「いやあ、本当にすごい人ですねあなたは!!」
見知らぬ部屋で目覚めた僕は、ベッドの周りを囲む多くの記者風の人たちを黙って見渡すしかなかった。
本当にすごい。
そう出来ることじゃないですね。
それぞれが持つマイクをそう向けられても、何も言えなかった。
ここはどこだ。
なんか、病室みたいだ。
「それはまだ混乱していますよねえ」
少しずつ思い出してきた。
僕は交通事故にあったんだ。
信号待ちをしていると、あらぬ方向からのトラック。
まず僕の車の側面に追突して、それでも速度は落ちないで。
次々に停車中の車をどついていっていたんだっけ。
追突されたとき、僕がどうしたかも思い出してきた。
あのトラックの様子はただごとじゃない。
運転手に何かあったように感じたんだ。
道路沿いの民家の塀にぶつかって停止していたトラックに駆け寄り、自分でも信じられないような力でねじれたドアを開けた。
運転手はゆがんだ運転席に、奇跡的に巻き込まれていなかったけど、胸を抑えて気を失っていた。
どうやら運転中に何らかの発作が起きたのだろう。
追突された車から何人かがこちらを伺っている。
深い傷をおった人はいないみたいだ。
僕はうめき声をあげているトラックの運転手をゆっくりと車外に出し、近くにいる人に救急車を頼んだ。
それに安心し、気を失った。
「いやあ、本当にすごい」
ベッドを囲んだ人たちが言う。
「そうですね。あの時が、もしかしたら僕が生きてきた中で一番役に立った時間だったのかも知れません」
本当、本当ですよ。
いいことをおっしゃる。
そう記者たちが口々にする。
僕もばかじゃないから、どうやら自分が死んでしまったことが何となく分かる。
しかしどうだ。
ここが天国か地獄かわからないけど、周りの人はみんな気を使っている。
目覚めたとき、いきなり死んでしまったことを告げるのはあんまりだ。
どうにかして、ゆっくりとその事実に向き合ってほしい。
そんな空気が、この病室にはにぎれるくらい、充満している。
その気遣いはうれしい。
だから。
うれしいからこそ、僕は大声で言いたかった。
「だったら、そのマイクについてる天使の羽をまずどうにかしろよ!!」
カテゴリー: 汎用性より低い
昔は遊び道具は自分で作った。
昔は遊び道具は自分で作った。
そういって悲しそうな笑みを浮かべる人もいるだろう。
その笑みが「今はなんでもあるから、そんなことしないだろう」というものに起因するのなら、遊びざかりの子供たちの周りに「お手軽お遊び」を与えていない大人たちに責任があるのではないだろうか。
あるいはそんな心配自体が無意味かもしれない。
将来は「昔はよくプログラム作ってゲームしたっけな」
さらに将来は「昔はよくFXで小遣い稼いでたっけな」
最近は「調子の悪いプレイステーションは立てて起動すると読むことがあったっけな」
ところで、実は子供はいつだって遊び道具は自分で作っている。
誰でも覚えがあるはずだ。
自分ルールというものを。
いつか書いたかもしれないが、僕は「前の自転車にライトを当てて反射板を光らせると1点」であり、「マンホールを踏むと1点」という自転車時のルールがあった。
四角いマンホールは4点。
床の木目が迷路になったことのある人もいるだろうし、棒状の植物と空き缶があれば相応の球技が誕生するだろう。
そういった点では、昔と今で違うのは「より面白い遊びへ更新される頻度が高い」という点だ。
その結果「自分では作れないものに更新されてしまう」ことが多いわけだ。
ただし「自分で作れるものに更新される」ことがないわけではない。
それは、大人に粘土を与えればわかる。
けっこう、持つのである。
累計30000点目を軽自動車で獲得する、ファンファーレはエンジン音に消えて。
今粘土がないので、こんな感じ。
かじっている。
久しぶりに紀伊国屋へ行ってきた。
新宿のそこは、何か高い所に通路がある。
あそこを一度は通りたいと思いながらも行くときはそのことを忘れ、地上から1階を目指してしまう。
そして頭上の通路を見ながら1階の漫画コーナーを通ることになる。
故あって自然科学コーナーをふらついてみると「シマリスが蛇をかじっている」という旨のタイトルの本があった。
面白そうだ。
しかし、どこかで似たようなことを聞いたことがある。
確かどこかの動物園。
爬虫類館のあるのところだ。
そこではニシキヘビにウサギを与えるのだが、とにかくニシキヘビというのは「食わない」。
一度獲物にありつけたら、1週間とかは全然食べないらしいのだ。
そんな、腹がどのへんかはよくわからないが満腹のヘビのオリに、ウサギを入れておいたらどうなるか。
下手すると、ヘビの背がどのへんかはよくわからないが、翌日背骨が見えちゃったりしているんだそうである。
シマリスの本のタイトルを見てそんな話を思い出した。
ニシキヘビはどちらかというと獲物を待ち伏せして捕らえる狩猟方法をとるらしいし、消化にも悪いから動かない。
腹がなかなか減らないのは分かるのだが、かじらせっぱなしというのはどうだろうか。
新しい物々交換のかたちだろうか。
ウサギもウサギで、捕食されてしまう身なのだとしても、かじらずにはいられない歯を持つところに生命の輝きを感じさせるが、本人は自爆スイッチのひとつだけ紛れ込んだ緩衝剤(ぷちぷち)をつぶしているような行為であることに気づいているのかどうか。
あるいは意図があってかじったのか。
よくわからない。
帰り。
試しに例の通路を通ってみることにした。
天気も良く気持ちよかったが、そんなことをやっている間にもシマリスはヘビをかじっているし、ニシキヘビは獲物を待ち伏せしている。
どこかの海や沼では、恐ろしくでかい声でクジラやワニが鳴き、なんかきれいな蝶がうちの猫のトイレに止まりミネラルを吸う。
そこにきて、高い通路の眺めだ。
困るね。
ビロードツリアブについて。
虫を見る分には好きだが触れない。
気持ち悪いし。
そんなことを以前書いた。
しかし、見る分には好きと言えども、昆虫図鑑ではまず「ハエ、ハチ」のページは抜かす。
そのページに記載されている昆虫はほとんどハエ様であって、少しがんばればそこらで見られるから、いまいちグッとこない。
ときどきハエっぽくないやつがいると思えばそれは攻撃的な体色のハチなどであって、これはわざわざ見たくない。
このような理由により、ハエ、ハチのページは閑古鳥がそれらをついばんでいるのである。
ところがたまたまハエ、ハチページを流し見したとき、気になるやつを発見した。
ビロードツリアブという、残念ながら話題になっているハエ、ハチではない感じのやつ。
ただ、こいつは他のハエ様とは違った。
口が長いのだ。
体はハエ様だが、口が長いので他のやつとはかなり違う印象を受ける。
調べてみるとその長い口で花の密を吸うらしい。
よかった何かの体液でなくて。
とにかく唯一、このビロードツリアブはハエ、ハチカテゴリで印象に残ったものになったのである。
そしてこないだ。
サイクリング中に見つけた廃れ気味の神社でこのアブを見た。
ビロードツリアブは地面すれすれをホバリングしながら飛行し、ふらふらしていた。
この手のアブには、ホバリングフライと名付けらたものもいたはず。
ちゃんとホバリングして、えらいやつだ。
そしてこのとき、僕はそいつの口の長さよりも気になることがあった。
ホバリングしているアブの下にある枯れ枝のかけらとか落ち葉の破片が、動いていたのだ。
どうもホバリングしている風圧を受けているようす。
要は、ヘリコプターが着陸する際の、周りの人の風を受ける感じのことが、このアブ周辺でも起きているということだ。
当たり前なことなのだが、いかんせんアブのやることである。
枯れ枝や落ち葉は、律儀に風を受けてなびくことなんてない。
でもなびいている。
アブの陰に沿って、風を受けている。
そもそも陰だ。
アブ程度のことで、わざわざ陰もできることないじゃないかと思う。
ここでアブの陰ができていなくたって、誰も太陽をとがめたりはしない。
だけど陰はアブに従って動いている。
僕はこのアブのことを、この神社で恐ろしく自己主張している怪物のように感じてきた。
陰も作るし風圧でものを動かす。
そして何より口が長い。
神社、廃れている。
僕、50段くらいの階段を上ってきたので役に立たなくなっている。
なんか分が悪い。
とにかく口が長いんだ。
陰もうっすらとその長さを表している。
そして何を、陰を作っとんのだ。
羽音もたてないで、下の枯れ枝を動かしとんのだ。
滞空しとんのだ。
ああ、あっついなここ。
ということで、ビロードツリアブはより印象に残るやつになったのである。
ロマンティックが見当たらない。
こんなことを聞いたことがある。
「海外では、うま味という味覚は確立していなかった。一方、日本人はダシなどでうま味を味覚として既に重要視していた」みたいな。
もちろん全てがそんなことないのだろう。
しかし日本人がうま味成分を単離、味蕾にもその受容器官の存在がわかったということで、なんとなく「日本人、うま味のこと知ってましたぜ」的な誇りが私たちにないとは言えない感じではある。
この感じをどこからか受ける度に、僕は「ロマンティック」という言葉を思いだす。
「確かに、俺らの国ではうま味という考え方はなかった。しかし、日本にはロマンティックはあったか?」
今ですら、ロマンティックを日本語に訳すと「ロマンティック」なのではないだろうか。
確かに、当て字や他の言葉で置き換えたりもできるだろうし、しているだろう。
しかしそれも、もしかしたらロマンティック発祥国(フランスとか?)での「ロマンティック」の全てを網羅できてはいないのではないだろうか日本の「ロマンティック」。
「ロマンティックの、あの体温のような心地よさがちゃんとわかっているのかねえ。いや、そもそもこの日本の文章でちゃんと表そうとはしているんだけれどもね」
そう言われたら、僕は今後ロマンティックという言葉を使っていく自信がない。
うま味は分かっているが、ロマンティックのない国。
うま味は分かってないが、ロマンティックのある国。
双方はこういう関係なのだろう。
どちらがいい、いけないということはないが、なんだか原初的な選択ですね。
グラスの底にさらさら光る、MSGの砂浜とワインの残り香。
あー確かに僕にはロマンティックないわ。
浸透圧と匠。
手作りジャムと聞けば「ジャムが入っている瓶も手作りなのかよー」と恋する中2、いやカレーのオカワリを狙って早食いする小4、居間にあった週刊誌で初めて異性の裸を目の当たりにした小3。
いや申し訳ない、足して9となる子供たちに。
僕も経験がある。
恐ろしい性質の挑発行動を。
まあそれはいいとして、瓶はたいてい手作りじゃないだろう。
例えどこかの匠の、持ちやすさ抜群の瓶だったとしても、例の「手作りなのかよー」は、その材料から元素、さらには分割不可能なつぶつぶにまで続いてくだろう。
ここで「手作りなのは、せいぜい我々、生物だけだ」ともなれば締まるのだろうが、ざんねん。
どうもそうではないらしく、君や僕をどれほど細かく砕いても上記の手作り呪縛からは逃れられない。
思うに、元素だとか原子だとか、かなりちっこいものが認識され始めてからそう遠くないころ、人々は思いのほかロマンを感じたのではないだろうか。
今食べたパンの中に、いにしえの聖者が食したパンの一部が含まれているのではないか。
窓から入ってくる風、マドンナのにおいがする!!。
お前、よくみたらフカキョンにそっくりだな。
宇宙が昔あっつあつだったとか、今でも広がっているとかのマクロロマンに勝るとも劣らないロマン。
そして今、その手のつぶつぶが、どれほど地球の重力に打ち勝ち宇宙へ放たれていくのか。
あるいは宇宙から地球にどれほどのつぶつぶが降り注いでいるのか。
そんなことに思いを馳せ、行き来するつぶつぶへメッセージのひとつでも託したいと思っただろう。
「これを作った人に、いい仕事してるって言っておいてください」
ひかりごけについて。
「鈴木先生」が面白かった。
絵とか怖いけど。
その何巻かのときに「ひかりごけ」の劇をやるというシーンがあった。
いつか文庫本を買った気がする。
全然内容を覚えていなかったので、原作を読もうとそこらをあさってみたが見つからない。
そう言えばなんで文庫本を買ったのだろう。
正直、タイトル買いするようなものではない、というとうそになる。
案外、こけとかきのこは好きだ。
ipod touchを持っているが、おそらく一番使用しているアプリは「日本のきのこ」とかいうやつだ。
分類とかは難しいのでよくわからないのだが、きのこの写真がきれいなので暇なときに見てしまう。
「きのこが朝露で光る、すがすがしい高原の朝」
そんな感じの画像が、特にきのこが好きでなくても心にぐっとくる。
「ひかりごけ」もそういう背景のもと、買ったっけか。
「こけが洞内を薄く照らす、黒洞々たる洞窟の朝」
洞って字、多いね。
しかし「日本のきのこ」によると光るきのこ「ツキヨタケ」は毒性を持つらしい。
毒はいやなので、それを連想する「ひかりごけ」をタイトルから買ったとは考えにくい。
ではその内容だろうか。
「ひかりごけ」というと、どうしてもクローズアップされるのがカニバリズムだ。
その一見ショッキングな事柄に興味を持ったから買ったのだろうか。
でも私見だが、カニバリズムの何たるかを「ひかりごけ」に求めるのは致命的にだめだ。
もちろんその意味は多岐に渡るのだろうが、どちらかというと民俗学や世界で起きている該当事件の背景、チンパンジーや枯草菌の論文とかミイラを薬用として使用していた歴史とか。
こちらの、今一生懸命調べたばかりのやつのほうが、よほど有用だろう。
「チンパンジーが手のひらで目を隠してくちびるの裏を見せる、話し声のしない朝」
そういえば「ヒカリゴケ」というお笑いの人がいる。
何か関係があるだろうか。
どうであれ、文庫本は見つからない。
「へえ黒洞々ってこくとうとうって読むんだ、探しものの見つからない朝」
少し伸びたら
人形には霊的なものが入り込みやすいと言う。
真偽は全く分からないが、分からない以上そうなんですかと当たり障りのない感じになってしまう。
しかし気になることもある。
どんな人形にでも入り込めるのだろうか。
よくあるところの「日本人形」のたぐい。
ただでさえ良く出来ていて怖いのに、そんなものが入ってしまっては大変だ。
と、逆を言えば良く出来ているからこそ入り込めるのかもしれない。
「きれいにやすりがかけられ、エアスプレーで仕上げられたノーベルガンダム」
ガンダムに詳しい人なら、今回の着地点がわかっただろうから、着地点替える。
良く出来ていると言えば「きれいなプラモデル」だ。
プラモデルの枠と部品が引っ付いている箇所をやすりできれいにし、目立たないようにする。
エアスプレーできれいに塗装する。
きれいなプラモデルは、いじって遊ぶには惜しいくらい。
だから、冷却フィンが少しくらい伸びたって、むしろそうなんだ、とくらいになるかもしれない。
うーん、リアルロボット。
「きれいにやすりがかけられ、エアスプレーで仕上げられたガンダムナドレ」
前の着地点、近っ!!。
「ターンエーガンダム」「ユニコーンガンダム」「ドーベンウルフ」「アッグガイ」
あーもうガンダムには伸びたらいいところいっぱいあるな!!。
ということで、プラモデルに霊は入り込めるのだろうか。
あるいは入り込んで、髪やらひげやら角やら紐やら触手やら、いいとこ伸ばしてくれるのだろうか、ということである。
おまけ
「店頭に立つケンタッキーおじさん」
これは入り込む理由がないかも。
せっかくひげが伸びたとしても、腐食とみなされそうだから。
整然とデペイズマン 2
昨日からの続き
【あらすじ】
常套句を仕込むのも、「ここがこの文章のおもろいところですよー」というのを仕込むのもハズい。
=====
例えば昨日の「バケツをひっくり返したような大雨」というのを考えてみる。
これを「大雨」のことだけをとにかく伝えたいというのであれば、このままで問題ない。
ただ、「バケツをひっくり返した」を「すごい」に置き換えても全く遜色ないが、妙に聞き慣れない独特なものに置き換えてしまったら、伝えたいことがうまく伝わらなくなる可能性がある。
一方、この短い文章で何かしらおもろいことを目指すというのなら、仕方がない。
「バケツをひっくり返したような」が置換のターゲットとなる。
もちろんここで「大雨」のことを変えてしまえという方もおられると思うが、そうなるともう冒頭の定義は去り、そこにいるのは自由人だけである。
自由人は「きけ 和田摘みのこえ」「平成仮面ライダーくちべらしの傾向と対策」など、よくわからないがなんかおもろそうなやつを今後考えていって、できれば教えてもらいたい。
さて「バケツをひっくり返したような」の置換だが、これは「意味を鑑みた方法」と「鑑みない方法」。
方法が大きく二つに分けられると思う。
前者は「天使たちがかなしさのあまり、一斉に泣き出したような」という気持ちの悪いものから「街の風景をかき消そうとする意思のような」という気持ちの悪いもの。
「雨粒を避けようとする小虫も落とさんとするような」という気持ちの悪いものがある。
あくまで「バケツをひっくり返した」の、「水たくさん」の部分を失わないような変化である。
それに対して後者。
僕はどちらかというと好きだ。
「コメツキガニが近づく人の気配に気づき一斉に潜りだすような大雨」
「たくさん」の感じを残しつつ、「水」をなくしてみた。
しかしなんか分かるという感じ。
ただしこのコメツキガニのくだりで「鑑みない方法」を表現するのには注意を要する。
「コメツキガニが一斉に潜りだすような大雨」
こうしてしまうと、とらえようによっては「水たくさん」意味となってしまう。
どうかコメツキガニでは「人の気配」ということを忘れないでいただきたい。
ほとんどの人間にとって重要なのは、コメツキガニはその姿や生態ではなく「人の気配でわーっと潜る」なのである。
「ダルガン星で洗濯物を夜に干したような大雨」
そして「水」も「たくさん」もなくしてみた。
これはよく分からない。
「ダルガン星で初めての王位継承が行われていたときも、こんな大雨だった」
多くのものを失いつつ、哀愁を付加してみた。
「あのとき、雨があまりにひどかったから君の顔が見えなかったって言ってたわよね」
多くのものを失いつつ、進展ポイントを付加してみた。
「眼球が溶けたからね」
進展は終結を迎え、ダルガン星の雨がダルガン星人の眼球へ腐食性を示すことが分かった。
そう、もう飽きているのである。
ただ、仕込むのハズいとか考えていたが今はむしろ、けっこうすがすがしい気分だ。
整然とデペイズマン
ある文庫本を見ていると、こんな旨の指摘があった。
「常套句というか紋切り型の文章が気になる。
例えば、大雨はいつも「バケツをひっくり返した」ようなものであり、広大な土地は「東京ドームの何個かぶん」。
ホームへの返球は「矢のよう」であり、重いものは「小錦の何人かぶん」。
美しい柔肌は「ゆで卵のよう」であり、ツンデレの形容は「カレーうどん」である。
あんまりこればっかでもなあ。
もっともだと思う。
僕もこれをいやがる傾向にある。
しかし考えてみると、この文章を考えた人は、本来の内容以外の視点でこれを評価してもらいたいとは思っていないだろう。
大雨のことを書いた人は「バケツをひっくり返した」ところではなく、大雨のところに注目してもらいたいはずなのだ。
ここで「夜空に浮かぶみずがめ座のところから溢れ出た水のような」なんてアイデンティティを出そうものなら、それは芸術家のやることであり、大雨を伝えるという観点からするとどうなの?という気にもなる。
注目も「みずがめ座からあふれる水」のほうへといってしまうだろう。
少なくとも大雨の件での常套句というのは、それを変えることに意味がないどころか弊害の生じる可能性がある以上、そのままでもけっこう美しいものなのだ。
しかし何となく文章を考えていると、やはり「この文章のキモはここね」というものを考えてしまう。
例えばさきほどの「常套句をちょい替え」や「いいかたちょい替え」のたぐい。
当ブログでも「今回はココがいいからね!!」という気持ちでそういうことをやったりする。
しかし反面、その「はいココ注目ー。オリジナリティだねー」と思われる、あるいは思わそうということにひどく恥ずかしい気にもなる。
この感じは小学生のころ、国語で作文を書くときの「こう書くと子供らしいのではないか」「やさしさが出るのではないだろうか」という子供的なずるがしこさにも似て、誰しも心当たりがあるはず。
僕も冒頭、そこそこのキモになる予定のところを、実はかなり恥ずかしがっており、精神的には芽吹きのように縮こまっていて、これも。
まあ、そんなことを考えるとどうも書きづらく。