エスカレータ

エスカレータの、足元の階段可動部と手すり可動部が同じ速度で運用されているという勘違いは、時として重大な事故を引き起こす。
現代社会においてエスカレータは、それほど珍しいものではないため、実験を行うことができる。
やってみたまえ。
乗った後、両手をベルトにかけておいてみたまえ。
下の階に到達する頃には、ベルト側の速度の方が速いことを実感できるはずだ。
あなたはそのとき、スキーのジャンプ競技、ちょうど最高地点での選手の姿勢のような状態となっているだろう。
乗った後、両手をベルトにかけておき、そこで体重を支え、両足を浮かせてみたまえ。
下の階に到達する頃には、ベルト側の速度の方が速いことを実感できるはずだ。
人よりちょっと早く、到達しているだろう。

えびにギプス

えびは、外敵から逃げおおせるために、その尻尾(腹?)を増強し、びょーんと後方へ移動する手段を得た。
しかし人間にとっては、その増強部分がおいしい。
今紀、えびはかつてないジレンマの真っ只中なのである。
「人間は道具とか使って、僕らを一網打尽にするからな・・・」
えびが次にびょーん機能を失うことを進化の道として選ぶなら。
ちょっとした問題となるだろう。
漁師がわが目を疑う。
「か、母ちゃん、これ見ろよ!!。え、えびの尻尾が・・・。」
たこはわが触手を疑う。
「お、お前、どうしたんたこ、その尻尾・・・。」
彼らは、えびの価値であった尻尾が見るも無残な状態になってしまったため、驚き、困惑したのだろうか。
僕は違うと思う。
えび本来のアグレッシブさは、全てあの尻尾に集束しているのである。
はじけてないえびは、悲しすぎるのだ。
屈強な大男が皿を前に右往左往してこそ、えび。
おがくずをはねのけて暴れるこそ、えび。
だから、だらりとした尾を引きずるえびに、漁師ら、たこらは涙する。
しかし、この悲しみはえびにとどまらない。
かには、外敵と戦うもしくは防衛のために、その腕を

紫煙八景・受動の域

「カマキリにヤニを舐めさせると、酔う」
とにかくソースが思い出せない。
何かの漫画に書いてあった気がするが、ネットで検索してもひっかからない。
嘘かもしれない。
だけど、この話でいぢりポイントとなるものは、その真偽にそれほど左右されないので、安心だ。
なんたって、カマキリなのである。
この話は。
「カマキリは、何かを口に付けられると、舐めてしまう。」
この点に尽きる。
このことは、カマキリに
「口に付いたものを拒否する考え」や、
「口に付いたものを拭き取る機能」がないことを意味している。
かなり潔い昆虫である。
もし、何かの縁でカマキリと心中を図らなくてはならないときは、毒の入った暖かいお茶などでよいだろう。
彼女がそのコップに口を触れたとき、心中躊躇の懸念は消え去る。
咀嚼も嚥下も貴方次第。
そういえば、蚊は「吸い続ける」ことしかできないような話を聞いたような気がする。
蝶も細長い口を持つが、あれは毛細管現象かなにかで液状のエサを吸い上げているような話が、艦内放送で流れたことがあるような気も。
どちらも、「何か知らんけど、勝手においしいものが上がってきました。」感がある。
もちろん、それらが「動物の皮膚」「花」にたどり着いての行動であるならば問題はないが、何故かそれが「たばこのヤニ」だったら、彼らはカマキリのように拒否権がないのかもしれない。
今度、たばこをたくさん吸う人の口を、よく観察しようと思う。

比率

僕が井上陽水のコンサートに行くのを人に喋ったときの「ライブ」という言葉と「コンサート」という言葉の使用頻度は、ほぼ同じだったようだ。
※あとから「コンサートどうだった?」「ライブどうでした?」をなんとなく集計した結果
なので、僕にとって井上陽水は「ライブ:コンサート=1:1」のミュージシャンであると言える。
自分で言っておいてなんだが、なかなか僕の井上感を的確に表しているような気がする。
それに、この考え方は結構わかりやすい。
例えば「笑点」について、僕の「笑点感」を考えてみたら、
「大喜利:マジック=1:1」となった。
あまり笑点を見ていないので申し訳ないが、それでも僕は「笑点で大喜利とマジック以外のことをやっていたら、それは笑点ではない」と断言する。
これほど強気に言えるのは、繰り返すが何よりも「笑点は大喜利:マジック=1:1の存在」であることは揺るがないわけだし、しかも「笑点で大喜利とマジック以外のことをやっている人たちは、むしろ自分達がやっていることは笑点ではないよ、と思われたいのではないか。」と感じているからだ。
この考え方だと、僕の「12チャンネル感」は
「12chらしさ:処刑ライダー=1:1」というところだ。
「12チャンネル感」に「12chらしさ」というのは難しいところだが、まぁ回帰的な何かだ。
僕における「12チャンネル感」の面白いところは、「12チャンネル」から「12chらしさ」を除外したら「処刑ライダー」しか残らない点だ。
「俺からマラソンを取ったら、何が残るんだよ!?」というセリフがあるが、実際にマラソンを奪ったとしても、彼は食い、遊び、考え、笑うことができる。
しかし12チャンネルではそうもいかない。
残念なことに、12チャンネルから12chらしさを奪ったら、処刑ライダーが残る。
いや、残ってしまうのである。
そして、残ってしまったものがなんとも12チャンネルだなぁ、という点が、12チャンネルの12チャンネルたる所以だ。
最近の12チャンネルでは処刑ライダーをやっていないようだ。
12チャンネルの人は考えてもらいたいのだが、12チャンネルは12chらしさだけで12チャンネルになっていると思っていたら大間違いだ。
なぜかお昼に映画枠がある、その意味を忘れないでもらいたい。
お色気シーンが時間的にそぐわないようだったら、深夜でも構わない。
処刑ライダーの定期的な放送が、12チャンネルを維持するのだから。
・・・
でも、時代は変わった。
僕の12チャンネル感は既に過去のものであることは明白だ。
あんまり見ないうちに、変わったよな、12チャンネル。
若者の集う放送局、テレビ東京。
あのCMのコピーも、かなり若者向きだ。
「ホップ!! ステップ!! 12チャンネル!!」
・・・最後に嘘をついてしまった。
追記
マジックの内訳は「マギー:ナポレオンズ=2:1」だ。

あて先のない手紙その3

昨日(おととい)からの続き。
【あらすじ】
ついに合体を果たしたブレイザー。
しかし合体のたびに、ブレイザーの右ひざジョイント部分に「薄幸の美壮年アールフォリア」が挟まれなくてはならないという仕様が判明する!!。
「なんでそんな設計にしたんだ、常盤博士!!。」
アールフォリアの深く刻まれた眉間が、さらにその深度を増す。
おととい、「人間は何を求愛ダンスの代替としたか」とか書いちゃったので、触れてみたいと思う。
例えば、男性は女性にプレゼントをすることによって、気をひかせようとすることがある。
この「プレゼントをする」行為は、人間の「求愛ダンスの代替行為」であるといえるのだろうか。
ここで、ひとつの事柄を挙げなくてはならない。
「男性は、女性のいないところでは、大抵求愛ダンスの練習をしている。」
これはあまり知られてはいないが、事実である。
実は「求愛ダンス」は人間にも見られる行動なのだ。
多くの男性は、夜半にむくりと起き上がり、15分ほど、居間や公園でステップの確認をする。
畳やフローリングなど、足場の違いが、ステップに影響するから、その確認なのである。
この「求愛ダンス」については、男性同士だとそこそこくだけて話すことのできる、日常的な出来事であるが、女性がいたら、厳禁となる。
それは、単純に「バレたら恥ずかしい」というのもあるが、それ以上に、法的に「求愛ダンス、バラすな」と規制されているからであり、それが「あまり知られていない」原因でもある。
※このことは「求愛ダンス」の効力の強さが尋常でないことを示している。
古書には「求愛ダンスを見せられたものは、必ずハート型の矢じりをした矢で狙撃されるであろう。」とある。
また、高名な学者によると、通常の求愛宣言の効力がメラだとすると、求愛ダンスのそれはイオラほどの効果(範囲)が認められたという。
夜、旦那や恋人が、夜な夜な起きだしてどこかに行くということはないだろうか。
それは、トイレや台所ではない。
たいてい公園や校庭に赴き、日夜ステップの向上に励んでいるのである。
見てみるといい。
前日に、キレイに整地されたはずの校庭が、朝には乱れているはずだ。
雪の日などで、朝早くなのに、すでに足跡のついた場所がある。
女性は「朝早くからの散歩ね」とか思うが、それを見た男性は
「朝稽古、ごくろうさん」と思っているのだ。
このように、その行為自体は禁止されているが、練習その他は問題ないため、かなり公に「求愛ダンス」は存在している。
月刊誌もあるくらいだ。
ゆえに、これだけ男女がいるわけだから、故意でないとしても「求愛ダンス」のことに気付かれてしまう危険性が常にある。
ある女性が「あの人、夜な夜な起きだして、何やってんのかしら」となり、求愛ダンスのことに気付いてしまうことは、充分に考えられるのだ。
事実、バレそうになったシチュエーションとして多く報告されている(注)のは、深夜こそこそ起きだすのを不審がられるということが発端であった。
この点について、事態を重くみた国は、かなり大規模な仕組みを施行した。
深夜は、男性向け番組が多い。
これは「求愛ダンス」がバレそうになったときの言い訳として使用されることを目的とした放送なのだ。
例えば、女性が「あなた、今求愛ダンスの練習してたでしょ!!。」と来たとき、男性側は
「うん?。今、ギルガメッシュないとの録画したやつ、見てたけど?。」
「A女E女見ようと思ったけど、あれってすぐに放送終了しちゃったんだよね。」
と切り返すことができるのである。
男性側としても、「A女E女」を持ち出すのは少々忍びないが、バレたら
「炭酸を飲んだあと、「アー」と言ってはいけない。」などの微妙に嫌な刑を処せられるので、持ち出すのだ。
あなたの近くの男性も普段は、何かのたびにお腹をぽんぽん叩いたり、足の指の間のごみをつまんでいたりしているかもしれないが、実は日夜パッション炸裂なのかもしれないのである。
近づいてみて、「なんかこいつ、パッションだな」と感じたら、その男性はほぼ練習後とみて間違いない。
その後、何かしらの危険を覚悟せねばならないはずである。
このようにして、現代社会を、男性は生きているのだ。
「求愛ダンスが法的に規制されたのは、その効力があまりに大きく、求愛の対象となる人以外に、近くの人にも影響を与えかねないからだ。」
この政治家は、次のように話をしめたと言う。
「ダンスは、個人に求愛する用途には向かないようだ。不特定多数への発信。それはあて先の書かれていないラブレターのようなものなのかも知れない。あ、ぼくぺヤングね。」
(注)
2003年6月 ダンスファンより

ウランに青い飴を与えるな

世代の違う、特に年下の人との会話は、難しい。
なんたって「世代が違う」のである。
しかし我々は、往々としてそういうシーンを経験することが多い。
どこぞの親戚が小学生を連れてきただけで、いやおうなしに迫られるのだ。
「年下の人との会話」が。
一昔前の小学生男子との会話は、とりあえず「ポケモン」さえ出れば万事解決であった。
今はなんだろうか。
女子になると、小学生でも人によって独特で、会話内容に閉口してしまうことがある。
方向としては、相手が話す内容を広げて、それにかぶせて話す、といった感じか。
※男女ともに、猫などのツールがあると、会話ではないが場をもたせるのが楽である。
一方、いろんな人との出会いを経たような年代になると、男女問わずに適当な会話ができる場合が多い。
僕が思うに、一番こういうシーンで困るのが「思春期の女子」ではないだろうか。
男でも女でも、「思春期の女子」を前にしたら、電波少年のアイマスクを取った瞬間を味わうに違いない。
人間の人生の種類において、最も共有できる話題が少なく、ユニークであるのが「思春期の女子」時代な気がするのだ。
会話相手のこちらがおっつけないほど、先鋭的であったり、快活であったり、逆に内向的だったり。
いい意味でも悪い意味では「手が出せない」状態になりそうなのである。
未来、人型ロボットが作られたとしても、おそらく「思春期の女子」型が、色々な意味をもたせなくても一番高価になるだろう。
御茶の水博士が「アトム」や「ウラン」の年齢設定をあのようにした理由は、「思春期の女子」型AIが作製できなかったのではないか。
「思春期の女子のモデルが、明瞭にならない。」
「やつら、俺の鼻のことを異様だと思ってやがる。」
また、もしできたとしても、その年齢設定から「思春期の女子」をはずしたことが、これまた色々な意味で、なんとなく理解できるのである。