店ができている。

よく行っていた中華屋さんが閉店したので、残念だ。
チャーハンがおいしかったのに。
しかしその建物を利用して、また別の何かの店がやる様子。
工事の人がきれいに建物を塗装していた。
2日後、その塗装を見た僕と知人の意見は同じだった。
「あの中華屋さんは、沖縄そばの店に生まれ変わる」
詳細は省くが、複数人が「沖縄」を連想する。
そんな塗装の店が、いったい何なのかは、まだ分からない。
僕はけっこう、パクチーが好きだ。
マツモムシを連想させるにおい、味にはノスタルジックなものを感じる。
いつぞや書いたけど、それは「昔マツモムシをとった池の周りに松の幼木みたいなのが生えていた」ためで、僕にとってマツモムシと松は切り離せず、松のような独特のフレーバーを放つパクチーとマツモムシも、切り離せなくなってしまったためである。
例の店が、八百屋なのではないかという噂を耳にした。
おいしい中華屋が、八百屋に。
ちょっとそれはないんじゃないか。
沖縄を連想させる塗装の八百屋になってしまうのか。
食べにいく所ではないのか。
もし八百屋ならば、せめてパクチーを売っていてほしい。
確か経堂とかにパクチー専門店があるらしい。
行ってみたいがめんどくもある。
この中華屋跡地ならそんなめんどくない。
パクチー専門店とまではいかなくても、それを売ってくれるのなら、許そうじゃないか、八百屋を。
いや待てよ。
なんだかパクチーはそこらの八百屋には売っていないかのように書いてしまったが、本当にそうだろうか。
売ってるんじゃないのか。
もしそうだとしたら、できる八百屋は結局普通の八百屋で、僕シフトの売りがないことになる。
やっぱり八百屋はいやだなあ。
いったい何なんだ。
お前はいったい何の店なんだよう。
そんな沖縄カラーの店が、いったい何なのかは、まだ分からない。

一艘多く飛んでいます。

「八艘飛び」で気になるのが「自分の乗っていた船も合わせたのか」という点だ。
僕は歴史に明るくなく、「はっそうとび」というものも女神転生というゲームの何作目かで登場したのが初見だ。
それ以来、ずいぶん「八艘飛び」のことなんて忘れていたけど、なんとなく「八艘って?」という疑問が生じ、特に何もせず現在に至る。
「8艘飛んだんだから、八艘なのだろう」
確かにそうだ。
しかし、以下どれも「8艘飛んだ」と言えないだろうか。
・八艘飛びに関わった船が計8艘あり、その一つに義経在住。一番はじっこの船まで逃げ飛んだ。
・関わった船が計9艘あり、その一つに義経在住。一番はじっこの船まで逃げ飛んだ。
・関わった船が計10艘あり、その一つに義経在住。一番はじっこの船まで逃げ飛んだ。
・関わった船が計8艘あり、その一つに義経在住。一番はじっこの船から海へダイブ。
あれ、なんでまた僕のパソコンは「はじっこ」が「恥じっこ」って出るかな・・・。
要は数え方で、その見事な跳躍の場面で船が8艘あったとしても「八艘飛び」と言って良さそうだし、飛び歩いてその終着が8艘目でも、8艘目をちゃんと飛び越えたというのもしかり。
ちゃんと文献を調べればわかるのだろうか。
なんとなく計10艘のやつは「九艘飛び」って言っても誰も文句ないんじゃないだろうか。
いや待てよ。
確か「八艘飛び」は義経が迫ってきた敵を回避するためにとった行動だったはず。
考えようによっては逃避であるわけで、「より遠くに逃げました」となってしまう「九艘飛び」は義経にとって是か非か。
もうこれだから歴史ってやつは!!。

沸騰石がレンズを汚す

この間、CFで「耐熱性に優れるメガネを、ビーカーで煮沸する」というものを見た。
普通はメガネをそんな風に殺菌することもないし、だしを必要とすることもない。
煮沸しない。
その分見た目は面白く、「煮てる煮てる」と思った。
表現したいのは耐熱性だ。
メガネを煮沸したりはしないのだから、もっと低温(煮沸と比べて)のものを使用してそれを表現してもよかったのではないか。
あるいはとびきり高温で試してもよかったのではないか。
「従来のものは30秒で燃え尽きますが、このメガネは35秒です」
煮沸を用いたのはおそらく「日常生活で触れることが多く、かつ高温」である、なべを上から覗き込むというシーンを考慮したからだろう。
ガスによる火の方が高温だが、そこへメガネを落とすシーンは考えにくいし。
おみそしるだろうか。
あの中に落としたときのことを、このCFでは取り上げてくれているわけで、それはなんとなく大村崑を思い出させるが、確か紹介されていたメガネのデザインは彼のものっぽくはなかった。
気になるのが、今までの耐熱性がそれほどでもなかったメガネをおみそしるのなかに落としたとき、どうなっていたのかということ。
CFでは従来品との比較がされていなかったように思う。
そもそも煮てたが、それ以上のことは紹介されず、実は取り出そうとしたらでろりとなったりするんじゃないかという邪推もできたりもしちゃう。
そこにきて従来品の熱に対する危険性だ。
従来品入りのみそしるを口に含んでいたりするんじゃないだろうな、俺。
CFに追加挿入で「従来品はこうなります」を入れてはもらえないだろうか。
実は耐熱性の向上したものと同じ、煮沸くらいではどうともならないのだとしても、日常的に触れる高温のものとして上位である煮沸を耐えたことにはかわりないのだから、まあいいだろう。
一方で「従来品はこうなります」で水銀みたいのが入ったビーカーが映ったとしても、それはおもしろいから。

西からなんか刀もって来てるわ。

ということで「にしむくさむらい」である。
先日というか、まあ今も先日書いた後の続きで6月22日の蒸し暑い夜中なのだが、本ブログの更新理由の一つに「月別アーカイブを見ると31日ない月が分かる」というのを記した。
これはその通りで、なんだか5年くらい続いているその月々が何日あるのか、アーカイブで確かに分かる。
よくこれだけ「その場でさらりと忘れられる」ような内容を書いたらしいと、赤面である。
まあそれは置いておいて冒頭の「にしむくさむらい」。
31日ない月を表した言葉なのだが、実はつい最近知った。
思い返すに、少なくとも幼稚保育小学中学高校ではそんなものを聞いたことがない。
それほどカリキュラムにおける優先度も高くなさそうだし。
ただ気になるのは、その「語呂合わせ」精神だ。
こないだまで知らなかったのはいい。
もう知っているから。
ただどうも、覚えにくいのを語呂合わせで覚える精神が気に食わなかったのだ。
「語呂合わせで覚えたことがない」人は、いないだろう。
例を出すのもためらわれるくらい、人々の心の中には歴史、科学あるいはパスワード分野にて語呂合わせにお世話になっている。
ああいやだ。
もちろん僕もお世話にはなっているのだが、その文章としての意味のなさや破壊感がいやなのだ。
しかもその用途上、頭の中なり口なりで、どうしても発するでしょう。
恥ずかしいことこのうえない。
実は、とあえて重要視するが、世の中は「語呂合わせで覚えられないことの方が多い」のである。
だって、「昨日好きな人と一緒に学校の窓から夕日を見たという思い出」を語呂合わせでなんか覚えられないでしょう?。
語が介在しないわ。
どちらかというと「語呂合わせで覚えられないことの方が多い」人になりたいし。
=====
え、昨日窓から見た、夕日ですか。
行きますよ。
「いーれーいれいれ、れれれれれれいーれいーいーいー・・・」
あービットで覚える方ですか。
すごいですね。
でも自分、どちらかというと「語呂合わせで覚えられないことの方が多い」人になりたいですし。

放置感

これを書いているのが実は6月22日とかで、どうも1ヶ月ほど遅れた状態でブログを更新。
要は保存するとき、わざわざ前ブログの次の日を踏襲しているわけだ。
よって、本当の6月22日に到達するのは1ヶ月後になるわけでして、そもそも「カレンダーを隙なしで更新する必要なんかないんじゃない?」という気がする。
そんな縛りは内容から見ても、全く必要ないということに、開始4日目くらいには思っているのだ。
ただひとつ理由があるとすれば、月別アーカイブを見ることで「31日ない月」が一目で分かる。
何気に、これが本当の理由だったりする。
とは言え、近頃めっきり忙しいので1ヶ月も放置、知らぬスポンサーが広告を出している。
放置していたので文句は言えず、また以前以上に前に書いたことが思い出せず顧みもしない。
同じ事書いていたら超はずい。
このはずい思いをしないようにするために、僕はこれからより、以前書いたのを見ないだろう。
だからこの回も見ないでね。
6月22日の僕や。

軍艦1億2000万乗員 その2

昨日からのつづき。
【あらすじ】
「いくらを惜しまず使用」というCMを見た。
これだけやれば惜しんでないと言えるのではないか。
=====
これを考える上で困るのが、「惜しまない」というのが「無駄遣い」になってしまいそうになる点だ。
「いくらのつぶれたのがパッケージ内側に点々としてる」
これが「いくら惜しまないぜ」と意気込んだ結果であったとしても、それを見た一般は「もったいな」と思うだろう。
おもしろいことに「惜しまない」という意味のひとつにある「もったいがらない」を実行したら、「もったいな」と思わせてしまうことがままあるわけなのだ。
ただ、「もったいな」と思わせることが「惜しまない」ということでもあるから、それはある意味当然。
しかし、それでも「もったいない。無駄」と「もったいないけど、贅沢だなあ」の両方どちらが「惜しまない」ことであるとするならば、それは後者でありたい。
となると、「惜しまない」ことには程度があることに注意しなければならない。
無駄になっちゃだめだ。
それを踏まえて考えてみる「これだけやれば惜しんでない」。
「砂場の砂がすべていくら、いくら場」
ああもったいない。
何やってんだ。
惜しむとか惜しまないとかの状態じゃない。
「いくら場」のコピーみたいになっているし。
しかし、単に「ああそうですか」という感じがしたであろう「砂場の砂がすべていくら」。
少しは掘り下げてみよう。
まず、山を作るのが難しいだろう。
どろどろしているから、山を作ろうとしても勝手に「なれて」しまう。
「いくらの山」
これがどんぶり上なら「惜しまないことの程度」の範囲内であると言えそうなのだが、いくら場はだめだ。
一方、掘る関係も無理だろう。
掘っても掘ってもすぐに近くのいくらがなだれ込んでくるし、トンネルなんて夢だ。
「いくらのトンネル」
多分、じめじめしている。
いくら場については、あと臭いだろうとか、何気に気持ちいいだとかあるが、もういい。
いくら場はもういい。
幾分かいくら場に触れたことで、それでもう十分「これだけやれば惜しんでない」ことになるだろう、いくら場に関しては。
おそらく、いくらを惜しんでないということは「ごはんか何かの上にどっろーといくらをかける」ことしかない。
その器からいくらがこぼれたら、それはもう「無駄」範疇だし、デコメと称して相手の携帯電話をかっさらい、いくらを挟んで返してくるというのもそれだ。
例えば考え方を変えて「雌のサケが全然雄のいないところで産卵している」というのは、無駄だがいくら産み出しのおおもとでもあるので何かしら意図があるとも捕らえられ、それなら無駄というより「惜しんでいない」ことになるのではないか。
しかし冒頭、「惜しまない」ということを考えるには、他者の存在も考慮する必要があることを示した。
他のサケは、決死の覚悟で陸へ上がり、そこで産卵している雌を見てどう思うか。
「いくら、惜しんでないなあ」
「無駄遣いだなあ」
たぶんどちらでもなく、そもそもどう思うか自体もないだろう。
せっかくそんな面白いことをしてくれているのに。
惜しいなあ。

軍艦1億2000万乗員 その1

「いくら」を惜しまず使用というフレーズで気になるのは「いくらを惜しむシーン」について。
あるいは「どれほどのことをやれば惜しんでいないことを示せるか」というのもある。
もちろん両者とも、食べ物を粗末にするようなことは問題外。
食べ物はいつだって惜しまれなければならない。
しかしそれを踏まえたうえでも、相応に考えられることはあるだろう。
いくらを惜しむ。
上記の鉄則を自然界にも当てはめるのであれば、いくらを食する生き物全ては「いくらを惜しみながら食べて」いるのだろう。
自分にはもったいない。
でも食べなしかたがない。
あるいはそうやって食べられていくいくらたちを目の当たりにする海の女王的なもの。
摂理とはいえ愛おしいいくらたちがひょいひょい食べられるさまを見て、女王的なものは何を思うか。
命の消滅を惜しみ、目に涙。
しかし安心してほしい。
たぶんだが、海の女王的なものの涙はいくらなので、収支ゼロだ。
なんだか以前、人工いくらのことをテレビで見た。
それはひどく本物そっくりで、おいしいのだそうだ。
おいしくて本物そっくりなのなら、わざわざ卵を食すことはない。
なんとなくレンネットを思い出させるこの話は、同時に「いくらが惜しいシーン」そのものとも言えそう。
いいんだ、いくらなぞ人工で。
いくらより先のステップは人工でまかなえないけど、まあいいじゃないか。
でも「人工いくら」と聞いて、「うんと、1億2000万人くらい」とか思いついた今の自分は、まあいくないね。
明日、「こんだけのことをやれば、いくらを惜しんでいないね」をやってみるつもり。

おいしいコーヒーのいれかけかた2

昨日からの続き。
【あらすじ】
「入れたばかりのコーヒーすらあった」というフレーズの「急に人がいなくなった感」。
他にもないか。
=====
お昼ごはんにかったい鶏肉を食みながら、一緒に食べてた人と考えました。
「爪楊枝の先がぬれている」
急にいなくなった度合い:小
いわゆる「まだあたたかい!!」と同じ感じ。
「補助席に子供を乗せた無人の自転車がすーっ」
急にいなくなった度合い:高
これはだいぶ急にいなくなった。
危ないので、どうせなら自転車を降りてから消えたいところ。
「ボディソープのポンプの押す所がゆっくりと元に戻る」
急にいなくなった度合い:高
押し込んだときまではいたのに。
これが出たとき、「急に人のいなくなることは、怖いことなんだね」と結論づけられました。
「おんぶしていた子供が、まだ浮いている」
急にいなくなった度合い:高
何気に、この子もすごい。
「やまびこだけが帰ってきていた」
急にいなくなった度合い:高
完全に山の神を怒らせた結果くさい。
「こんぶのダシがちょうどいい感じになっている鍋があった」
急にいなくなった度合い:中
本来ここを逃してはならないわけだが、いなくなった。急である。
「あと1ピース入れれば完成するジグソーパズルが置いてあった」
急にいなくなった度合い:小
パズルをあてがう時間もなく、いなくなった。
「子供が楽しげに、母親の上着らしい服を手に引いておもちゃコーナーへ向かう」
急にいなくなった度合い:高
一方で、母親の空蝉の術の可能性もあり。
「飲んでいたスープが宙に、食道と胃を形作っていた」
急にいなくなった度合い:高
体内に取り込もうとしているものすら置いて急にいなくなるとは、なんだか律儀。
「トイレの水面が揺れている」
急にいなくなった度合い:中
最初はこれが思いついているものの中でベストでした。
=====
さっそく使ってみよう。
「私が少しだけ目を離したあいだに、彼女はこつ然と消えてしまった。あまりに突然だった」
「そこには、おんぶされていた子供が浮いてすらいた」
・・・まず子供をとらえてみるところから始まりますな。

おいしいコーヒーのいれかけかた

「入れたばかりのコーヒーすらあった」
こういう文章に出会ったのはいつ頃だっただろうか。
恐がりのくせして「世界のミステリー大百科」みたいなやつを見たときか。
あるいは怪奇小説か、ジョジョか。
いわゆる「急に人がいなくなりました」を表現しているこれは、どれほどに当初の僕をビビらせただろうか。
なんせ「入れたばかりのコーヒーすらあった」わけで、それは「いなくなる」要素が少なくとも本人には全くないことをすばらしく端的に表している。
故の、意識せざるを得ない、よくわからんものの介入。
なんなんだ介入。
コーヒーも飲ませてもらえないくらいの、急の介入。
そのスイッチを知らぬ間に押してしまって、自分も近いうち急にいなくなるんじゃないか。
そう思うと、せめて自分のいた形跡でも残そうかとコーヒーをばんばん入れてしまうわけである。
「たくさんの入れたばかりのコーヒーすらあった」
最初のほうのはもはや「入れたばかり」とは言えないし、「すら」じゃないだろう、「すら」じゃ。
次回
「急に人がいなくなりました」を違う表現でやってみよう。

らんま3/2

昨日から。
【あらすじ】
「らんま1/2」の「1/2」を変えて遊ぶ。
一昨日:らんま1/144
昨日:らんま5/8、5/9
=====
今回は分子の大きいやつを考える。
「らんま29/6」
こういうのだ。
例えば「11/7」のように月日に収まる組み合わせの場合は、昨日提案したように、誕生日5月9日のように考えればいい。
しかし29/6だ。
割り切れもしねえ。
らんまはいったいどうなってしまったのだろうか。
少なくとも、このときのらんまは「水をかけたら女、お湯をかけたら男」のようなメリハリの効いた状態ではないだろう。
「いつもは6だが、このときはおよそ29のちからを発揮できていた」
「いつもは一人だが、このときはおよそ5人いた」
これあたりが一番しっくりくるだろうか。
あるいはやはりサイズか。
「いつもは6フィートだが、あのときは29フィートくらいあった」
どちらにせよ、らんまはいったいどうなってしまったのだろうか。
そして「余り」の存在だ。
商が1以上になるものだから割り算をしたくなるが、対象がらんまという人である以上、小数点は控えたい。
そうなると余りはどう考えればいいのか。
29/6だと、商が4、あまり5。
4倍、あるいは4人のらんまと、らんまに足りない何かが5くらい。
肉片か何かだろうか。