「鈴木先生」が面白かった。
絵とか怖いけど。
その何巻かのときに「ひかりごけ」の劇をやるというシーンがあった。
いつか文庫本を買った気がする。
全然内容を覚えていなかったので、原作を読もうとそこらをあさってみたが見つからない。
そう言えばなんで文庫本を買ったのだろう。
正直、タイトル買いするようなものではない、というとうそになる。
案外、こけとかきのこは好きだ。
ipod touchを持っているが、おそらく一番使用しているアプリは「日本のきのこ」とかいうやつだ。
分類とかは難しいのでよくわからないのだが、きのこの写真がきれいなので暇なときに見てしまう。
「きのこが朝露で光る、すがすがしい高原の朝」
そんな感じの画像が、特にきのこが好きでなくても心にぐっとくる。
「ひかりごけ」もそういう背景のもと、買ったっけか。
「こけが洞内を薄く照らす、黒洞々たる洞窟の朝」
洞って字、多いね。
しかし「日本のきのこ」によると光るきのこ「ツキヨタケ」は毒性を持つらしい。
毒はいやなので、それを連想する「ひかりごけ」をタイトルから買ったとは考えにくい。
ではその内容だろうか。
「ひかりごけ」というと、どうしてもクローズアップされるのがカニバリズムだ。
その一見ショッキングな事柄に興味を持ったから買ったのだろうか。
でも私見だが、カニバリズムの何たるかを「ひかりごけ」に求めるのは致命的にだめだ。
もちろんその意味は多岐に渡るのだろうが、どちらかというと民俗学や世界で起きている該当事件の背景、チンパンジーや枯草菌の論文とかミイラを薬用として使用していた歴史とか。
こちらの、今一生懸命調べたばかりのやつのほうが、よほど有用だろう。
「チンパンジーが手のひらで目を隠してくちびるの裏を見せる、話し声のしない朝」
そういえば「ヒカリゴケ」というお笑いの人がいる。
何か関係があるだろうか。
どうであれ、文庫本は見つからない。
「へえ黒洞々ってこくとうとうって読むんだ、探しものの見つからない朝」
投稿者: nimbus7942
店ができている。
よく行っていた中華屋さんが閉店したので、残念だ。
チャーハンがおいしかったのに。
しかしその建物を利用して、また別の何かの店がやる様子。
工事の人がきれいに建物を塗装していた。
2日後、その塗装を見た僕と知人の意見は同じだった。
「あの中華屋さんは、沖縄そばの店に生まれ変わる」
詳細は省くが、複数人が「沖縄」を連想する。
そんな塗装の店が、いったい何なのかは、まだ分からない。
僕はけっこう、パクチーが好きだ。
マツモムシを連想させるにおい、味にはノスタルジックなものを感じる。
いつぞや書いたけど、それは「昔マツモムシをとった池の周りに松の幼木みたいなのが生えていた」ためで、僕にとってマツモムシと松は切り離せず、松のような独特のフレーバーを放つパクチーとマツモムシも、切り離せなくなってしまったためである。
例の店が、八百屋なのではないかという噂を耳にした。
おいしい中華屋が、八百屋に。
ちょっとそれはないんじゃないか。
沖縄を連想させる塗装の八百屋になってしまうのか。
食べにいく所ではないのか。
もし八百屋ならば、せめてパクチーを売っていてほしい。
確か経堂とかにパクチー専門店があるらしい。
行ってみたいがめんどくもある。
この中華屋跡地ならそんなめんどくない。
パクチー専門店とまではいかなくても、それを売ってくれるのなら、許そうじゃないか、八百屋を。
いや待てよ。
なんだかパクチーはそこらの八百屋には売っていないかのように書いてしまったが、本当にそうだろうか。
売ってるんじゃないのか。
もしそうだとしたら、できる八百屋は結局普通の八百屋で、僕シフトの売りがないことになる。
やっぱり八百屋はいやだなあ。
いったい何なんだ。
お前はいったい何の店なんだよう。
そんな沖縄カラーの店が、いったい何なのかは、まだ分からない。
棒高跳
「圧倒的に短い棒が用意された棒高跳び」というものがあったとする。
たぶん、綿棒とかだ。
綿棒が棒高跳びの「棒おきば」にあって、それを一本手に取ると、5mとかの高さに設置されたポールを超えるべく、走り出す。
そしてその瞬間、綿棒を地面に叩き付けてジャンプ!!。
もちろんこれでは、誰も「上のポールを飛び越えようとしている」とは考えないし、そもそも棒高跳びだとも思わない。
でも一度人類が滅びて、「棒高跳び」文化がその言葉以外消え去ったのち、それを再現しようとした未来の人たちが現れるとしたら。
そして「棒高跳び」という言葉を記した文献近くにたまたま綿棒があったなら。
おそらく上記のようなこと、もしくは綿棒をポールに向かって投げる、というようなことをやるだろう。
そしてこう思う。
「昔の人は綿棒を叩き付けた反動であの高さまで飛んでいた」
「この軽い綿棒をあの高さまで投げられる、肩の強さだった」
少し伸びたら
人形には霊的なものが入り込みやすいと言う。
真偽は全く分からないが、分からない以上そうなんですかと当たり障りのない感じになってしまう。
しかし気になることもある。
どんな人形にでも入り込めるのだろうか。
よくあるところの「日本人形」のたぐい。
ただでさえ良く出来ていて怖いのに、そんなものが入ってしまっては大変だ。
と、逆を言えば良く出来ているからこそ入り込めるのかもしれない。
「きれいにやすりがかけられ、エアスプレーで仕上げられたノーベルガンダム」
ガンダムに詳しい人なら、今回の着地点がわかっただろうから、着地点替える。
良く出来ていると言えば「きれいなプラモデル」だ。
プラモデルの枠と部品が引っ付いている箇所をやすりできれいにし、目立たないようにする。
エアスプレーできれいに塗装する。
きれいなプラモデルは、いじって遊ぶには惜しいくらい。
だから、冷却フィンが少しくらい伸びたって、むしろそうなんだ、とくらいになるかもしれない。
うーん、リアルロボット。
「きれいにやすりがかけられ、エアスプレーで仕上げられたガンダムナドレ」
前の着地点、近っ!!。
「ターンエーガンダム」「ユニコーンガンダム」「ドーベンウルフ」「アッグガイ」
あーもうガンダムには伸びたらいいところいっぱいあるな!!。
ということで、プラモデルに霊は入り込めるのだろうか。
あるいは入り込んで、髪やらひげやら角やら紐やら触手やら、いいとこ伸ばしてくれるのだろうか、ということである。
おまけ
「店頭に立つケンタッキーおじさん」
これは入り込む理由がないかも。
せっかくひげが伸びたとしても、腐食とみなされそうだから。
効果音
「彼の乗っているエレベーターがこの階につき、戸が開いた」
「がらがらがら」
今聞いていた何かで、実際そう言われていた。
今のがらがらがらも、あるいは電話の「ジリリリリーン」。
灯りを消すとき、紐を引っ張る仕草など、昭和を惜しんだ「面白いでしょポイント」を仕込むのは、既に行われていることも手伝って、なかなか勇気のいることだ。
しかし僕はこれに弱く、楽しくなってしまう。
いつだって戸はがらがらがらって音を出してほしいし、電話全般は黒電話を師と仰いでもらいたい。
スイッチのついた機器は全て紐を引っ張る式の方が面白いじゃないか。
今後これらが取って替えられるとすると、どうなるのだろう。
現在の多くの戸は音もなく開閉するし、電話が発する音は多様だ。
スイッチを入切する動作は指先一つだからこじんまり。
残念だ。
新しい音、雰囲気を表す言葉を作るのにも、それではすぐ足らなくなるだろうし、そもそもそれに汎用性を持たせるには人の認識能力にも多様性がありすぎている。
これらのものには将来「がらがらがら」や「ジリリリリーン」以上の表現アイテムが手に入れられる可能性はないのである。
この残念さは、ちょうど扉や電話に相当するもの、手動で操作する必要のある機器が全くなくなる未来まで、続く。
ロケットパンチ。
昔あった超合金のロボットは、必ずと言っていいほどロケットパンチを標準装備していた。
僕もいくつか持っていたように思うが、それもやっぱりロケットパンチがついていて、よく手首から先がなくなってしまうのだった。
さて、そんな手首の先。
これまた必ずと言っていいほど拳をにぎっていてしかも穴があいているんである。
このことが示しているのは「このおもちゃにはアクセサリがあります」だろう。
何かの光線銃だとか、剣だとかだ。
ただ、確かに銃を持った拳がロケットパンチとして飛んでいくさまはなかなかいいが、とらえ方によっては別のことを示している気もする。
「何かにぎりたい」
あの拳はにぎりたがっている。
かつてあんな雄弁な拳があっただろうか。
それは男の証でもなく、力の象徴でもない。
にぎることに一直線の拳だった。
そう考えると、たいていつまようじを持たせていた僕の行為は許されるものじゃない。
スター気取りで。
「目をつむると星の見えるコンタクトレンズ発売」
眼球に対して電気信号を発することで、あたかも星空が見えるというコンタクトレンズが開発された。
リラックスして目をつむると、それを感知。
迫るような星空を体験することが出来るという。
しかし発売は見送られた。
寝ようというとき、なぜか目を閉じた使用者のまぶたが光を発し、室内灯を消した天井に星空を投影してしまうことがわかったからである。
一艘多く飛んでいます。
「八艘飛び」で気になるのが「自分の乗っていた船も合わせたのか」という点だ。
僕は歴史に明るくなく、「はっそうとび」というものも女神転生というゲームの何作目かで登場したのが初見だ。
それ以来、ずいぶん「八艘飛び」のことなんて忘れていたけど、なんとなく「八艘って?」という疑問が生じ、特に何もせず現在に至る。
「8艘飛んだんだから、八艘なのだろう」
確かにそうだ。
しかし、以下どれも「8艘飛んだ」と言えないだろうか。
・八艘飛びに関わった船が計8艘あり、その一つに義経在住。一番はじっこの船まで逃げ飛んだ。
・関わった船が計9艘あり、その一つに義経在住。一番はじっこの船まで逃げ飛んだ。
・関わった船が計10艘あり、その一つに義経在住。一番はじっこの船まで逃げ飛んだ。
・関わった船が計8艘あり、その一つに義経在住。一番はじっこの船から海へダイブ。
あれ、なんでまた僕のパソコンは「はじっこ」が「恥じっこ」って出るかな・・・。
要は数え方で、その見事な跳躍の場面で船が8艘あったとしても「八艘飛び」と言って良さそうだし、飛び歩いてその終着が8艘目でも、8艘目をちゃんと飛び越えたというのもしかり。
ちゃんと文献を調べればわかるのだろうか。
なんとなく計10艘のやつは「九艘飛び」って言っても誰も文句ないんじゃないだろうか。
いや待てよ。
確か「八艘飛び」は義経が迫ってきた敵を回避するためにとった行動だったはず。
考えようによっては逃避であるわけで、「より遠くに逃げました」となってしまう「九艘飛び」は義経にとって是か非か。
もうこれだから歴史ってやつは!!。
沸騰石がレンズを汚す
この間、CFで「耐熱性に優れるメガネを、ビーカーで煮沸する」というものを見た。
普通はメガネをそんな風に殺菌することもないし、だしを必要とすることもない。
煮沸しない。
その分見た目は面白く、「煮てる煮てる」と思った。
表現したいのは耐熱性だ。
メガネを煮沸したりはしないのだから、もっと低温(煮沸と比べて)のものを使用してそれを表現してもよかったのではないか。
あるいはとびきり高温で試してもよかったのではないか。
「従来のものは30秒で燃え尽きますが、このメガネは35秒です」
煮沸を用いたのはおそらく「日常生活で触れることが多く、かつ高温」である、なべを上から覗き込むというシーンを考慮したからだろう。
ガスによる火の方が高温だが、そこへメガネを落とすシーンは考えにくいし。
おみそしるだろうか。
あの中に落としたときのことを、このCFでは取り上げてくれているわけで、それはなんとなく大村崑を思い出させるが、確か紹介されていたメガネのデザインは彼のものっぽくはなかった。
気になるのが、今までの耐熱性がそれほどでもなかったメガネをおみそしるのなかに落としたとき、どうなっていたのかということ。
CFでは従来品との比較がされていなかったように思う。
そもそも煮てたが、それ以上のことは紹介されず、実は取り出そうとしたらでろりとなったりするんじゃないかという邪推もできたりもしちゃう。
そこにきて従来品の熱に対する危険性だ。
従来品入りのみそしるを口に含んでいたりするんじゃないだろうな、俺。
CFに追加挿入で「従来品はこうなります」を入れてはもらえないだろうか。
実は耐熱性の向上したものと同じ、煮沸くらいではどうともならないのだとしても、日常的に触れる高温のものとして上位である煮沸を耐えたことにはかわりないのだから、まあいいだろう。
一方で「従来品はこうなります」で水銀みたいのが入ったビーカーが映ったとしても、それはおもしろいから。
あぶらとり紙の透かし方。
「ひとかけのラードをなくすには、あぶらとり紙何枚必要か」
それほど話も広がらなそうあるいは作為的にも、これは一言ネタのようにでも使用かと考えていたが、書いちゃった。
作為的という点は主に下ネタが思いついてしまったからで、男としては全然作為的じゃない、かなり自然発生的な何かだが、まあブログ内容としては何となく避けがちなものである。
「ひとかけのラードをなくすには、あぶらとり紙何枚必要か」
この疑問を解消するためには相応の機構を考えると分かりやすい。
かなり原初的かつ有効なのは、あぶらとり紙製造所に忍び込みことから始まる。
そして、それの製造段階のあるパートを担っている区画を探し出す。
これは「あぶらとり紙は最初でかくて、それを切って商品にする」という憶測が混じっているが、その区画に「ロール上になっている」「でかいあぶらとり紙が1枚ずつ引き抜かれる」いずれかのシーンを期待しているのだ。
そしてロールならそれを回しているときにラードの小片をあてる。
でかい紙なら、引き抜かれる方向とは反対のところに、やはり小片をあてる。
これで、ラードの付いたロール全長あるいはでかい紙枚数分長を、商品あぶらとり紙長で除して答えが出そうだ。
以下、作為的に考慮した方。
一時期、今でもあるのだろうか。
女性、主に中高生の下着を販売する店があった。
いわゆるブルセラ病である。
この下着の大量生産について思ってしまったのだ。
こう、かかったYシャツが流れてくるところに、腕を上げて脇をさらした女子高生が椅子に座ってケータイをいじっている。
これで使用済みYシャツのプロマス実現である。
例はかなりマイルド指向だが、どんな場合でもこのブルセラ病。
実際やっていたとしたらその絵はかなり面白い。
一瞬、何やってんのか分からない。
ずっと見てても分からないかもしれない。
ずっと同じ脇だと擦れるから、そうか。
この午前の絵と午後の絵で座っている位置が違うのは、そういう意味があるんだね。
そんなこと、分かんなくていいかもしれない。
以前触れた気もするが、ほぼ同じ方法で「有名人サイン」なども、ただ一筋の線としてなら、大量生産は可能だろう。
ただ、どれにも言えることは「ありがたみがなさそう」だろう。
大量生産に対して「ありがたみ」がどうこうなんてのは昔からいろいろ話があるわけで今更な気もする。
しかし今回、「ラードの付いたあぶらとり紙がそこそこ出来てしまう」らしいので、ちゃんと言及しておいてみた。
寝ます。