく卒業させていただきます。
一過性治らない病気
人がときどきおちいる「面白いことが面白くない」というレクイエム。
「面白いことが面白くなくなった」ではなく、「面白いこと」自体がルーチンになってしまったような。
また、特に面白くないようなことでも何でも笑ってしまい、結局内容は問いませんでしたという、なんだか談合な感じ。
「ああこの人、これから面白いことをやろうとしているんだわ」と意識してしまうような、妙な冷めぐあい。
奇妙なものなのだけれど、誰もが一度は経験しているだろう。
どうしたら治るんだ、これ。
ちなみにこれが逆だったら「面白くないことが面白い」となり、一般的には箸の転がる世界となる。
ただ、それでもすぐに訪れる「転がる箸が面白くない」とき。
「あれ、昨日まであんなに面白かったのに。今日は転がしても面白くないな」
この病は普通、気付かないうちに治っているような気がする。
面白い人たちの創作能力は尋常ではないのだ。
しかしその分、長引くとたいそういけ好かない人間になりそうである。
そして治し方がわからない。
結局、「面白いことが面白くない」という症状に気付かなければいいのである。
「なんだか面白くないけど、特にそれで困らないのでほっといている」
そんなスタンスがいい。
さすれば「気付かないうちに治っている」ことになる。
一方「面白いことが面白くない」ことに気付いてしまっている場合。
むずかしい。
それに耐える方法は、何かしらのツールでそれをごまかすくらいしか思いつかない。
箸以外の。