リンケージ、力自慢。

力自慢というとなんとなく接頭語に「村一番の」と付けたくなるが、隣の隣人の事も知らないこのご時世。
村を町にしても、市にしても、都道府県にしても分からず、国にしてやっとテレビが「誰某が何kgも持ち上げた」など、様々な「力」のことを知らせてくれる。
最小単位やそれに続くレベル内の状況のほうが分からないのである。
ただ、運が良ければ町の小冊子や珍百景で知る事もできる。
それにしても「隣の隣人」という、この手のいい間違いとつっこみはいたるところで聞く事ができる。
そもそもいい間違いという感じでもないが、やはり使ってしまうとちょいはずい。
一方、隣にいるやつと言えばトトロなのだが、そうなると、トトロで「隣の隣人」的な言い方ができないかと、気になってしょうがなくなってきた。
これの難しいのは、とにかくトトロのことを含有した「隣人」的な言葉がない、という点に尽きる。
「隣トトロ(りんととろあるいは、となととろ)」という言葉があればすぐに解決する。
「となりの隣トトロ」
なんだよー「となり」がくどいよー、と隣人間でのコミュニケーションも弾む。
しかし「隣トトロ」という言葉はない。
そもそも「となりのトトロ」を略した感じにすらなってしまっている。
どうするか。
トトロが近くにいるのだから「近トトロ」はどうだろうか。
「憑トトロ」は?。
「憑トトロのせいで夜眠れない」
あー全然違う用法しちゃった。
「となりの隣梟人」
漢字で表現しようとしたら、なんか京極夏彦っぽくなった。
「梟人のトトロ」
隣のことをかぶせるのではなく、トトロのことをかぶせようとしてみたら、「犬のわんた」みたいになった。
「村一番の梟人」
このへんな生きものは まだ日本にいるのです。たぶん!!。

リンケージ、適量。

僕の中では、僕が適量を知らないというのは結構有名な話で、それは、大盛りを頼んで大盛られた分の量を残すという、居酒屋で面白い事を一生懸命喋ろうとしている人の口からよく聞かれる性質のことである。
もちろん当初から残すつもりではなく、完食できる自信があるから注文する訳だが、失速が早い。
満腹というのはすごくて、一度それを味わったら最後、もう最初の頃には戻れない。
各駅停車である。
マリオカートにもそれに近いキャラクタがいるのではないだろうか、「スタートダッシュは早いんだけど・・・」
僕は、結構マリオカートが嫌いで、それは「一発逆転が強すぎる」らしいから。
そもそもあまりやった事がないのだが、その少ない経験を紐といていくと、僕にとってマリオカートは足の引っぱり合いいやタイヤの引っぱり合いである。
通常、タイヤの引っぱり合いと言うと、「力自慢がギネスに挑戦」的なものだろうが、こちらはただ、先をゆく者の邪魔をして勝つという、もうそれは実社会のほうだけでお腹いっぱいの現実路線。
それをわざわざゲームでやる事に違和感を覚える。
まあ、この手の「罠の張り合い」というのが対人ゲームですごく面白いのは認める。
ただ、マリオカートだと戦略や試行錯誤の末のやりとりの楽しさというものがなく、なんか理不尽な気がしてならない。
「ゴール直前で赤い甲羅が飛んできて、びり」
何なんだよ赤い甲羅。
大人だったらまあゲームだし、とかなるが、変な小学生だったらこの赤い甲羅で2週間絶交くらいの事象は起きているに違いない。
となると、最近の卒業文集や同窓会って「あのときの赤い甲羅、ごめんな」っていう話題ばかりだったりするのだろうか。

リンケージ、スープ。

食卓にスープがあると少しうれしい。
ただし、おしゃれじみて、ちびちび飲むのはいやで、もうごくごく飲みたい。
適温(ほんの少しだけ熱め)のコーンスープは、ごくごく飲みたい。
これは僕によく見られる「好きな物で口の中を満たし続けたい」という特性で、チョコレートとかもそうしたい。
ラムネもそうしたい。
しかしたいがい、食卓に出てくるスープは適量で、当たり前のように片脇にスプーンが鎮座して御座い。
スプーンで一杯一杯すくって飲んでたら、次のターンのやつが来る前に、前のは儚くだ液に希釈され、好きな物の継続はそこで途切れてしまう。
ということで僕に出されたスープは食事の最後に一気になくなり、スプーンはシンクを経由する事なくまたしまわれるのである。

リンケージ、ラーメン。

ラーメンと言うと、様々な都市でいろいろなラーメンが店舗、屋台、インスタントなどとして販売されており、その嗜好はもう「ラーメン辞書」を作ったらちゃんと「あ」から「ん」までのページ。
全て埋まるのではないかと思う。
例えばガンダムの世界で、「を」で始まる何かを、僕は知らない。
同様に妖怪の世界でも、生物における5界でも。
いや、モネラ界には何かいそうか。
「を」で始まる何か。
ともかく、「を」はレアだが、ラーメン界にはいそうだ。
「をろく」
しょうゆラーメンのスープを啜っていき、うっすらと皿底の模様が見えるか見えないかの状態。
その透明度の表現が「をろく明度」とか言うんじゃなかっただろうか。
で、実はラーメンで書こうと思っていたのが「サッポロ一番のみそ味は、卵をといただけのが一番うまい」ということで、これは結構納得を得られるような気がする。
僕はこれで、少しだけ水分が足らず、しかも少し煮すぎた感じのが好きだ。
どうせなら、サッポロ一番はこの「少しだけ水分が足らず、しかも少し煮すぎた感じ」をデフォルトにしてもらいたいくらいだが、たぶんそうなると僕の好きなのは現在のサッポロ一番でいうところの「水分が足らず、煮すぎ」になってしまい、それは「煮すぎ」だ。
おそらくサッポロ一番を煮すぎると佃煮を目指している事になり、それはベビースターだろう。
かわいそうなベビースター。
しかし、それに水分をもたらしてくれるもんじゃ汁!!。
ああそうか。
もんじゃはサッポロ一番だからおいしいのか。

リンケージ、曇る。

僕は、メガネが曇る事はそれほど嫌いではなく、それは「曇ったとき、見えるものがぼんやりするから、なんか夢の感じになる」という一昔前のドラマのような演出。
ただあれがそれほど苦にならず、むしろ楽しいといった面持ちであるからなのである。
しかし残念な事に、現実にその「なんか夢の感じになる」のは、ほぼ「ラーメンの夢を見ている」ことしか起こりえず、僕はそんなにラーメンを欲しているのか。
淡く視界に現れるラーメンを見て、これは夢の感じではなく単にラーメンの湯気で曇っているのだなと、せっかくの演出を楽しむ事はできない。
となると、「何から湯気が出ていたら、夢の感じとしてとらえる価値があるのか」という命題が発生する。
例えば、夢の感じで「初恋の人」が出てくるのはいい気がしないだろうか。
しかし上記の考え方だと「同窓会で久しぶりに会った初恋の人から、湯気が出ている」必要がある。
そうなれば、あの「夢の感じの、ふわふわした中に初恋の人の像」が楽しめる訳だが、一方で心配せざるを得ない。
初恋の人から出る湯気の事を。
この場合、初恋の人は武井壮か何かなのだろうか。

リンケージ、ゴーグル。

夏休みはよく、九州の田舎へ一人で送り込まれた。
そこは、目の前はゴンズイ玉がうごめく海、後ろは野犬が闊歩する山。
せっかくの田舎なのだが、郵送でファミコンを取り寄せ家にこもる要素満載の環境だった。
それでも生来、自然が好きなのだろうか。
生き物を求めて海へ潜ったりしていた。
海の中はテレビで見る、どこぞの海とは違って透明度はそれほど高くない。
しかし生き物はたくさんいて、見ていて飽きない。
ただ、それを邪魔するのが「ゴーグルの曇り」。
祖母から与えられたものは相眼のものではなく、ちょうど「あまちゃん」がしていたようなもの。
ごめん「あまちゃん」見てなかったからどういうのか分からないが、ともかく大きな、両目と鼻を覆う事のできるガラスタイプの物。
これがよく曇るのだ。
適度に海水を入れて洗うのだが、またすぐ曇る。
そのことを祖母に話すと、その対応策を教えてくれた。
「そこらの海藻でガラス内側をこする」
どのような効果があるのかは不明だが、僕はそれを実行した。
潜っている最中、目の前をちぎれた海藻が漂う度に潜行を一時中断。
内側をこすった。
これ何がすごいかというと、祖母が自信ありげに話してくれたこのことは、それほど効果がなかったことだ。
こする海藻を間違えたのだろうか。
それとも、祖母が海藻だと思っていたのは、どこかの会社が提供する「クモリトレール」的なやつの試供品がたまたま海藻の中に埋もれてしまったものだったのだろうか。
ともかく、僕はいつか効果があると海藻でこすり続けた。
結果、肌はつるつるになったりはしなかったが、何となく海に潜る時、海藻が視野にないと潜った気にならない性質になった。

リンケージ、マスクをしていることで。

「歯医者の女性スタッフは、マスクで顔を隠しているから、かわいく思えてしまうのだ」という感じのものは、けっこう市民権を得ていることに驚いた。
複数の知人から同様の意見を得たのだ。
「歯医者にいる女の子ってかわいい気がする」
「マスクしていることでじゃない?」
「スキースノボができる男性がかっこいいらしいのだが」
「それは顔が隠れているからだ」
どうも人間というのは欠けている物を勝手に補う機能に長けており、今回の場合はマスクやゴーグルで隠れている部分を、主に自分好みに補ってしまうらしいのだ。
補完と言えようか。
この性質は多くの推理小説のトリックやモバイルアプリで使われている。
というのを知ると、目出し帽の強盗なんてのは補完したくなる部分が多く、かつ吊り橋理論的なもの、ストックホルム的なものが発動したりしてすごいんじゃないかと思ったりもするが、どうだろう。
捕まえたくなるほど焦がれる、なんてことになるんじゃないかって、言うと思っただろうお前!!。

リンケージ、恐ろしく素早く巣を張りまくるクモ。

ねばつく糸を投げ縄のようにして使うという、ゲームに出てきそうな技を使う判別の難しいものもいるのだが、一般的にクモというのはその獲物の捕らえ方にて、2種類に分類される。
一つは「巣をはってご来場のお客様をお待ちする」タイプで、主に人間の通り道に巣をはってしまう事で人間に嫌われてしまうタイプ。
もう一つは「巣をはらず、素早さでお客様を捕獲する」タイプで、こちらは主にその挙動で人間に嫌われてしまう。
前者の例は「気持ちよく洗った髪」への攻撃力が非常に高く、後者は「寝る直前に天井にいるのが見えた」「その気はないのだが、やたらと物欲しそうに見えるのか、客引きのお兄さんの路上プレゼンがはんぱない」というのが強い。
どちらにせよクモはあまり好かれる生き物ではない、というのが通説であろう。
しかし、彼らの顔をよく見ると、なかなかかわいい顔をしたやつもいる。
特に民家や花壇などにいる、1cmくらいでぴょんぴょん進む、ハエトリグモの仲間の顔は、目が多少多い印象に「目をつぶれば」なかなかかわいい。
それは、歯医者に勤務する女性が、マスクをしていることでなぜかよりかわいく見えてしまうという、なんか失礼かもしれない事象に似ている。
まあ、先日のブログで「恐ろしく素早く巣を張りまくるクモ」と書いた時、なんとなく「そのくらい素早いのなら、直接獲物をしとめる方法でいいのではないか」と思ったから今回はクモの話題にしようかと思っただけで、「でも直接獲物と対峙するのは、怪我などのリスクがあるしなあ」などとモンハンをやりながら考えている次第でして。

リンケージ、縁の下。

日本には、もしかしたら様々な縁の下があるのだろうが、それを知るのは建物に詳しい人くらいで、そうじゃない人が「あー縁の下には様々な種類があるよね」と言えるのはもう犯罪のにおいしかしない。
したがって、僕は自分の家の縁の下しかしらない。
ただ、縁の下については少し自信があって、それは幼少の頃、よく縁の下に潜っていたからだ。
一般的に、人は縁の下にあまり用はない。
用のある人はやはり建物関連、主に保全のために縁の下に入ることが必要な人か、やはり犯罪のにおい。
強いて言えば地下室への入り口が縁の下の中にしかない人である。
まあ、「強いて言えば」の「強いり具合」によっては、以下の可能性もあるだろう。
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・生存にある程度の湿度と低温が必要で、日差しには弱い
・1日に一度、泥棒が潜んでいないか確認しないと心配
・本気の「縁の下の力持ち」
・高床式住宅風
・家の中に、恐ろしく素早く巣を張りまくるクモが玄関に大量にいる家
・夜中に帰ると、奥さんが例の赤外線のやつを玄関に張っている
・玄関に、恐ろしく素早く巣を張りまくるクモと例の赤外線のやつを張る奥さんがいる
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で、なぜ僕が縁の下に自信があるかって、それは逃げた猫を捕まえるために、よくもぐっていたためなんです。

リンケージ、感慨。

最近はなかなか心揺さぶられる事がなく、例えばその日は日本各地の河川の水位が少し上がると目されている「火垂るの墓」は、確かに悲しい話であるが、見たとしてもどこかにボーダーラインをひいている。
それはアニメだからお話だ、ということではなく「これ以上この作品の事が自分に入り込んできたら、もう大変な事になる」。
これこそ「心揺さぶられる」「感慨にひたる」ということになるだろうが、「揺さぶられてしまうので心の縁の下にはこいつを入れるわけにはいかない」という感じのボーダーである。
こういうのは誰にでもあると思うが、その程度は様々だろう。
吉田戦車の漫画には、ソファがふかふかなことにひどく感動できる男の4コマがあった。
というか、確かどんなことにも感動できてしまう男の話だった。
この漫画としては、もちろん「ソファがふかふかな事くらいで感動するか」というのがポイントなわけだが、どうだろう。
新開発のソファが、驚きのふかふかだったらどうだろう。
あるいは半日、かったい椅子にずっと座っていてからのふかふかソファはどうだろう。
いい具合に干せた羽毛布団はどうだろう。
猫のおなかはどうだろう。
ともかく、人を感動させる、心揺さぶるふかふかさは、存在しないとは言えない。
だが俺が、ふかふかに心揺さぶられる事は無いがな!!。