猛攻の善意

意外と思われる方もいらっしゃるかもしれないが、実はほとんどの人に悪い者はおらず、むしろいい者である。
何がといわれると困るが、とにかくいいんである。
しかし、いい者ばかりであるがゆえ。
ぐいぐい来る善意に困ったことはないだろうか。
いわゆる「おせっかい」だ。
集団所属欲求なのだろうか。
少々余ることが予想されるくらい、大量の熟したトマトをくれたりする。
実は当方熟したトマトを大量にもらったことはないのだが、かなり困るのではないか。
熟したトマトは、歯肉炎か何かのCMに抜擢されていたような気がする。
もう、それは大変なことになっているし、これからなるのである。
もちろんトマト以外にも、色々なおせっかいパターンがあるだろう。
・必要以上に電車内の座席をすすめる
・近づくと呼吸を浅くする
・うちわで扇ぐ際、周り分も考慮したハイパワー
・相手の机に貼った付箋が気づかれなくてはまずいと、その付箋のまわりにさらなる付箋コーティング
・なぞかけで困っている者に、鼻歌にのせた解答の歌詞
実は当方最初のひとつくらいしか経験がないが、まあこういうことだ。
ところで気になることが。
この「おせっかい」というものは、人間にしか見られないものなのだろうか。
けっこう高等な行動な気もするが、ヒトに近い霊長類なんかはどうなのだろうか。
例えば「シラミが全くついていないので毛づくろいをしてもらえないサルに、自分のシラミをつけてあげるニホンザル」
ちょい遠目の近縁でアプローチしてみたが、こんなことがあってもいいじゃないか。
明日、つづけてみる。

豚足の鮮度

子どもたちが一般的なスーパーに対して重視している点は、おもちゃ菓子コーナーの品揃えなどではなく、実は「変な食材がどれほどあるか」なのである。
例えば鮮魚コーナーに「生きたどじょう」がときどきあるというだけで、子どもたちはそのスーパーに行くたび、鮮魚コーナーへ向かい、その確認を行うだろう。
もちろんそれは対象の生死が関係しているわけではなく、どちらかというと「これ食うか?」という興味によるところが大きい。
子供の頃、近所のスーパーに、イナゴの佃煮が入荷されていたことを思い出す。
あまりに平然と、ただ当たり前だが、田作りとかと同等に扱われていた。
しかも見た目は「田作り≒佃煮」なので、イナゴだと気づいたときは衝撃だった。
それからというもの、そこに行くたびに「イナゴの佃煮」があるかを確かめずにはいられなくなった。
買う勇気はない。
しかしそれを見るたびに「人間これ食うか?」という気分になったものだ。
誰しもそうだろうが、この傾向は大人になろうが少なからずある。
うわー豚足まるみえだよ。
爪の先がビニールやぶいちゃってるよ。
鳥が一羽丸ごと冷凍されているよ。
色のついた包装紙でコーティングされているけど、むしろそのいびつな形状がイメージを増させるよ。
もう、人間のある一部分みたいな形状のものがはみ出ちゃってる、貝だよ。
なんだかグロいよ。
こういったものは、怖いもの見たさとでもいうのか。
見るためにはるか遠方(例:野菜コーナー)から来る人もいる。
私達は、日ごろ既に整形されてしまっている食材しか触れていない。
この行動は、食材本来の形、すなわち狩猟成功直後に得られるべき姿を確認したいという本能を満たすための行動なのではないだろうか。
そしてその行動と現実の整形食材のあいだに「これ食うか?」感が存在している。
そんな気もするが、こんなことを言いたいブログではない。
結論
土のついた大根はいいが、土のついた豚足はいやだ。

三つ編み

三つ編みというものが気になった。
その象徴たるものもさることながら、何よりも「なぜ編みこんでしまったのか」。
そこだ。
残念ながらやったことはないのだが、結構手間のかかるものなのではないか、三つ編み。
しかも、かなり持ちやすく、その人を捕らえることが容易になる。
髪がばさりとまとまらないのは、じゃまくさいのだろうか。
しかしそれなら、適度に切り落としてしまえばよさそうだ。
ただ、いつの時代でも長い髪は尊重される。
切るのはもったいないなあ、ということなのかもしれない。
それにしてもの編みこみである。
まとめる方法は他にもあっただろうに。
また、突然「髪じゃま!!。編みこも!!」と発想する人はちょっと考えにくい。
以上より、何か特別なことが起きて初めての「三つ編み」が誕生。
それが急速に広まったのだろう。
思うに「ねぐせ」があやしい。
その「三つ編み」の創造者たる彼氏彼女は「ねぞうが悪く、髪長く」だった。
そして一晩の間に「三つ編み」もしくは「三つ編みに準ずるもの」を自分の体で紡いでしまったのである。
髪を編みこむんだから、おそらく寝返りをうつようなものではなく、体をくねらせるねぞうタイプだったと推測される。
しかも彼氏彼女は「いさぎよく」でもあった。
大変なことになっている頭のまま、外をうろうろしたのである。
おおらかである。
そしてその姿が神々しく、しかも髪まとまってるがうわさとなり、現代にかなり近い「三つ編み」が誕生、現在にいたるんだと思う思わないけど。
結論
三つ編み = 現代社会における行き場のないストレス + 肉体をキャンパスとしたアート のコラボ。
次回
「三つ編みに何を編みこんだら、いいか」

甘口

そこのカレー屋では辛さを調節できるらしく、「甘口 +20円」とメニューにあった。
僕は勘違いしていた。
カレーの辛さというものは、最初に甘口を作っておいて、そこに辛さを足していくことで成り立っていると思っていたのだが、そうでないんだもの、これ。
辛いやつに何か、20円相当のものを加えて、甘口にするやり方もあるのだと始めて知った。
ここで疑問となるのは「ものを辛くするのは簡単そうだが、甘口にするのは難しそうだ」という点。
一般的に「辛い」というのは、「これ辛いぞ、食ってもいいのか?」を発信するくらいだから、健康や生命に関する要因としてかなり重視されている。
一方の「甘口」は、そういった緊急性の高い面は持ち合わせていない。
「甘辛い」ものを「辛い」と表現できるが、普通「甘い」とは表現できない。
甘辛いものを口に含もうとする人に対して「それ辛いよ」というと、それを食べた相手は納得するだろう。
しかし「それ甘いよ」というと、まず相手は「辛いじゃん!!」と指摘するのである。
インパクトとしては、どうしても「辛さ」のほうが「甘口」より上なのだ。
そうなると20円相当の何かが気になるところである。
「全くカレーの感じがせずやたら甘いが、あとあじがなんとなく辛い」
これでは「甘口」とは言えない。
どうにも「ハチミツ」などの甘さでは、最初は甘いだろうが辛さを封殺することはできなさそうである。
何かミラクルフルーツ的な、味蕾か何かに作用するものがあるのだろうか。
ある生物は味蕾に相当する器官が体中にあるらしいが、全身にからしを塗ってあげたあと、ミラクルフルーツ的な何かを入れてあげると、もう「んー!!」ってなるのだろうか。
ごめんこれ違う。
20円相当のものだった。
まあここはひとつ「甘口のカレーを温める手間」みたいなものと、しておきますか先輩。

精魂

精魂こめて作るというのは、たいていいい意味だ。
しかし、世の中には「精魂こめて作ってはいけない」ものもあると思う。
●あらびきソーセージ
もちろん「精魂こめて、あらびきソーセージを作りました」で、いかに手をかけたか、おいしそうかが「精魂」で十分に表現できている。
しかし何%かはこう感じないだろうか。
「あらびきじゃなくなっている気がする」
「もうムース状なんじゃないだろうか」
少々手を抜いたような、あるいはあらくれた感じのようなものを「あらびき」に求める人なら、「精魂こめて作ったあらびきソーセージ」は油断ならない食材になっているのかもしれない。
●土のう
これだって「精魂こめて作った土のう」で、何か普通の土のう以上の効果を生み出しそうな気もする。
しかしなんといっても「精魂こめる時間があるのか」という点が気になる。
土のうが必要なとき。
それは時として迅速な対応に用いられるため、十分な設計(?)はもちろんだが、精魂まではこめないほうがいいんじゃないか。
何か別のところにこめたほうがいいんじゃないかという気にもさせる。
●ウェディングケーキ
異論あるかもしれない。
実際、精魂こめて作られないほうが困る。
でも考えてもらいたい。
「精魂こめて作ったウェディングケーキ」
ちょっと最初の共同作業の対象にしにくく、要は切りづらい。
司会の人も気を使って、必ず言いそうである「切るのはもったいないですが・・・」。
●わら人形
コメントなし。

F・I

第一印象から始まってある程度その人の「目安」が決まるまで、おおよそ三段のステップがあることは、よく知られていることである。
?
神経質で慇懃な感じ

ときどきおもしろげなことを言う

よく分からない
?
背が低い

一人で夜空を見上げていそう

一人で夜空を見上げてはいなかった
それぞれ、人から聞いた僕の「印象変遷」をまとめてみた。
?を自分ながらに解析してみると。
神経質で慇懃な感じ
これはおそらくめがねが起因しているのではと考える。
僕はよくめがねをかけているのだ。
ときどきおもしろげなことを言う
僕としてはたいがいおもしろげなことを言っていたつもりだったのだが、どうやらときどきなのである。
よく分からない
難しいところである。
?だと、
背が低い
事実背が低いのでしかたない。
一人で夜空を見上げていそう
何があってこういう印象を持たれたのか、未だに分からない。
一人で夜空を見上げてはいなかった
判明してなによりである。
今回は、別に自分を卑下する目的ではなく、なんだかんだ言って第一印象は外見が多いという点が重要である。
かなりもっともな話であるが。
ところでそうなると、例えばこのような印象変遷があったらどうだろう。
一人で夜空を見上げていそう

一人で夜空を見上げてはいなかった

背が低い
?の変遷が変わっただけだが、かなり問題ではないか。
背の低さに気づくの、遅すぎである。
そして実際に背が低いことが最終印象であるなら、ちょっとショック大きそうだ。
しかも、外見である「背が低い」にも勝る第一印象「一人で夜空を見上げていそう」である。
宮沢賢治か。
いや、宮沢賢治がいつも「一人で夜空を見上げてた」かどうかは知らないが、そうも言いたくなる印象ではないか。
ウルトラマンか。
いや、ウルトラマンがいつも「自分の住んでいた星に思い馳せていた」かどうかは知らないが、そうも言いたくなる印象ではないか。
星占術か。
いや、星占術が「夜空を見上げる仕事」かどうかは知らないが、そうも言いたくなる印象ではないか。
このように考えると、第一印象というのは結局最終的な印象をも左右するものである気がするのである。
次回
こんな「印象変遷」を相手に植え付けたなら、おまえすごいよの回。

漬ける。

日頃より「ハブ酒」「マムシ酒」「ムカデ酒」のようなカテゴリのものが、気になってはいなかった。
昔なら、タンパク源に乏しかった地域であった風習だったのかもしれないが、今ではそんなこともあるまい。
となると、その存在意義は「昔からの一連の流れ」「劇的な効果」「見た目のうわー感」のいづれかではないか。
そんな気がする。
「昔からの一連の流れ」
冬などに、食事情がかなり厳しくなった地域があった。
そこでは冬になる前、食べられるものなら虫から毒キノコからなんもかんも集め、塩蔵したという。
昔の話ではあるが、食で苦労したことのある場合、その文化が根強く生き続けることは十分に考えられることである。
そんな感じのある種の人たちは、とにかく何か漬けたい衝動に駆られるのである。
もう、ぽいぽい漬けるのである。
どうも酒漬けにされるのは毒を持った生き物のようだ。
酒が毒を消すのだろうか。
それとも単に、それらがおいしかっただけなのだろうか。
「劇的な効果」
代替がないほど、これらの酒には劇的な、RPG的な効果が得られるから、人々はそれらを酒に漬けるのではないだろうか。
体があったまるとかではない。
中年だがまた背が伸び始めたとか、かなり驚くべきことでなければ、わざわざこんなことはしないだろう。
ハブやマムシなど、漬けたやつの毒に強くなったりするのだろうか。
しかし一般的にそいつらはコンビニなどに生息していない。
彼らの毒を恐れなければならないシーンは、おそらく彼らを捕らえようとするところであって、なんだか本末転倒。
滋養強壮にいいのだろうか。
となると、私達はどんなことで「滋養強壮によかった?」と感じればいいのだろうか。
興味は尽きない。
「見た目のうわー感」
これが一番の存在意義ではないかと考えている。
すなわち「どうだい、俺こんなもの飲むんだぜ。大したもんだろ」である。
度胸。
昔は重宝がられたこの言葉も、今ではなかなかお目にかかれず、自体も大抵重んじられない。
己が度胸をかかげるため、彼はヘビを酒に漬け、飲むのだろうか。
そうだ。
この手のお酒を飲んでいるおっさんの奥さんは、どうしているだろう。
自慢げなおっさんの横で「やれやれめんどくさ」だったら、おそらく確定である。
次回
気になるところ
漬けたはいいけど、結局のところ何がにじみ出てんの?

鼻が鳴る

花粉症の人間であろうとなかろうと、ハナの対処は2つに大別されるだろう。
すなわち「ハナをかむ」と「ハナをすする」だ。
こう書くと「俺は自由行動にさせているぜ」「栄養にしているぜ」などという人もいるかもしれないが、それは少数意見である。
また、たとえそうであったとしても、何気にそれ気持ち悪いでしょ?の感じであるため、ここでは採用しない。
さて、手元にティッシュとごみばこがあるようなら、たいがいは「ハナをかむ」になると思うが、そうでない場合はおのずと「ハナをすする」必要が生じるわけだ。
僕はけっこう「ハナをすする」ことが多い。
それゆえに、この行動でイカンことというものがわかってきた。
「ハナをすするとき、変な音が出る」
これがイカンのである。
そもそも「ハナをすする」というのは、みんな諸手を挙げてよろこぶような行為ではない。
先ほど書いたような、必要な場面もあるという認識も高いだろうが、ずるーという少々えげつない音を立てるわけで。
そんな立場の「ハナすすり」での、高音である。
なにか、鼻孔内内容物の配置がうまい具合になってしまったため、奏でてしまうときがある。
ひどく恥ずかしい。
場合によっては配置が頑固で、少々のすすりではそれを消滅させることができないこともある。
そのときは、配置をくずす脅威のすすりが実現するまで、遠くでフエラムネが鳴っているような、そんなノスタルジックな環境を提供することになってしまう。
ハナをすするときは、「ハナが鳴ってしまう」ことの考慮を忘れずにというのが、今回。
ハナを鳴らすのは、恋人だけに。
今、懸命にまとめようとしております。

落とし穴

落とし穴を作ったことがある。
これだけでけっこう話題にできそうなものだが、ざんねん。
こどもの頃なので、程度の差はあれど、そんなに珍しい経験ではない。
大人になってからなら、それはそういう仕事の人か、なんらかの事情でひまな大学生。
もしくはたまたま掘った穴に人が落ちてしまい、結果的に落とし穴となった事例くらいだろう。
さて、僕が子供の頃に作った落とし穴は、もう落とそう度がすごく高かった。
まるみえなのである。
薄い板で穴を隠すだとかしないため、ひっかかる人はいないのである。
その点、単に作りたかっただけと言える。
本題。
落とし穴を作ろうとしたとき、どういった「飾り」があれば、より人を効率的に「ひっかからせる」ことができるだろうか。
まずは、板をひこう。
お笑い番組などで「ちょっと浮いて板が見えちゃってる落とし穴」があるが、あれは視聴者加害者、さらには被害者ですら「落とし穴あるよ」が周知のこととなっているため、見えていても見えていない、そんな身近なまごころや気づかいのようなものなのである。
今回、僕らは「ちゃんとした」落とし穴を考えているのであって、それに「ちょっと浮いた板」は、関わる人全てに対して、失礼だ。
浮かない板にし、土壌をまぶそう。
落とし穴の向こうに、珍しい花を植えよう。
人は目的を持って行動する。あるいは行動して目的を見つける。
どちらにせよ、歩き出す生き物なのであって、珍しい花を取得するという目的によって、それが速やかになされるはずだ。
ただし、ただ一輪だけ植えるのでは少しへんなので「パンジー群のなかに一輪だけチューリップ」というような形式がいいと思われる。
落とし穴の手前に、すごく低い柵をつけよう。
違うものに気をひかせるという、ワナの常套手段である。いとも簡単にいなせる障害物に注目させておいて、どーんである。
悪である。
ここまでで、ようやく形になってきた。
ほぼ終わり。
最後には、掘ってあった落とし穴に樹木の一本でも植えよう。
お庭の完成である。

魔女

魔女が出題する問題の答えは必ず「どれでもない」「この中にはない」である。
千と千尋の神隠しでは、千尋が豚にされた両親を選び出すシーンで。
ジョジョの奇妙な冒険では辻彩の魔法使いのルールとして。
選択式問題に対して「答えはどれでもない」は少々勇気のいることであり、逆に言うとここでキーパーソンの真実を見出す力が表現されるわけである。
さて、一見たどり着くには相応の力が必要と思われそうな「どれでもない」だが、一般的に広まってしまうと魔女としてはざんねんな感じになる。
なんたって魔女の問題とくれば「どれでもない」になってしまうから、ちゃんと考えてくれなくなるのである。
しかし魔女としては、それ以外の答えを望むようではコケンに関わる。
意地でも「どれでもない」で行きたいところ。
かーいそうである。
?????
『魔女の学習帳』
問題1:
ひろしくんはりんごとみかんをそれぞれ3つづつ、はなこさんはりんごを2つ買いました。
ふたりのりんごを合わせるといくつになるでしょう。
1.4つ
2.3つ
3.どれでもない
問題2:
ひろし君と花子さんは二人で公園に行きました。
1.これはひろし君が花子さんのことを好いているための行動である。
2.ちょうどそのとき、公園でせみが羽化をしている最中であったため、ひろし君はそれを見せたいと思ったのである。
3.他意はない
4.どれでもない
問い3:
ひろし君と花子さんが血まみれで倒れています。その近くに、右手に包丁、左手に拳銃を持った男が立っています。
1.包丁
2.拳銃
3.何らかの殺法
4.どれでもない
問い4:
ひろしくんはりんごとみかんをそれぞれ3つづつ、はなこさんはりんごを2つ買いました。
ふたりのりんごを合わせるといくつになるでしょう。
1.4つ
2.5つ
3.どれでもない
4.この問いは問題ではなく、ただの独り言である
問い5:
ひろし君は花子さんにプレゼントをしたいと思っています。
1.花束
2.バッグ
3.おこめ券
4.現金
5.どれでもない
?????
後半になるにつれて難易度は上がるが、基本答えは「どれでもない」である(問い4のみ、解答は4)。
一部ひっかけもあり、魔女達はこのような課題をこなしていき、魔女たる考え方を身につけるのであろう。
ただ、彼女達も魔を抜けば普通の人だ。
問い5では選択肢に「愛」が入っていないことを内心喜びながら5を回答、脳内でひろし花子の物語を補完するのだろう。