カテゴライズド・アーミー

分けられている。
とにかく色々分けられているのだ。
ブログの種類を見ても、すごくたくさん分かれている。
本も、すごく分かれている。
人も、分かれている。
例えば、映画「三丁目の夕日」くらいの時代の人々を分けてみると、だいたい「ぼうず、おかっぱ、おませ、大人」の4つである。
このカテゴリに属さない三丁目の夕日は、いない。
しかし、現代人はどうだろう。
そこらを歩く一人を解析してみても、
「うーん、オトナじゃないな。でも、ぼうずでもないし・・・。」となる。
それは、夕日時代の人々を分けるような基準で考えてみても、少なくとも「シャツ出し・ゆるネクタイ・胸元見せ・人生の分岐点は175Rを聴いたとき」とかなる。
※「バカリズム・トツギーノ調」に言うと、楽しい(「人生の分岐点は175Rを聴いたとき→175R聴きーの」に言い換えよう)。
そもそも「友達以上恋人未満」などという、よく分からないレベルのものも、そのままひとカテゴリとして存在している現代だ。
こういう曖昧な状態もピックアップされるなら、
「友達以上神未満」という、やたら範囲が広いカテゴリに属する人や、
「友人以上友達未満」という、あぁ友人なんだな、という人も存在することになる。
「カメムシ未満知人未満」という、だいぶ嫌われやすいカテゴリもあるだろうし、
「気になる人以上足ふき以下」という、ある意味すごいツンデレなカテゴリもあるだろう。
それはそれは、たいへんな分かれっぷりなのだ。
※話はそれるが「友達以上恋人未満」という相手がいたなら、ぜひこれからは「友達以上恋人以下」といってあげたいところだ。
少し、いい方へ範囲を広げてあげよう。
あらゆるものがひどく分けられてしまう原因は、彼らを取り巻くモノや文化が増加したことだと思われる。
駅が色々な路線でつながれているように、色々なリンクがあらゆるものに付加され、こんがらがった。
二つとして同じ駅がないように、全ては少しずつ、あるいは大幅に分かれてしまった。
もし、話題の方向性とかセンスがすごく合っていると感じた人(自分と似ている人とは、ちと違う)が現れたら、それはもう曲がり角で待ち伏せしてでも、わざと転んでコーヒーをぶっかけてでも、当たり屋に転職してでも、住民票を偽造してでも、亡命してでも、仲良くなったほうがいい。
あまりに人々は色々な分野で細かく分かれているため、そんな人には滅多に出会えないから。
ちなみに上記の例えでいうと、仲良くしなければならない二人は目黒駅と目白駅、くらいだ。

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