使う頻度の高かった言葉はその歴史の中で、より簡潔に短くなっていったに違いない。
例えば、かに。
おそらく海辺に昔からいておいしい彼らを、我々の祖先がほっておいたはずはない。
昨日捕まえた「波とともに足音なく近づくえもの」がうまかったよ。
当初はこんな名前だっただろう。
要は、説明なのである。
現在我々が認識している名前という概念がなかったため結局、汎用的にかにを示す何かが、なかった。
それゆえにミニ説明なのである。
しかし、人類がかにに触れてから、そこそこの期間はこの長い名前だったが、問題が出てきた。
もちろん「長くない?」ということである。
その、今まで重視されていなかった「名前の長さ」が問題になったのは、おそらく「おい、あそこの「波とともに足音なく近づくえもの」を捕まえろ!!」と言っているあいだに「波とともに足音なく近づくえもの」が逃げてしまったというシーンである。
我々の祖先はこのとき「何かがまずかったせいで、波とともに足音なく近づくえものがとれなかった」ことを猛省し、同時に時間という概念を取得しただろう。
時間がかかればかかるほど、何か起きてしまうのである。
この場合、時間がかかったために、「波とともに足音なく近づくえもの」は遠く遠くに行ってしまった。
足音どうこうなんて関係がなく、波の動きも関係なかった。
ただ、このへんで「じゃあみんなが認識できる言葉で、あいつを表現しよう」という運動に発展したかどうかとなると、少し怪しい。
とりあえず「波とともに足音なく近づくえもの」自体を早く言うことで解決しようとしただろう。
「足音なく近づくえもの」
「足音ないえもの」
「あしおとえもの」
「あえ」
「あれ」の誕生。
「あれ」は「かに」よりもちょい早めの誕生なのである。
カテゴリー: 雑文
隻眼の色気
いま、ミニものもらいができている。
もう少しひどくなったら、眼帯が必要になるだろう。
ところで僕たちは隻眼というものに、妙な魅力あるいは色気のようなものを感じることがある。
実は例が鬼太郎氏と綾波氏くらいしか思いつかないのでごめんなさいなのだが、アニメなどで登場するミステリアスな少女は、たいがい片目が髪の毛で隠れていたりする。
そして海賊や先日も登場した伊達政宗も、単に「眼、怪我しちゃってます」なアイパッチがなんだか魅力的だったりする。
一般的に目は物言う器官らしくて、当然それはより「見えている」方が外見上いいはずだ。
しかし一方で、それが片方隠れていることがナイス、というのは面白いところだ。
母性本能のようなものが生じるのだろうか。
不謹慎かもしれないが、畸形へのあこがれを持っているのだろうか。
後者については、古今問わずいろんな見解が既に提示されているようだ。
それに当ブログではちょっと手に余る内容でもある。
僕が一つ目小僧というものに怒りを感じるのは「お前確実に人を驚かそうとしているだろ」が出過ぎているためだ。
もう上記にある、一種のわびさびなんて、あったもんじゃない。
どうも最初から一つ目という状態では、僕らはいまいち魅力を感じ得ない。
それに「ばあ」とか言って出てきてみろ。
人を驚かすときに「ばあ」って、もう久しすぎる。
ただ、じゃあ他に言うことあるのかと考えると、なかなか難しい。
「わっ」とか「がおー」だろうか。
「ひとつめー」は怖いだろうが、ちょっと驚かせるタイミングを考えると長いか。
「明朝、命もらい受けるー」も怖いだろうが、長い。
「あまり自信ないですけれどー」と言われたらかなり怖いだろうが、これも長い。
驚かすという行為は、一瞬なのである。
彼らの存在意義は、その驚かせる一瞬であることは間違いなさそうだ。
そしてそれは「40年に一度しか花を咲かせない植物」や「100年に一度のご開帳」よりも濃密だ。そしてしょうもない。
そういった意味でも、単眼となってしまった羊が誕生した時点で短命であることを約束されているのは、仕方がないのかもしれない。
・・・今日って何の話だっけ。
追記
一つ目小僧が眼帯をして登場してきたら、なかなかこいつはスジがある、という気になりそうだ。
そんな状態でものにぶつかったり(電柱がベストか)していたら、それは別の魅力、愛着が出てくるだろうし、あるいはそんなそぶりを見せないようなら、結局彼はその単眼で環境を認識しているわけではないことを露呈していることになり、なんやその単眼はやはり驚かせるためだけの機能なんだろと問いただすことができる。
締まらない別れ
中島みゆきの「わかれうた」を聞いてみたところ、気になる歌詞があった。
というか、いきなり冒頭付近なのだが、なにやら「みちに倒れて誰かの名前を、呼び続けたことがありますか」という旨の歌詞。
悲哀である。
しかし、歌というものが持つ風情やおもむきを無視して、考えてみる。
「みちに倒れて誰かの名前を、呼び続けたことがありますか」
恋しい人が去ってしまったのだろうか。
ただ、気になるのがこの場合「去った人、戻りにくい」である。
もし去った人の気持ちが変わり、「もう一度やりなおすか」と心機一転戻ろうとしたとき、「そんなこと」になっていたら。
ミュージカルである。
素通りするしかないような気がする。
そこで「みちに倒れて誰かの名前を、呼び続ける人」にかまってしまったら、周囲に名前がばれてしまうし。
いや、名前がばれるくらいならいい。
相手は倒れているのである。
どうしても「相手を傷つけまくった○○」という構図が、名前を呼び続けられることで生じてしまう。
そこに満を持しての登場と、あいなってしまうのである。
どうしても周囲の目というものを意識せずにはいられないじゃあないですか。
一方、「そんなこと」になっている側にも問題がありそうだ。
「みちに倒れて誰かの名前を、呼び続けてしまう」ことが、愛想を尽かされる要因のひとつであることを認識すべきである。
「みちに倒れて」もだめだし、「呼び続ける」のもだめだ。
ミュージカルすぎる。
さらに、去った人が戻ってきちゃったときのことを考えると、おちおち「みちに倒れて誰かの名前を、呼び続けてしまう」ことなんてできないとも言える。
呼び続けていたら戻ってきた。
「おいおい戻ってきたよ・・・」
内心そう思うことうけあいである。
今回はずいぶんひどい内容。
しかし大丈夫。
「みちに倒れて誰かの名前を、呼び続けてしまう」ことなんてそうそうないから。
そしてこれを頭の中でやる分には一向にかまわないことだってのは、多少心得ているから。
エアーズの攻防
今テレビでやっていた、高所での人間模様が目についた。
簡単だ。
高所が得意な人と、苦手な人の模様である。
超苦手ではないが、確実に得意ではない僕の見解からすると、高所の苦手な人が見せる動向に、他意はない。
いかにして高所から逃げるか、下に下がっていくことを望むか。
これだけである。
一方の得意側の動向は、ちょっと変な気がする。
高いところで優位なことといったら、僕は景色しか思いつかない。
ところが、特にテレビだからだろうか、高所得意側には「高所苦手側に対する、得意側としての誇り」みたいなものが見え隠れするのである。
ジャンプしその場所を揺らす。
必要以上に下を覗き込む。
手すりによりかかる。
これらの「やんちゃ行為」は実は、得意不得意にかかる行為ではない。
しかし得意側には不得意側に対する誇りがあるため、やってしまうのだ。
小銭を探している。
近所の人が歩いている。
展望台の手すりに、金箔がついている。
こういう理由があれば、誇りどうこうに関わらず得意側、不得意側ともに先ほどの「やんちゃ行為」に理解が示せるはずだ。
しかしそんな理由はないため、片や誇り、片や理解不能なやんちゃ行為として、互いの溝を深める要因となってしまう。
高所において、彼らが本当の意味で手をつなぎ合うことはないのである。
猿
このあいだ、ねこが出るなどと書いていたわけですが、これから僕はねこを探しに行かなくてはなりません。
キキはおそらく数ヶ月であろうノラ期を経て、連れてこられたとき「シャムネコじゃね?」と言われていたが大きくなるにつれて明らかにシャムではなさそうな模様の出てきた、いじめがいのある雄ねこだ。
その生い立ち、どうにもいじめやすい上目遣いが災いし、少々気の小さいねこになってしまった。
そいつが、ひっくり返りながらも窓を開け、脱出をはかるのである。
それほど我が家がいやなのだろうか。
いやならいいさ。
出て行くがいいさ。
お前よりもかわいいねこはたくさんいるんだ。
知っているか、こねこって。え?。
とはいえ探さない訳にはいかない。
小声ながらも名前を呼びながらそこらを徘徊せねばならない。
ききい
ききい
僕はねこを探しているのです。
笑っていられるのも今のうち。
足下でうねっている電源ケーブルのたぐいをみるたびに、なんで全部黒い色なんだろうと思う。
カラフルにしておけば、それぞれ線を抜くときなど区別をしたいとき、かなり便利だと思うのだが、まあなんらかの理由で黒いのだろう。
例えば、安いとか、リーズナブルとか、だ。
今日、掃除をしました。
部屋が汚かったのです。
節分のときの豆があるのです。
そして今、節分の豆はきちんと袋に集められて、本棚に飾られています。
何かの拍子でその袋が倒れたりしたら、開封な口から瞬く間に大豆たちが飛び出してくるという、リスクのある収納方法です。
ただ、ずいぶん昔のものだというのに、それらはねばねばすることもなく、なかなかどうして清潔感のある乾燥系です。
来年で使用したら、より鬼を防ぐ力がありそうではありませんか。
上がり具合
今マラソンの実況中継みたいなのを聞いていたのだが、なかなか面白い。
「あごが上がってきた」
「腕のふりがまだまだいい」
そうですか、という感じだ。
ただ、実況をするにおいて、マラソン的なものが他のスポーツとだいぶ異なるのは「決定的な何かがおこらない」という点だと思う。
例えば野球なら、ヒットやら点が入ったやらアウトやらを中継する最優先項目にするべきだ。
なぜなら、それは試合の結果を左右する決定的な事項になりかねないから。
サッカーもそう。
パスが通ったならそれを伝えるべきだし、シュートを放ったことも言うべきだ。
これはボクシングでも、テニスでも、たいていのスポーツで同じ。
決定的なことが適度に起こるのである。
三振をしたとき、「スイングはすごくいい」といわれても、え、それよりもさあ、という感じである。
仲間選手にパスをしたとき、「○○選手、足のすじが伸びてきました」などを実況しても、聞いているほうは困ってしまうのである。
マラソンにとって決定的なこととは何か。
それはゴールの瞬間と、選手の過去の戦歴くらいなのだ。
だから間があるときは、選手の今の状況を実況するか、沿道の声援について触れるくらいしかないわけだ。
しかしこの考え方は、マラソンを知らん人間特有のものだろう。
知っている人からすれば、選手の疲れ推移がわかってくることで、結果がおのずと推測できるのである。
僕だって少しは知っている。
走って疲れてくると、首で頭の重さをやりくりするのすらめんどうくさくなってくる。
腕も振りたくなくなってくる。
たしかに、マラソンでも逐次、決定的なことが起きているのである。
ただ、それがどうにもわかりにくいところであることは否めない。
よって、あごが上がってきたときは、その選手のあごが下がっていたときの映像をあわせて出していただきたいところ。
空書の春
人が何かを思い出そうとするとき。
例えばある漢字について、だ。
そのとき手でその字を書く「しぐさ」をすることがある。
これを「空書」というそうだ。
なかなかに夢広がる動作と名前と言えそうだが、ここでは「いい空書、わるい空書」について考えてみる。
まず思いつくのが「やたら画数が多い漢字」に対する空書だ。
これはぜひ空書プレイヤーの前に陣取って観察したいところ。
お祓いやってるみたいに見えるはずで、いい空書である。
「あれ、お祓いですか?」
「いや、暇という字です」
食い気味で回答したいところである。
一方、わるい空書として「一画一画、迷っている」が知られている。
やり直しなぞいくらでもできるのだから、とりあえずすらすら書いてみるべきなのだ。
それを迷いながらやってしまう。
そして前に書いた部分を忘れてしまったりするのだ。
そう、空書は、書いた部分は自分にしか「見えない」のである。
また、ケーシー高峰のホワイトボード空書が有名だが、あれも実は本当に書いちゃってる点で、わるい空書である。
そして話は変わるが、「白衣の人がホワイトボードに何か書く」シーンにおいては、「いいケーシー高峰」と「わるいケーシー高峰」の存在が生ずる。
「いいケーシー高峰」・・・ケーシー高峰
「わるいケーシー高峰」・・・ちゃんとしたことを書く
飽いたので以上。
ほじり
「出てます6億円」
「キャリーオーバー66億円発生中」
こういった旨が並列で記載されているくじの広告に何も感じないわけではないが、最近なにやら鼻孔の内側に傷があるらしく、そのかさぶたが気になって仕方がない。
気にするといっても指を突っ込んでは、それは鼻ほじりになってしまうため、なんとなく日々生活において鼻孔内側を意識するという、どうやったらいいのかよくわからない状態で、いま。
それにしても「ほじる」という言葉は、よくもまあ「ほじる動作」をうまく体現したものだなあと思う。
「ほじる行動」を見て、最初に「あれ、ほじるって動詞で表そうぜ」と言ったやつはかなりいいセンスの持ち主である。
これが例えば「さらら」とかだったら、もう全然「ほじる」のあらっぽさ、生々しさが表現できていない。
「鼻さららしてたら、血が出てきたよ」
鼻さららなんかで、血が出るかよ!!と怒りたくすらなる。
ところで今、なんとなく思ったのだが、耳掃除はあるのに鼻掃除が、少なくとも言葉としてほとんど聞かないのはなぜなのだろうか。
ということを考えたとき、それは耳よりも鼻の方が「人間の動物じみた部分」だからではないか、と思った。
まず、粘性の液体が出る出ないという差があるでしょ。
もういいか。
どうやら「人間の、動物じみた部分」を「掃除」どうこう言うのは、なんだか人に他意を感じさせやすいのである。
となると、「鼻も掃除したよ」というクリアランス宣言を行いたい場合はどうすればよいのだろうか。
ここはひとつ、鼻さららでいかがでしょうか。
記憶と新人劇団員
恩田陸の文庫本を読んでいたら、何箇所かにデジャヴという言葉があった。
恩田陸はデジャヴが好きである。
そうかどうかは分からないが、ちょっと考えてみると「デジャヴが嫌いな人」というのはいなさそうなことに気づく。
「うわこれ、何かどこかでおんなじことをやった感じがする・・・。きもっ、死にたっ」
あまり聞かない。
どちらかというと、デジャヴな感覚はみんな好きだろう。
なにせデジャヴな感覚に陥った人は、確実に「もうやったことある感じがする?」と身近な人に報告してしまうくらいだから。
報告することだったら「私、ついに便意を自在にコントロールできるようになりました」など、他にもあるだろうに、それを抑えてデジャヴのことを報告してしまうのである。
それはどうやら、楽しいことらしい。
ところでデジャヴは既視感と訳されるようで、その反対、未視感というものがある。
それは「見慣れていたものが全然知らんものに見える」ということらしく、ジャメヴというそうだ。
デジャヴもなかなかだが、ジャメヴは、いいね。
敵1グループを毒状態にしそうな感じだ。
それに意味が、幼なじみへの恋愛フラグみたいでもある。
この、幼なじみ1グループを魅了状態にしそうなジャメヴ。
少し違うかもしれないが、多少なりともそんな気持ちにさせる事柄を経験した人は多いだろう。
僕はよく、そこらでひっくり返っている飼い猫に対して「あれ、お前だれ?」みたいな動作をしてみる。
「お前、どこの猫?」
はっと気づいたかのような動きをし、猫の様子をうかがってみるのだ。
そうすると、猫も大したもので、なんとなく雰囲気を把握するらしく、さっと緊張状態になり「え、私のこと見覚えありません?」みたいな感じでこちらをうかがい返す。
こんなことをよくやられては、猫としては「あれこの人、前も忘れちゃってなかった!?」という感じだろう。
かわいそうである。
ちなみに、このやり取りから生まれたことわざが、あの有名な「ジャメヴのデジャヴ返し」である。
この文はいらないか。