リンケージ、ミイラ。

ミイラというと近所で見かけるようなものではなく、よくゲームや映画などで見かける。
僕のイメージは「包帯が全身にぐるぐる巻かれた人」だ。
おそらくあの包帯をほどいていくと「さけとば」みたいなものが出てくるのだろうが、それにしてもなんで包帯が巻かれているのか。
包帯でぐるぐる巻きにしなくてはならないくらいの重傷の人が亡くなり、それが干からびたという設定なのか。
あるいは自分のさけとばを見られたくないという、ミイラなりの羞恥心なのか。
それともミイラが昼間寝ている時(たぶん寝ている)、身動き取れないように牧師(たぶん牧師)が巻いたのだろうか。
どれかは分からないが、最後のやつだとしたら牧師さん、体にフィットするように包帯を巻いては拘束になりませんよと教えてあげたい。
わたすの記憶がたすかならば、確か昔、日本はどこかからミイラを輸入していたはずだ。
そしてそのことをいつか書いていたはずだ。
ということでそのことではなく、「ミイラがたき火をしたいとき、まずは包帯、次に左すね」とかを考えてみよう。
ミイラが暖をとりたくなるというくらいだから、相当寒いに違いない。
そんななか、ミイラが一人、包帯を脱いでいる。
火種はどこかにあったのだろう。
燃えていく包帯に向かって両手を広げている。
生前の記憶があるのだろうか。
ときどきその両手を口にあてて「はぁーっ」と息を当てようとするが、そこから出るのは暖かい息ではなくて何かの粉だ。
かわいそうだ。
そして、消えゆくたき火に対して、彼彼女はおそらく自分の体がぜんぶ燃えやすそうな事に気づく。
死蝋というものが頭をよぎるかも知れないが、頭は空に近いので頭をすーっとするかも知れない。
さきほどは左すねなどと話を濁したが、結果的にはたき火に投身してしまうだろう。
そのとき、はれてミイラはイフリートとかいう「火の妖精」デビューを果たす事ができる。
よかった、ミイラ。
寒いのは悪い事ばかりじゃない。
ちなみにミイラのイフリート歴は2分くらいです。

リンケージ、X-メン。

ずいぶんと昔だが「X-メン」の格闘ゲームがあり、僕は「アイスマン」というキャラを使っていた。
全身つるっつるの彼は包装されているようであまり強そうではない。
たぶん氷でできているのだろうから透明で、内臓とか見えてそうだし。
しかしいわゆる「波動拳」として出せるビームがカッコよく、一試合に一度くらいしか出せない必殺技は北海道で見られるというダイアモンドダストを彷彿とさせる、微小な氷の結晶が胸元あたりから放出する技だった。
これは、奇麗なのだがこの人から出ているのを知ると幻滅する。
そんな感じであり、そのへんをまとめて好きなキャラクターだった。
さて、実は「アイスマン」というと僕の麗しの持ちキャラではなく、もう一方の「アイスマン」の方が有名だ。
それは1990年代前半にどこかの何かで見つかった昔の人のミイラで、5000年以上も前の人なのにミイラ化していたことにより保存状態がよく、当時の環境や文化、ヘタすると世相までをも彼から得られると話題になったのだった。
僕はミイラの方のアイスマンを知った時、何となく「ミイラの方のアイスマン」と持ちキャラの「アイスマン」に埋まらない差があるような気がした。
それは「ミイラの方のアイスマンが毛深そう」なのに対し「持ちキャラの方のアイスマンはつるっつる」という点で、まあこれ以上の印象は持たなかった。
しかし今回、wikiで「ミイラの方のアイスマン」を調べてみるとどうだ。
彼についてはいろんな事が調べられている。
彼の服装、死因はもとより、持病や遺伝学的な調査により懸念される病気、体質なども調べられてしまっている。
「ミイラの方のアイスマン」も、5000年後に腰痛を指摘されるとは思っていなかっただろう。
このように「ミイラの方のアイスマン」にプライバシーなんてものは存在せず、それはちょうど氷でできているらしい「持ちキャラのアイスマン」の丸見え状態と妙に符合を見せるというのは、多少無理がございますでしょうか先生。

リンケージ、目。

目というのはその性質上、潤っている感じが出るため、他の器官とは一線を画す。
また、人間というのものが視覚に頼った生き物であることも踏まえると、「視線」というものが何らかの意味を持つと思われるのも致し方ないのかもしれない。
邪視という概念は各国で見られ、それは「テレビを見るときに顔を斜めにして横を見るような感じになる」という、僕が幼少の頃よく親に怒られたくせのことではなく、不吉な視線とでも言うか。
邪視を持つ人に見られると不幸になりますよ、と邪視本人がいい人だったらさぞ苦痛だろうという能力のこと。
自分が使えるなら便利、なんて気がしないでもないが効果が不吉方面ばかりとなるとあまり用途はなさそう。
要は、相手を不幸にするという、RPGの妖術士めいた、父兄参観のときに子供に発表してほしくない職業の筆頭なのである。
まあ邪視が職業なのかはさておき、何となく気になるのは「邪視の人が鏡で自分を見たらどうなるか」ということで、これはおそらく「邪視が鏡で跳ね返ってくるが、その跳ね返り先は鏡を見ている」みたいなことになり、ちょうどメデューサが鏡で自らを見ると石になってしまうという方面になるというよりは、「全身がぽかぽかしてくる」といった効果程度が関の山ではないかと考える。
話は変わってX-メンのサイクロップスなんかも邪視の持ち主で、視線を送った相手に不幸を与えそうだ。
だが、これは何となく「邪視というものが後々不幸をもたらす」感じと思っている人にとっては多少違和感があるに違いない。
サイクロップスの邪視はかなり即物的に相手を不幸にしそうだ。

リンケージ、いか。

烏賊というとタコやバボちゃん、かびるんるんと同じ頭足類。
大きいものは数メートルの体に長い触手がついており、海で唐突に出会いたくない感じ。
他に類似したものがいない点でも、妙な気分にさせる生き物である。
小さい頃に彼らの活け造りを食べた事があるが、その皮膚は刺激に合わせて色素が明滅し、とにかく食べる前にいじり倒してしまった。
罰当たりではあるが、その不思議さに触れた初めての事だったように思う。
さて、イカやタコはかなり精巧な目を持っていると聞いた事がある。
確かにスーパーで見かけるスルメイカの目を見てみると、キラキラしている。
何か精巧そうで、「目」っぽい。
虫や両生類、鳥類よりも、ある種の人類と比較しても「目」っぽい。
そして世界で一番大きい目を持つのも彼ららしい。
海で唐突に出会いたくない感じに、拍車がかかる。
海の中でどれほど役に立つかは分からないが、その目で人を捕食対象としてだけは捕らえてほしくない、なんて思ったゴールデンウィーク最終日。

リンケージ、オノマトペ。

「草ぼうぼう」の「ぼうぼう」のぼうぼうっぷりはさすがで、茂みまくっている感じがよく出ている。
いわゆる「わんわん言葉」というものに僕は何度か注目してきたが、そのシンプルゆえに伝えたいことがよくわかる。
オノマトペとして洗練されたそれは、いつでも魅力的に見える。
ところで最近知ったのだが「いかいか」。
どうだろう「いかいか」。
何も知らない人がこれを聞いたら、十中八九「イカ型ポケモンの鳴き声」と答えるのではないだろうか。
あるいは居酒屋でイカの一夜干しあぶりがなかなか出てこなかった時や、「イカ型怪人のかけ声」などと、どうしてもイカ型の何かが関わらなければ聞けないと人々が考えるのは想像に難くない。
実はこれ、昔の文献にある「赤ちゃんの泣き声」だというのだ。
昔の人は耳が少し変だったか、昔はひらがなが「い」と「か」しかなかったか、昔の赤ちゃんはちゃんと「いかいか」泣いていたか。
いづれかは不明だが、何だこの怖さは。

リンケージ、バッタ。

河原にいるから「カワラバッタ」とは、もう労力ぜんぜん使いませんでした、という感じのネーミングだが、一方でバッタを「バッタ」と名付けたやつはすごい。
もう我々は祖先からの「バッタのことをバッタと呼ぶ情報操作」にやられてしまっており、もはやバッタを「バッタ」以外で表現できない。
無理してやるとしても「緑色で跳ねる」などの連想ゲーム、あるいは「跳ねゆく者」など通り名風のもの。
どちらもバッタの「バッタ」らしさや破壊力が乏しい。
さて、そんなバッタだが、僕にとってバッタは「草むらを歩いている象徴」みたいなところがある。
歩いているとき、少し前の場所からバッタが跳ねたら「ああ、僕は今、草むらを歩いているんだな」と感じるという事。
逆に言うと、どんなに草ぼうぼうな場所を歩いていたとしても、バッタが目の前を跳ねない限りはぎりぎり「舗装されたところ」である。
これは一見、バッタを自然破壊のバロメータとして扱うことができそうな事象だが、いかんせんバッタのことなので、それはちと荷が重いか。

リンケージ、川。

時代劇などで聞く「百万石」というものがどういうものなのか。
サラリーか何かなのか。
分からないが、石がたくさんあるところを想像した時、僕は川を思い出す。
近所の川は水量が少ないのか、かなり近づかないと水が流れているところが見えないくらいだが、そこに到達するまでには石ばかりの灰色ゾーンをやりくりしなければならない。
水かさの多いときは川底になるのだろうが、とにかく石だらけだ。
それが百万あろうが億あろうが、どうにも興味の湧くものではない。
石の裏に生き物がいることもほとんどなく、ときどきカワラバッタという、冴えない色彩のバッタが、こちらは何ら危害を加える気がないというのに、身の危険を感じて素早く飛び去る。
なんて自意識過剰なやつなんだ。
お前に興味はない。
それにしてもこう殺風景だと、確かに三途の川というものがありそうな気にもなる。
そこでは親より先になくなってしまった子供達が、その親の供養のためだか先立ってなくなった親不孝の罪か何かで石を積むのだが、それを崩してくる鬼がいるという。
中学生かこの鬼は。
でも、このような邪魔するやつがいるからこそ、例えば石積みを百万個やりましたという偉業が起き得ないとも言えそうだ。
石を百万個くらいも積み重ねたら地上に戻れそうなものだから。
ということで、少しだけ「百万石」のイメージがついた。

リンケージ、やおよろず。

「やおよろず」と聞けば千と千尋の神隠しを思い出すが、漢字では「八百万」と書くらしい。
よく「八百万の神々」と聞くので、やあ神様はけっこうたくさんいるなと思いつつも、もうひとつのことが気になる。
それは、昔は「八百万」が今で言う「無限大」みたいな意味を持っていたのでは、ということだ。
おそらく江戸とかそのくらいの人々は「八百万の神々」と表す事で神は途方もなくいる。
そんなことを表したかったのではないか。
そう思う。
今ほど、読み書きそろばんが浸透していなかったのだろう。
道行く人々はどうにか800万までを数えられたのだとしても、その次の1を数えられない。
800万の次は恐ろしいまでの長さの空白が存在するだけなのだ。
ということでどこかで「百万石」とか聞いた日には、彼らはその莫大さに畏怖の念を感じずにはいられないだろう。
「えっ、あの八百万の八分の一も、石を!?」
ともかく無限大をいくつかに分けるとそれぞれ無限大という、微分積分的なものを現代人よりも少し身近に感じられたという点では、昔の人は恵まれていた。
ところで、「百万石」の「石」って何?。

見た目が何割か。 その2

【あらすじ】
僕はぜんぜん人を覚えられない。
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昨日、人を思い出すのにメガネがどうとか男女がどうとかを書いたが、それ以前に重要な事があった。
まず「人かどうか」だ。
あれ、この人こないだ会った人だっけ、と考える対象が自動販売機やポストではあまりに間の抜けた話である。
と、この人は何を言っているんだ。
人であることくらい当たり前のように判別できているだろうが。
そうおっしゃる御仁もいるだろうが、ちょっと待ってほしい。
それで済ませていいのだろうか。
それで済ませてしまった場合、特に何も進展しない。
進展、したいじゃないですか。
それに、昔「ゼイリブ」という、普通の人にまぎれて宇宙人が潜みまくっているという怖い映画があった。
「ゼイリブ」によると結構混ざっているらしいのだ、人じゃないやつが。
という2つの理由からも、人と判別する前提は前提で収まってはいけない。
むしろ、ちゃんと「人かどうか」を意識を持って判断しなければならないのだ。
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簡易版 人かどうか判断
・驚かせたときの跳躍力がせいぜい50cmであること
・透けていない事
・鏡にちゃんと映る事
・腕時計に向かって話しかけていない事
・塩気のあるものを食べている事
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簡易版じゃない場合、DNAを検査するだとかが必要で時間がかかる。
これらは僕が考えた時間のかからない方法で、まあもうこの話はやめますかね。

見た目が何割か。 その1

僕は人を覚えるのが非常に苦手だ。
全然覚えられない。
ということでまず「知り合いらしい」人と会ったときは、僕はまず「メガネをかけているかどうか」で思い出しの糸口を見出そうとする。
実は性別より先ということが、回顧してみて判明した。
おどろき。
僕が「あれその人、メガネかけてたっけ?」と聞いた時、まずはこのふるいにかけているのだと考えていただけると幸いである。
次に性別。
名前を聞いたときはたいがい名前で判断できるから助かるが、面と向かってだと緊張する。
それは「性別を間違える事は相手に暴力を振るうに等しい」と考えているためで、何が困るかというと世界には性別の判断に困る中年が多く、心の中では「中性の中年」と読んでいる妖精層が問題なのだ。
妖精のように中性に見えるのは良いが彼ら彼女らは妖精ではなく、まあ妖精であったとしても「暴力」はいけない。
ということで、覚えていない知人に対しては、男女を見た目で判断するという労力を払わなければならないのである。
次回。