いつだったか。
電車の中でスキーの広告を見たとき、少し感心した。
「リフト乗り放題」とあった。
スキーを一度しかやったことのない僕にとって、一見その広告の見出しは、それほど目を惹くものではなかった。
「滑り放題」ということなんじゃないか。
そう思った。
でも、すぐにそうではなさそうだと感じた。
スキー場の料金システムがどのようなものなのか、知らないのだが、スキーやスノボの板に万滑計(発音とか、いろいろと!)がついていて、滑った分だけ料金を払う、という感じではないだろう。
多くの人にとって「滑り」はタダ。
「滑り放題」は当たり前なのだろう。
だが、その放題も、滑るための傾斜があってのものだ。
上から滑ってきて、傾斜がゆるくなっているところで停止する。
その状態でじっとしていても、それは「滑り放題」には含まれない。
停止し放題だ。
その点、広告がウリにしていた「リフト乗り放題」という言葉は、かなり積極的に「滑り放題」を謳っている。
実のところ、お客さんは「リフト乗り放題」だからってずっとリフトに乗り続けるわけではないだろう。
やりたいのは「滑り放題」だ。
「お客さん。滑り放題したいのはわかりますがね。ほら、滑るには、坂が必要でしょ。ね。そうなるとほら、リフトか何か、必要じゃない?。そこで、今回はなんと、リフト乗り放題ですよ。乗り放題。」
「リフト乗り放題だと、坂の上に行き放題じゃない?。そんなところにスキー板をはいて行くと、どうなると思います?。」
「そう。まずは滑り始め放題ね。そして、加速しだし放題。そしてついに、滑り放題ですよ。」
「滑り放題」の、強力な代名詞なのだ、「リフト乗り放題」。
先ほども書いたが、スキーをしない者は、ちょっとリフトのことを忘れがちだ。
なんかスキーをしたくなっているときなんかに「滑り放題スキー場!!」とか書かれたチラシを見たら、「うそ、滑り放題じゃん!!」と喜んでしまうかもしれない。
無論、リフト料金は別になっていたりするのだ。
その点、「リフト乗り放題」は、かなり美しく端的に「滑り放題で、しかもリフト乗りまくりだよ」を表現していると思う。
次回、そんな表現の仕方(リフト乗り放題→滑り放題で乗り放題)が他にもあるのかを考える。
カテゴリー: 疑問結論など
マスクと棒
この季節、花粉症との相性の悪さに辟易するチュッパチャプス好きが多くなるのではないだろうか。
要は、マスクとチュッパチャプスについている棒について、である。
マスクをしているときに、チュッパチャプスを舐めることはできない。
チュッパチャプスについている棒が、口から突き出てしまうからである。
マスクは、口から何か突起しているシーンは、想定していないのだ。
あの棒の役割を考えてみたが、なかなか思いつかない。
それでもひねり出してみると、
1.ときどき口から飴を取り出して、なめられ具合を確認するためのもの
2.小さい子に与えたとき、誤飲しないように、もしくは誤飲したときも喉につかえるようにするためのもの
3.遭難した際、手渡しで飴を交互に舐めあおうとすると手についた分が消耗してしまうので、それを防ぐためのもの
4.舐めを休みたいとき、とりあえず出しておく
などというものが出た。
しかし、それぞれ
1.飴のなめられ具合は、それほど確認しなくてもよい
2.誤飲してしまった場合、むしろ棒が危険なのではないか
3.遭難したとき、チュッパチャプスの包装のポップさはちょっと苦痛だ
4.立ち上がっている状態だと、片手のチュッパチャプスはちょうど子供の目の高さであり、歩きたばこ同様、危険なものとなる
との意見もあり、難しいところである。
とにかく、花粉症でマスクを着用しなくてはならない多くの人にとって、チュッパチャプスの棒はかなり邪魔くさい。
例えば、形の似た食べ物として串かつがあるが、多くの人は串かつを食すのにそれほど多くの時間は要しない。
ゆえに竹の串とマスクの競合は起きない。
野球漫画「ドカベン」には、いつも葉っぱをくわえているキャラクタ「岩鬼正美」がいるが、葉っぱは柔軟性に富むため、葉っぱとマスクと岩鬼正美の間に競合はない。
しかし、チュッパチャプスについては、その棒部分とのジョイント部分を重点的に攻めたとしても、脱・棒に10分くらいは必要だ。
その間、鼻は花粉にさらされることとなるのだ。
今のところ、チュッパチャプスの棒について、詳細なことは知らない。
そして、あの棒がないとチュッパチャプスのチュッパチャプスたる部分が、かなり喪失することもわかる。
だが、最近やたらマスクの人が増えてきた。
マスクの中心から白いプラスチック棒が突き出ている。
そんなシュールっぷりもいいが、どうにか他の方法でマスクとチュッパチャプスの棒の共存がはかれないだろうか。
追記
先ほど「なんだ、マスクをするとき、あの棒で飴を口から取り出せばいいじゃないか」とか思ってしまった。
そもそも、棒がなければ飴を取り出す必要はないのである。ざんねん。
虫味2
タガメという虫がいる。
かなり大きい、カメムシの仲間だ。
日本にも生息しているけど、自然にいるものはそうたやすくみつかるものではない。
僕はこの虫が小さい頃から好きだった。
えさとなる小魚などを捕らえるための、鎌のような腕が強そうだったからだ。
実物を見たことはなかった。
図鑑を見ると体長やら生息地が書いてあるけど、実感がわかない。
動いているイメージがとらえられない。
でも、この見たこともない虫の作文を書いた記憶がある。
見たことも触ったこともない虫の作文に、何を書いたのか。
今となっては不明だが、まぁそのくらい好きだった。
ところで、こいつはアジアの国々の多くでは、食材である。
結構高級らしい。
市場でキレイに陳列されている、食材としてのタガメの写真を見たときのショックは大きかった。
く、食うんや・・・。
あの強そうなイメージが消えてしまった。
かっこいいけど、食材か・・・。
また、ちょうどその頃、僕は外国産のタガメの標本を手に入れる。
ところが、それはやたらクサヤ臭を放つ物体なのであった。
もはや、強そうという印象を取り戻すことは不可能となった。
僕にとってのタガメは強くもなく、おいしくもなさそうな昆虫になったのである。
虫味
虫を触ることはできないが、虫のことは気になる。
そんな生物関係からか。
僕はけっこう前から昆虫食に興味と知識を持っていたようだ。
以前、そんな感じの講演を聞いていて、そう思った。
だが、興味以上としては近寄らない。
食べてしまうかもしれないからね。
触れないのに、食えるか。
そんな心境。
例えば、目の前にイモムシの焼いたのがあったとしよう。
うわーいもむし。
食べられない。
近くにマヨネーズが置かれた。
これで虫味を殺せ、ということか。
・・・食べないよ・・・。
ウェイターが「なぜかギザギザの形をしたフライドポテト」を持ってきた。
この中に混ぜて、映画でも見ながら、か。
こんな故意なもの!!。
フライドポテトともども食べないってば。
結局、味どうこうではなくて、虫という段階で、それを食材の仲間として受け入れられないようだ。
保守的でいやだが、これはどうにも。
ただ、からっからに揚げる系の料理方法ならどうにか、という気もしている。
そんなことを考えて、誰にも何も要求されていないのに、ドキドキしている午前2時。
一対と一個
一ヶ月前ほどに「一対のハンドグリッパー」のことを当ブログで書いた。
あけて、しまうのだろう・2
※ハンドグリッパー:にぎにぎして握力を高める装置
この「一対のハンドグリッパー」の記載をするとき、「一対」「一個」のどちらにするのかを迷った、ことを先ほど思い出した。
この違い、かなりの差だ。
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久々の終電。
既に家の明かりは消されているので、忍び足で居間に向かう。
お、テーブルの上に「なんか、料理皿の上に広げる傘みたいなヤツ」がある。
何か食べ物を作ってくれたのかな。
傘みたいなヤツを取り去ると、テーブルの上には
「一対のハンドグリッパー」
「一個のハンドグリッパー」
が・・・。
===========
上記の件、そうない事例ではあるが、考えてみよう。
もし「一対のハンドグリッパー」がテーブルに置いてあったとするならば、あなたは「なんや鍛えろいうことかい」と思うだろう。
「一対」であることで、ハンドグリッパーの役割を最大限にアピールしている。
一方「一個のハンドグリッパー」が置いてあったとすると、どうだろう。
最初は唖然とするだろうが、よく考えてみよう。
ちょっと、よく考えてみてもわからないのではないだろうか。
「いやがらせ」
「ジョーク」
「利き腕だけ鍛えろ」
「両手を鍛えろ」
「ハンドグリッパーにみぎひだりの差はあるかどうか、確かめろ」
「手羽先か何かと間違えた」
この、一個のハンドグリッパーに、どんなメッセージがこめられているのだろう・・・。
配偶者を起こさねばならぬ。
このくだん、「靴」に置き換えてみよう。
「一対」の方はこう変わるだけだろう。
「なんや明日これはいて行けいうことかい」。
しかし「一個」の方は以下だけになるのではないか。
「いやがらせ」
「ジョーク」
「高レベルの闇鍋跡」
靴は、一個だけでは靴の役割を全く持たないのだ。
しかし、ハンドグリッパーは一個でもそこそこ元の機能を失わない。
一般的にもともと一対が基本形のものが一個になってしまっていた場合はその機能を失うこととなるが、ハンドグリッパーについてはそこが結構ぼやけるようだ。
以上を熟考した上で、僕は「一対のハンドグリッパー」を採用した。
一個にしていて、そのことで疑問が生じたとしても、起こすものがいないのだ。
十六茶 × ロビン
当ブログに、半年に一回ほど取り上げられる「ロビンと100人の友達(Robin with his 100 friends)」の話。
PansonWorksというとこがやってる、キャラクタものだ。
それが今、十六茶のペットボトルサイズを買うとちっこいフィギュアがついてくるようす。
いつか挙げたけど、今までこのシリーズでちゃんと100人分、何かが出たことはない。
僕らはいつか「ロビンの風」が吹くのを待っているのだが・・・。
今回が、そうなのか・・・。
そして十六茶のフィギュアは、どのくらいの友達が出てくるのだろうか。
ということで調べていってみると、やたら「KinKi Kids」が出てくる。
どうやら、今回のフィギュアにはロビンの友達に混じり、Kinki Kidsの2人が参加しているようだ。
それを知らなかったので、フィギュア一覧を見ていて
「Koichiはクルマ好きか?」
「Tsuyoshiはフィッシングが好きなんだ?」
「ロビンは日本の友達が多いな?」
とか普通に感じていたよ。
ところで今回の件により、どうやらKoichiとTsuyoshiはロビンの101番目と102番目の友達になった、ということで間違いないようである。
ず、ずるいぞ!!。
僕だってなりたいわい!!。
僕はいままで、これほど自分が硝子の少年でないことを悲しんだことはない。
でも、たぶんKinKi Kidsはロビンのことをよく知ったから、友達になれたのだろう。
僕がロビンについて知っていることは、
発明がすき
ゲームがすき
グリーンティがすき
ということだけだ。
ん・・・すきなものだらけだな、ロビン。
十六茶は、どうなの?。
追記
フィギュアについてくるミニブックによると、
Koichiは、歌や踊り
Tsuyoshiは、歌やギター
が得意だそうだ。
なかなか秀逸な紹介文だと思うのだが、いかがだろう。
俺たちに他意はない
昨日、掲題の演劇を見に行ったことを書いた。
とてもおもろかったのだが、さきほど、演劇の最中にひとつ気になるキーワードが出てきていたのを思い出した。
「ブッシュマスター」
どうだろう。
だいたい2割の人はコイサンマン的なものを感じるのではないだろうか。
そして1割の人は毒ヘビという正答を思い、7割の人は興味を持たない。
劇ではこのブッシュマスターの毒を使って、川のさかなを獲るシーンを描いていた。ごめんここうそ。
ブッシュマスターの毒が登場し、人に注射したり、血清がどうこう言っていた。
僕は劇中、なんでブッシュマスターの毒が出てきたのか、気になってしょうがなかった。
劇の内容からすると、そこで使われる毒は特別ブッシュマスターのものでなくてもよさそうだった。
なぜ、なぜブッシュマスターなんだ・・・。
ちょっと名前カッコよすぎるだろ・・・。
それとも公演日別に「今日はブッシュマスターの毒で」「今日はアマガサヘビね」とか、変えていたんだろうか。
・・・なんや。
毒の強さ、攻撃性はさておき、ブッシュマスターの名前のカッコよさに比べて、なんや、アマガサヘビ。
まぁいい。
こんなように、日ごとに変えるくらいだったら、もはやヘビ毒にこだわる必要も無い。
「今日はヒョウモンダコ」「明日はボツリヌス」「最終日は三太夫」なのか。
「明日は生肉を食わせる」「醤油をじょうごで・・・」「石鹸をバターと偽って・・・」
・・・血清がどこかに行ってしまった。生肉の血清は難解だ。
まぁ、こう書いていてわかるのは、それほど毒に執着するこたないじゃないか、ブッシュマスターを選んだ役者さんや、今回の僕、ということだ。
ということで「俺たちに他意はない」。
ブッシュマスターの件では、相応に他意があったようである。
見に行く2
年末、シベリア少女鉄道の「俺たちに他意はない」を見に行った。
序盤は「なんか、劇としてどうなっちゃうんだろう」というような雰囲気だったが、後半はやたら盛り上がった。
漫画でしか見られないようなネタのたたみかけを、ちゃんとやっているので面白い。
前作「永遠かもしれない」が「男梅キャンディ」であったとすると、今回は「中にシュワシュワする粉末が入っているコーラキャンディ」となるだろうか。
ところですでに記したように、最初は盛り上がる場所など皆無。
資源としての有用性が見いだされていないころの海洋深層水みたいだった。
だいぶ徹底的にそういう場面をなくしたのだろうか。
しかし、後半は盛り上がる。
舞台の技法として、こういうのがあるのだろうか。
そういえば昔、ドラゴンクエスト6が出たときのファミ通評価で、誰かが「序盤の盛り上がりに欠けるが、中盤からは引き込まれるようにハマった」的なことを言っていた。
また、ライブなどで「最初は静かな曲ばかりだったけど、後半はアップテンポな曲で盛り上がりを見せた」みたいな話は多い。
やはり、こういうすえひろがりな技法があるのだ。
しりすぼみは、やだもんね。
それにしても問題は、僕が何でドラゴンクエストのくだりを今でも覚えていたかということ、この話が本当かどうかを確かめる術を持っていないことだ。
つり革
電車でつり革につかまっているとき。
視線をもてあますことがあります。
広告は見飽きた。
カバンの中の本は取り出せない。
寝てるフリをするのも、なんだ。
前の座っているおっちゃんの詳細を知っても、なんだ。
遠くにぼんやり見える「シカクいアタマをマルくする」広告が、うらめしいぜ!!。
つり革の柄?部分に広告が付いているものがある。
あんな感じで、何かひまつぶし、視線を釘付けにするもしくは釘付いていても違和感の無いものを取り付けることはできないのだろうか。
迷路はどうだろう。
いや、あのスペースは限られている。
目が疲れ、電車に酔う。
あの、目の視点をずらすと立体的に見えるやつはどうだろう。
だめだ。
迷路と同様だ。
格言はどうだろう。
「右を見るという行動は、左も見るという責任を生じさせる バスロマン伯爵」
これなら、あのスペースでも問題ない。
興味を持つことさえできれば「あぁ、右な。そう、そうなんだな」と考え始めることで時間と視線をつぶすことができる。
ただ、隣で「でも、右を見るということは同時に左を見ていることにもなるんじゃないかな」とか考えている人がいると思うと、少しめんどくさい。
クイズはどうだろう。
「【となりの客は・・・】に続く言葉を入れよ」
これでも、スペースに問題はない。
普通に考えると「よく柿食う・・・」となるが、そこは意図をふまえ、色々やってみたいところだ。
「となりの客は、本当に15歳のときにバイクを盗んだことがあるということを押している客だ」
「となりの客は、40代後半の男。さっきから不味そうに酒をちびりちびり飲みやがる」
「となりに客がいると思ったんだが、気のせいだった」
いろいろできる。
ちなみに僕が最初に思いついたのは
「となりの客は、よくたで食う虫々」だ。
雪の降る町
あんまりそのときそのときを書くのも気がひけるけど。
この静けさは寝ようとしていた僕を揺さぶりおこし、それを書かなけりゃどうすんだという感じにさせる。
どうする?。僕。
雪が降っているからって、雪のことを書くのか?。
閉まっていた雨戸をあけた。
厚手のカーテンもあけた。
部屋の灯りを消した。
モニタの輝度、コントラストを最小限にした。
ヒーターも消した。
この部屋の灯りといえば、PCとスピーカ主電源の小さな青い光くらいだ。
ごめん。今、窓もあける。
スピーカから遺都シンジュク アレンジVerが流れてきた。
どうする?。僕。
雪が降っているからって、雪のことを書くのか?。
うん。
ローソンで売ってる「ホットケーキ生地の間にメープルシロップとマーガリンがはさまっているやつ」のことを書くか。
あれ。
あれな。
すごくうまいんだよ。
たぶん2ヶ月くらい、昼ごはんはあいつだ。
他のところにも「ホットケーキ生地の間にメープルシロップとマーガリンがはさまっているやつ」はあるんだけど、ローソンのはホットケーキのおいしさが違うんだ。
他のところのよりホットケーキホットケーキしているんだ。
ただ、すごくおいしんだけど、たまにメープルシロップがだだもれているときがある。
あれは食べるとき四苦八苦するから、やめてほしい。
つらいんだ。食べる姿が四苦八苦しているのは。
今、つらいといえば、この寒さだ。
窓、あいてんじゃねえか。
この寒さ。この静けさ。
温度と濃度の高い僕のからだにこいつらが浸透してきて、音もなくはじけそうだ。
スピーカからジムノペディが流れてきた。
ホットケーキ、腹持ちもいいが、話としてもどうにか持ったみたいだ。
雪のことを書かなくてよかったし、書けていなくてよかった。