ヤツメウナギをご存知だろうか。
とかいって僕もあまりよく知らない。
見た目気持ち悪いから。
確か、ほぼうなぎだが種類は違って、えらの穴がちょうど目の後ろに幾つか目立って見え、それが目を含めると8こ。
だから八つ目、だった気がする。
彼ら円口類はその名の通り、吸盤みたいに丸い口を持っており、他の魚などに口で引っ付き、血をすするという、人間社会ではあまりほめられない摂食方法をとる。
先日書いたように、ヤツメウナギの鼻の穴に相当する器官はひとつなのだそうだ。
ここに、和名をつけた学者の葛藤が目に見える。
「ヤツメウナギなのか、ヒトツハナノアナウナギなのか、にゅるりん棒なのか」
結果、ヤツメウナギにはなってしまったが、僕としては「ひとつ屋根の下うなぎ」が気になる。
え、そんなもの挙げられていないって?。
本当?。
おかしいなあ。
カテゴリー: 雑文
末期のケア
こう、ポテトチップスの袋を持ち上げて、最後のかけらの山をざざーっと食べようとするとき、何かしらの罪悪感を持つべきなのだろうか。
と、もちろんここで感じるべき罪悪感というのは、なんとなく誰しも分かってしまうものだと思う。
なので、どんな罪悪感なのか、近いものを次の3つの中から探してみることにする。
1.電車の座席に座ったとき、その空席が目的だったらしいおばさんが当てもなく通り過ぎるさまを見たときの罪悪感。
2.じゃんけんで負けた罰として、大往生間近の人に水とブレスケアを与えたときの罪悪感。
3.自動販売機の小銭が出る箇所に熟した柿を目一杯詰め込んだときの罪悪感。
1がやや近くて、2が人間としてだめで、3は普通かな。
電池その2
昨日からのつづき。
【あらすじ】
電池に何をすると、少しくらいは復活するのだろうか。
=====
1.神棚に置く。
2.モーツアルトを聴かせる。
3.遺影の前に供える。
4.先端のぽっちだけだして、土に埋めてみる。
5.人差し指と親指でつまみながら、激しい運動をする。
これで行こうと思っていた。
5番なんて、「逆につまんだらむしろ運動するためのエネルギーをもらってしまうので注意」みたいに書けるし。
しかし、寒くて手がかじかんできた。
手がかじかむと、まず困るのが格ゲーのコマンドの精度が落ちることだ。
ごめんあまり困らない。
やらなければいいのだ。
6.新品の電池と混ぜておく。
7.似顔絵を描いてあげる。
8.水の入ったコップの上に縛りあげておく。
9.下敷きと下敷きのあいだでころころさせる。
10.弱火で軽くいためる。
こんなのもあるなと思っていた。
8番なんて、理科の実験みたいに書けるし。
それにしても寒い。
11.水の入ったコップの上に縛りあげてある状態の、絵を描いてあげる。
電池のやつって、何考えてんのか分かんないのな!!。
電池その1
ワイヤレスマウスの電池が少なくなってきた。
さっそく単三電池を探してみると、見事にない。
今このとき、電池がなくなったらマウスは言う事聞かず机上に見えない弧を描き、パソコンは反省エネの筆頭となる。
電池、電池が必要だ。
ところで、この世に生を受けたほとんどの人がおのおのの「電池がなくなったときの応急処置法」を持っていると思う。
いわゆるその場凌ぎ。
ただし、その有効性は定かではないがうまくいった、あるいはうまくいったと誰かから聞いたわけで、あまりないがしろにもできないだろう、その民間療法。
有名なところで言うと「あたためる」「冷やす」などの温度療法だろうか。
全然調べないで書いている。
この療法の優れているところは、その場で手軽に試せるところだ。
なんたって、電池はそこらにないのである。
手軽なのがいい。
また、この方法を試すために電池を取り外すことも重要だろう。
ただ取り外すだけでも効果がありそうだし、単に接触不良だった場合なら、この外す行為自体が絶大な効果をもたらすはずだから。
接触不良系の療法と言えば「電池をくるくる回す」も外せない。
電池をセットしたまま、くるくる回すのである。
これもだめでもともと、お手軽お試しがいい感じだ。
これで少しの間でも動いてくれればいいのである。
長時間放置。
一見「買いにいったほうが・・・」という気もするが、実はみんなやったことあるはずだ。
そう、「前に切れた電池をあてがってみる」だ。
それはだいぶ放置した電池に違いなく、またそれで動いてしまったりするものだから、電池がなかなか捨てられないという文化も生まれそうである。
電池を捨てられず、繰り返し繰り返し交互に切れた電池を使い続けた結果、単三電池が単四電池になってしまったという話もなくはなく、この単四電池のくだりはまず話として誰にも言わないな、という感じ。
ということで我がマウスの電池が切れて久しい。
どうしよう。
次回、こうしてみたらまた電池復活するんじゃね?
スープ割り
美容室に行ったあと、近くの大勝軒に行くのが通例となっている。
つけめんがおいしい。
そのつけめんについて気になるのが「スープ割り」と呼ばれるシステムだ。
つけめんがメニューにあるお店などでは、たまに貼り紙などで「スープ割りできます」と書いてあるのだが、実のところどういうことをしてくれるのか、全然知らない。
頼んだ事がないのである。
僕が考えている「スープ割り」は以下のとおりだ。
1.麺をつけまくったために薄くなったつけじるの濃さを戻すため、つけじるのもとみたいなものを入れてくれるサービス。
2.食べ終わったあと、残ったつけじるをおいしく飲むためにお湯を入れてくれるサービス。
3.つけじるを残した分、料金から割り引いてくれるサービス。
正直3は捻出なわけだが、1なのか2なのかは、知らない。
ならば試せばいいのだが、どちらかが分からないと、どのタイミングで「スープ割り」を所望すればいいのかが難しいのだ。
1を想定して「スープ割り」を頼んで、実は2なら、まだ麺を残した状態でつけじるがうすうすになってしまう。
一方、2を想定しての注文で実は1なら、スープ割りを注文したにもかかわらず、それにタッチする事なく店を出なくてはならないだろう。
インスタントラーメン発売当初の様相をつけじるで試みる事は、なんだか「スーパーサイズ・ミー」だ。
というわけで結局のところ、スープ割りはいまだ試せてない。
悔しいので、麺を食べ終わるのと同時につけじるもなくなる配分で食べようかと考えているが、これまたどうも「スーパーサイズ・ミー」くさくて、どうも。
カサつく。
最近、はだがかさかさしてしようがなく、風呂上がりにスキンクリームを全身に塗る事にした。
ニベアクリームには「さらさらタイプ」と「しっとりタイプ」があるが、うちにあるのは「さらさらタイプ」で、ある意味今はさらさらで、今後しっとりさせたい派の僕としてはその力量が気になるところであったが、使用してみようか。
僕は小さい頃からクリームを顔に塗るのが嫌いだった。
とにかくべたべたするのが気に食わない。
しかし今、そんなことを言っていられないかさかさ感で、一部ひりひりするところもある。
「さらさらタイプ」は「しっとりタイプ」との比較ができないためか、そこそこべたべた感じる。
せっかく風呂に入ってさっぱりなのになと、とざんねん。
翌日、いまいちだった。
いちおうましではあったが、期待したほどの効果は見られなかった。
毎日使用するといいのかもしれないが、早々に見切りをつけた僕が次に考えたのが「ベビーオイル」だ。
商品を外見でしか見た事ないが、あのオイルっぷりはどうだ。
すごいじゃないか。
早速購入してきて使用してみたところ、そのぎとぎとがすごい。
不快感はニベアの上を行くが、かさかさには勝てない。
これを塗って寝てしまえば、翌日はにぎるとちゅるんってなるくらい、になっているはずだ。
<インターミッション>
本文中の4文字的のなやつを使った「ニベアタイプ」の考察
「かさかさタイプ」
ニベアを所持していないひと全般に見られる、デフォルトタイプ。
「さらさらタイプ」
本文参照。
「しっとりタイプ」
本文参照。
「べたべたタイプ」
商品イメージよりも、かさかさになやむ客のニーズを優先したタイプ。
「ひりひりタイプ」
鍵をかけて保管しなければならない試薬の一部に見られるタイプで、ニベアでない。
「そこそこタイプ」
商品の性能に自信はあるが、謙虚に振る舞うタイプ。
「せっかくタイプ」
鍵をかけて保管しなければならない試薬の一部に見られるタイプで、ニベアでない。
「さっぱりタイプ」
しっとりタイプを塗ったあと、その気持ち悪さに我慢しきれず、手を洗ってしまった感じのタイプ。
「ざんねんタイプ」
鍵をかけて保管しなければならない試薬の一部に見られるタイプで、ニベアでない。
「いまいちタイプ」
新商品として開発したが、試行上いまいちだったタイミングで商品化してみたタイプ。
「いちおうタイプ」
合コンで目をひく男性がいなかった女性陣が一斉トイレにて口々にする、主催者のことを慮ったタイプ。
「ぎとぎとタイプ」
チャーハンを作ったあとの、メガネの表面がよくなっているタイプ。
「ちゅるんタイプ」
なにげにこういう商品名だと結構売れるんじゃない?というタイプ。
</インターミッション>
翌日、かぶれてた。
繰り返しの理由
昨日からのつづき。
【あらすじ】
人が言葉を繰り返しているときとは。
=====
例えば前から歩いてきた人が「駐車料金駐車料金駐車料金」と口にしていたら、それはいったいなんなのだろうか。
僕は、人がなんか言葉を繰り返していたとき、それは以下の理由があると思う。
少しの間そのことを忘れないようにする。
なんらかの主張をしている。
歌詞にそうある。
何かの確認。
少しの間そのことを忘れないようにする。
お店に入ったとき、「仏花仏花仏花」と言っている人がいたとしたら、必ずその人は「仏花」を買おうと思っているが忘れそうだ、という人である。
なんらかの主張をしている。
先日も少し触れたが、子供が「ベイブレードベイブレードベイブレード」と叫んでいた場合、それはベイブレードが欲しいという主張と考えて間違いない。
これがもし「少しの間そのことを忘れないようにする」ためだとしたら、その子供は気を緩めるとベイブレードのことを忘れてしまうらしく、だったら忘れてしまえばいいと思うくらいだから、たぶん違う。
歌詞にそうある。
ヤーヤーヤーやららら、チューチュートレインのチューチューはこれにあたり、カテゴリ分けされているように「忘れそうだから口に出しておく」とか「主張」とかとはちょっと違う。
どれも忘れて問題ないものばかりだ。
一方で主張ともとらえられない。
夢で死んだおじいちゃんが賢明に「ヤーヤーヤー」と言っていたらどうだろうか。
それで「お盆のときにはおはぎをお供えしてくれ」ということにでもなるのだろうか。
とりあえず僕がそういった旨の夢を見てしまったら、間髪入れずに「成仏してくれ」と願うだろう。
「お盆のときにはおはぎをお供えしてくれ」
↓
「成仏してくれ」
悲しいことである。
歌詞をそうとらえてはいけないわけだ。
何かの確認。
「鍵鍵鍵」と人が言うとき、それは鍵を探しているか、相手に鍵をかけたかどうか確認を促すシチュエーションである。
あるいは「お化けお化けお化け」はお化けを見た人が恐怖に震えながら発する事で有名だが、それは恐怖と同時にどうにかして相手にそれを伝えようとしているとも言え、内容を確認しているとも言える。
冒頭の「駐車料金駐車料金駐車料金」は、おそらく忘れないように、か確認だろう。
ぎりぎり「駐車料金を毎月手渡しにするくらいなら、銀行から直接経由すればいいじゃないか」という主張ととらえる事もできなくはない。
難しいのが歌詞である。
駐車料金と連呼する歌。
インディーズというものを良く知らないが、インディーズだろうか。
銭ゲバを良く知らないが、銭ゲバの主題歌だろうか。
銭ゲバだと考えると最後のカテゴリ、恐怖とその事実の確認ともとらえられそうだが、いかんせん銭ゲバを良く知らないもので、それが「駐車料金を払えないことで頭を抱えて冷や汗をかく」ような漫画かがわからず。
繰り返し
「トラトラトラ」と聞いてまず最初に感じるのは、歴史上使用されたシーンやその意味合いではない。
繰り返しているな、という感じだ。
他にもこのような「繰り返し」はなかっただろうか。
今思いつくのがなつかし「カメラカメラカメラ」で、カメラ欲しさにだだをこねる子供のようだが、確かフリッパーズギター。
例が少なくて申し訳ないが、とにかく印象には残りやすい「繰り返し」。
だから、記録には残っていないが昔からこのような言葉は生まれてきていたのではないだろうか。
「本能寺本能寺本能寺」
例の事件が起きて数年は、そのことはこう言われていただろう。
「本能寺で誰かが変を起こしたので、慌てて向かっていった武士の様子から、本能寺本能寺本能寺という言葉は生まれた。それ以来、本能寺の変を表す言葉として現在に至っている。」
悪しき介入のせいか、残念ながら現在には至っていないが、まああっただろう「本能寺本能寺本能寺」。
とりあえず「変変変」でなくてよかった。
「熱熱熱」
これは昔からあってかつ今でも残っている、希有な「繰り返し」だ。
何も言わなくても理解されるほどに、誰しも知って、使ってきた事のある言葉。
そして「繰り返し」言葉の持つ貫通力がはんぱない。
「熱熱熱」
みんな何が起きているのかがわかる。
そして鍋敷きを探しにいくのだ。
さて、話はちょい変わるが人が「繰り返し言葉」を口にするのは、どんな理由があってなのだろうか。
今のところ思いつく事。
少しの間そのことを忘れないようにするため
主張
歌詞
確認
うーん話広がらなさそ。
次回。
わるいやつ
こないだ考えた「外人さんに教えたいギャグ」というものに、こういうのがある。
「ワタシノ コドモハ ヒザコゾウデス」
しかし周りに手軽な外人さんはいない。
ここで誤解されたくないのが、このギャグを「ある異国の母国語使用から出る排他的劣等感を笑おう」というものでは決してないというところだ。そして僕は何を言っているのか。
まあとにかく、決してない。
正直なところ、僕が「ワタシノ コドモハ ヒザコゾウデス」という外国人に出会ったら、その頭の良さとセンスにおののき失禁するだろう。
それは明らかに演出だ。
例えば日本なら「日本語をそんな風にずらして話す外国人、という自分」をこの外国人は演出しているのだ。
すごい。
脱糞ものだ。
そしてひじを指差したりしてしまうのである。
もう、いたれりつくせりである。
この外人さんは、目の前の日本人に対して最高のおもてなしをしているのである。
ああ、失禁と脱糞が一緒に来てしまったとき、それをなんと表現するべきなのだろうか。
なんとなく「失糞禁脱」とすると、なんだか聖人だか70年代アイドル的な感じをもよおすが、また「もよおす」ってのがどうも。
ここでは「失禁と脱糞が一緒に来てしまったとき」のことを「自由」としよう。
ひじを指差す外国人のまえで、僕は自由だ。
僕は何を言っているのか。
今日は何を言っているのかと思うことが、ひたすら多い。
おおみそか
来年も、よい年でありますように。