代名の性

前回「のんびり1」はケータイからの更新だったので、基本短い。
「もう、サスペンスドラマに「メッキ工場勤務」の登場人物は、いらない。」とだけ書いた。
PCで見たのですが、ものすごくさびしくて、しかもわからないので、説明しようと思う。
サスペンスや推理小説の好きな人にとってメッキ工場勤務とは「イコール青酸カリ入手ルート」です。
※メッキ作業のどこに必要かはわからないのですが、どこかでシアン化カリウムを使うらしい。
ということで、その手の物語で「メッキ工場勤務」キャラが現れたら、大抵その人はスケープゴートなので、物語の潤滑油となります。
そんなヤツなので、彼が現れるとどうしても居間は「あー、青酸カリ入手可能ね。それで、次は?」的な感じとなってしまうのです。
だから「もう、サスペンスドラマに「メッキ工場勤務」の登場人物は、いらない。」。
ところで「メッキ工場勤務イコール青酸カリ入手ルート」を知らなくても、メッキ工場勤務者の扱いはちょっとヘンだ。
「容疑者は次の4人です。」
美容師
保育士
会社員
メッキ工場勤務
一人だけ、やたら詳細。
この時点ですでに、警察は”彼”が怪しいと察しているのだろう。
死体に散髪はさみが刺さっていても、エプロンが首に巻きついていても、バッジが鼻孔を塞いでいても、それは揺るがない。
「メッキ工場勤務」
特別調べた感、かなりありだ。
※僕の中では、山さんが調べた。
で、どうなのよ。
この扱い。
続く。

華奢手

インターネットが使えなくなっちゃった…。
設定はおかしくないのになぁ…。
と言うことで、ケータイ更新。
ケータイ、すごいね。
何でもできるね。
何かおもしろ例えを書きたいけど、もう親指が腱鞘炎だ。
これだけ的確に親指を5×5cmの範囲で動かすことは、ない。
ほら。
何かおもしろ例えを書きたいけど、もう親指が腱鞘炎だ。
今日はこれで終りだし。

カテゴライズド・アーミー

分けられている。
とにかく色々分けられているのだ。
ブログの種類を見ても、すごくたくさん分かれている。
本も、すごく分かれている。
人も、分かれている。
例えば、映画「三丁目の夕日」くらいの時代の人々を分けてみると、だいたい「ぼうず、おかっぱ、おませ、大人」の4つである。
このカテゴリに属さない三丁目の夕日は、いない。
しかし、現代人はどうだろう。
そこらを歩く一人を解析してみても、
「うーん、オトナじゃないな。でも、ぼうずでもないし・・・。」となる。
それは、夕日時代の人々を分けるような基準で考えてみても、少なくとも「シャツ出し・ゆるネクタイ・胸元見せ・人生の分岐点は175Rを聴いたとき」とかなる。
※「バカリズム・トツギーノ調」に言うと、楽しい(「人生の分岐点は175Rを聴いたとき→175R聴きーの」に言い換えよう)。
そもそも「友達以上恋人未満」などという、よく分からないレベルのものも、そのままひとカテゴリとして存在している現代だ。
こういう曖昧な状態もピックアップされるなら、
「友達以上神未満」という、やたら範囲が広いカテゴリに属する人や、
「友人以上友達未満」という、あぁ友人なんだな、という人も存在することになる。
「カメムシ未満知人未満」という、だいぶ嫌われやすいカテゴリもあるだろうし、
「気になる人以上足ふき以下」という、ある意味すごいツンデレなカテゴリもあるだろう。
それはそれは、たいへんな分かれっぷりなのだ。
※話はそれるが「友達以上恋人未満」という相手がいたなら、ぜひこれからは「友達以上恋人以下」といってあげたいところだ。
少し、いい方へ範囲を広げてあげよう。
あらゆるものがひどく分けられてしまう原因は、彼らを取り巻くモノや文化が増加したことだと思われる。
駅が色々な路線でつながれているように、色々なリンクがあらゆるものに付加され、こんがらがった。
二つとして同じ駅がないように、全ては少しずつ、あるいは大幅に分かれてしまった。
もし、話題の方向性とかセンスがすごく合っていると感じた人(自分と似ている人とは、ちと違う)が現れたら、それはもう曲がり角で待ち伏せしてでも、わざと転んでコーヒーをぶっかけてでも、当たり屋に転職してでも、住民票を偽造してでも、亡命してでも、仲良くなったほうがいい。
あまりに人々は色々な分野で細かく分かれているため、そんな人には滅多に出会えないから。
ちなみに上記の例えでいうと、仲良くしなければならない二人は目黒駅と目白駅、くらいだ。

転変身

食材に対して失礼なことに「一度細かくしてから、元の形に整える」がある。
例えば、魚の形をしたかまぼこを作る鋳型があったとしよう。
白身魚たちは練られながら鋳型を目にし、こう思う。
「けっきょく魚の形にするんだったら、僕らを砕くなよなー。」
「砕かれても結局魚の形にされてやんの、って思われるのが辛い。」
「僕らがサブい、みたくなる。」
こんなことをされるくらいなら、彼らは砕かれたのち、木の板にこそぎ付けられ、めでたくもないのに紅白に塗られたほうがましだ、と考える。
元の形を模倣することは、あまりにかわいそうである。
むしろ、逆方向への形変換が、彼らにとって救いだ。
この点において、「たけのこの里」はみんなにやさしい。
カカオたちは思うだろう。
「たけのこの形にするということなら、砕かれるのもしょうがないか。」
カカオたちにとって「たけのこ」は正反対のものであると考えられているので、それを知るものは板チョコになったとしても、ケーキになったとしても自分の今の姿が気に食わないという。
キノコもなかなかの逆カカオっぷりだが、やはりたけのこ。
他の追随を許さない。
開発者がたけのこを模倣した意味は、ここにある。
カカオが自分の今の姿に納得した分、「たけのこの里」は少しおいしくなってるのだ。

シラップ

あるスーパーが改装のため、一時閉店する。
行ってみたところ、だいぶ品物がなくなっていた。
安かったのだろう。
だが、やはり安くなるのは日持ちしないもの。
レトルト食品や乾物などは値引率が低いようで、結構余っていた。
ほぼ無傷のナタデココ缶詰を手にする。
この商品はナタデココのみ、入っているようだ。
どんなに店内が品薄であっても、人々はナタデココの缶詰を手に取らない。
「ナタデココは、それほど使わないよね。」
閉店セールだというのに、なかなか冷静である。
そう。
一般家庭において、ナタデココを使用することはあまりないのだ。
かわいそうなので、缶をもてあそびながら用途を考えてみた。
タンスの滑り止めにはどうだ。
だめだ、甘い汁が出る。
頭の中でシミュレートしてみたが、予想以上に出る。
煮物はどうだ。
だめだ、甘い汁が邪魔だ。
感覚的には煮物のうまみを吸いやすそうだが、吸った分だけ甘い汁が流出し、他食材に被害を及ぼす。
ナタデココをまとめてみると、甘い汁なのだった。
そんな甘い汁について考えてみようと、内容物を確認してみた。
シラップ(ヘビー)と書いてある。
お前はネイティブか何かか。
何故かは知らないが、缶詰業界では、僕らが「シロップ」だと思っていたものを「シラップ」と記すようだ。
自分を基準にするのはよくないと思うが、おそらくこの2つ、「シロップ」の方が一般的ではないだろうか。
いや、もう少し強く言っていいだろう。
「シラップは変だよ。」
誤記ではないだろう。
確信のラである。
シラップを守る意義が、缶詰業界にはあるのだ。
「シラップって、おまえ・・・。どうしたんだよ。シロップ、シロップだろ!?。」
缶詰業界の肩をつかんで揺さぶっても、シロップの声は業界には届かない。

心中、波は高く。

先輩が、僕に断りもなく結婚した。
先輩も、僕に相談もなく結婚した。
ダブルである。
一粒で二度おいしいのである。
そんな先輩達がおくる「結婚しました。みんなありがとう。空と大地よ、輝け!!。パーティー」みたいのに参加した。
かなり大勢の賑わい。
そこでは主に飲んだり食べたり、あと飲食したりしたが、そうこう食しているうちになにやらイベントが始まった。
2人にちなんだ3択クイズだ。
くじ引きで指名された参加者が解答権を得るシステムのよう。
そんなシステムの中、さっそくピエールさんがいいこと言った。
ここで言う「いいこと」とは、もちろんボケだ。
ピエールさんは解答権を、実に有効に使用した。
そして僕は、ピエールさんのボケの瞬間、会場の空気が笑いとはまた別の雰囲気を一瞬にして持ったのを、感じる。
「くじ引きに当たったら、ボケなくちゃ」空気だ。
たくさんの参加者がいるので、解答権が得られる確率は低い。
そこが、この空気の中ではなんとも気味悪いのだ。
くじには当たらないだろうけど、ボケを用意しないわけにもいかない。
僕は最近、こういうアンテナが鈍っているので、だめだ。
それでもどうにか、そのときのクイズ「二人の初デート場所は?」に対応する僕の最善策「熱川バナナワニ園」をひねり出すことができた。
これでいこう、と思った。
クイズは進み、終わりを迎える。
最善策が披露されることはなかった。
正答とボケを用意させ、しかも披露されず。
末恐ろしいシステムであるが、あの会場に数多の正答とボケが混在していたことを想像すると、宇宙のはじまり的なものすら感じる。
そして、このイベントの余波か。
心にいつも、熱川バナナワニ園。
僕のバナナワニが、外に出たがっているのを今、感じている。
追記
本日まで予約投稿。

タイムと需要その2

昨日からの続き。
わけあって予約投稿。
【あらすじ】
フルマラソンをするときの地面について。
例えば、科学的な何かで「これが走るための地面に最も適した素材です。」というものが示されたとしよう。
※そいつをここでは「ムッ」と呼ぶ。
じゃあフルマラソンをするときは、ムッを町中に撒けばいいかと言えば、それは無理である。
いくらムッがいいかおりであったとしても、自然に消滅するのだとしても。
ムッを用意するにしても、撒くにしても、大変だからだ。
もちろん、競技者が通る道のみに撒く、というのも却下。
競技者は「花びらを道に撒かれる自分」を想像してしまい、マハラジャ気分になってしまう。
よって、ムッはなんとか競技場内に撒かれることとなる。
そして競技者は競技場内をずっと回り続ける。
なんたって、ムッ。
いいタイムが期待できる。
しかし、近いうちにフルマラソンは没落するだろう。
ここが問題で、どれほどいいタイムが出そうだってなんだって、競技場を2時間も走り続けるのは、つまらない。
競技者も面白くない。
そしてそれは、見ていて面白くない。
そういえば、10kmくらいだと競技場内でやることもありそうだ。
おそらくその距離が、競技者飽きリミットではないだろうか。
とにかくこんな理由で、もしムッがあったとしても、フルマラソンは街を走る。
この競技に「走るのにいい地面」の話は、冒涜なのだ。
フルマラソンは、ちゃんといろんなことを考えた競技だった。

タイムと需要その1

人が、もっとも走りやすい地面は、どのような素材だろうか。
走る時間などにもよると思うが、ここでとりあげたいのはフルマラソンである。
昔、どっかの誰かが勝利を報を知らせるために42.195kmの距離を走って死んだ、みたいな話があるために、同じ距離を走らなくてはならなくなった競技だ。
それが「となり町戦争」だったら、町の規模にもよるだろうが、彼は死なずに済んだろうか。
「図書館戦争」が文字通りだったら、彼は死なずに済んだろうか。
フルマラソンは、中継を見る限り、そこらへんの町の中を走っているようだ。
その足元は一面アスファルトだろう。
どうなんだ。
2時間以上も走り続けるのに、アスファルトはベストなのか?。
焼けたアスファルトにチワワを立たせることは、許せない、許さない。
今の文は全く関係ないが、アスファルトがベストではないと言いたい、その気持ちの高ぶりは感じてもらえただろう。
多分ベストじゃないよ、アスファルト。
じゃあ何がよいかと考えてみるが、一長一短なものばかり。
土はでこぼこしていて転んじゃうかもしれないし、草原は転んじゃうかもしれない。
砂場は足を取られて転んじゃうかもしれないし、河原は転んじゃう。
でもフルマラソンで走りやすい云々を考えたときの問題は、実はそこでない。
つづく。