形見

ひどい話題かもしれない。
しかしきわめて他意はないので、まあ聞いてもらいたい。
形見の話である。
誤解を恐れずに言えば、現代は昔よりも「形見を人為的に指定する事のできる可能性が高い」、いい時代である。
唐突に訪れる人生の終ではそうもいかないだろう。
しかし、幾ばくかの覚悟を胸にその瞬間を迎える、主に病気による終焉というものが昔よりも多いのは間違いないようだ。
故にこの場合の「形見」というものは、ある程度本人の意向が含まれたものになりやすいのである。
人形を形見にしたいのであれば、それを大切にしているところを常々見せていればよいし、気に入ったいすなんかを形見にしたいのならば、気持ち良さそうに座っていればいい。
形見というのは、残された人にとって、へたすると当人よりも重要なものとなりえる。
猶予があるなら、日々の形見づくりを行っておいたほうがよいのではないだろうか。
さて、ここまでくると、また違った考え方を持つ人々の登場を無視する訳にはいかない。
いわゆるおちゃめ精神を持った人たち。
彼らはその形見の意味するものを逆手に取って、残された人々を翻弄しようと画策する。
あの世でにやりとするつもりなのである。
「お母さんの形見の一万円札」
何があったかはわからないが、これはもうお母さんしてやったりと感じずにはいられない。
子供のほうも、もちろん母親を失ったことは悲しいだろうが、そのおちゃめっぷりにまた、別の涙が出るだろう。
「これ、お母さんの形見の一万円札だから、使えない」
いいお母さんである。
「お父さんの形見の養命酒」
これも、意図して形見にできたとしたら、かなりやり手のお父さんである。
父親の形見の品として、仏壇に養命酒がおかれていたりするのである。
もちろん亡くなった背景等が関わるが、多くの場合誰しも「あいつうまいことやりやがった!!」と思うに違いない。
「おじいちゃんの形見のUSBメモリー」
おじいちゃんはスパイか何かだったのだろう。
僕は今のところ「形見づくり」を全くしていない。
しかし何か考えておいた方がいいのかも知れない。
「形見として、ジャミラの断末魔のモノマネを伝授する」
ものでなくてもいい。
形見を選べるというのは、確かにいい時代である。
そしてもう一度、言っておくべきだろう。
他意はないが、ごめんなさい。

フィールド

「よつばと」という漫画に、「傘がへた」だという台詞があったように思う。
なるほど傘の用途はかなりシンプルで分かりやすく、へただとかいう前にさあ、という感じ。
トトロですら、少なくとも持ち方はすぐに理解できた。
ところが見方をもう少し広げると、この傘という文化におっついていない人が多い事に気づく。
かなり初期の本ブログにも記載したが、折り畳んだ傘の扱いがへたな人が案外いるのである。
すなわち、傘の軸が地面と水平になるように持つ。
人は棒状のものを持つと、ああやって持たないと歩けないことになっているのだろうか。
そうだとしたらかなり根源的な問題である。
とにかくあらゆる状況で突けるように、などの狩猟的原因があるのだろうか。
しかしそうなると、周囲のことを気にして邪魔にならないように持つほとんどの人はどうなるのだろう。
彼らは集団生活において、何か優位なものを体得したのだろうか。
そんなことはない。
ちょっとした気遣い、その差だけだ。
傘を水平に持ってしまう人は、疲れかなにかで少し油断した。
故にかさへたになってしまったのである。
その油断は、おそらく狩猟時代(?)にもあらわれており、幾人かは油断のために「やりへた」として前の人を突き転がしていたに違いない。
先日、何となくだが「アラレちゃん」の「キーン!!」のポーズをやってみた。
両手を広げ立てた指先を見て驚いた。
思いのほか「範囲」が必要なのである。
あれはアラレちゃんが女の子ロボットであり、相応の手の長さだからかわいいのであって、そこらの人が実際にやってみると、当たり前だが腕分の領域が必要なのである。
僕は傘で突き転がす人のことを思い出した。
さすがに「キーンへた」という概念は生まれないだろうが、人というのは自分がとりうる最大限の領域よりも、ちょい狭めに生活しているのである。
パーソナルスペースとかATどうこうなのかも知れないが、僕はよく知らない。
ただ、傘をおっ立ててしまうのは、何かこの辺のことが関与しているのだろうか。
だとしたら、一概に油断だとはいえまい。
今、僕のアラレちゃんポーズが、通行人に見られそうになった。
思いのほか領域が必要なので、屋外でやっていたことを忘れていたのである。
これは油断。

前略

「前略」はもっと汎用的であって問題ないと思う。
使用する事により、伝えたい事がより明確になることもあるだろうし。
「前略 お金を送ってください」
本来、お金を送ってもらうときは、その理由であるとか申し訳ない事であるとかを示すべきだ。
しかし略した。
急ぎの用なのである。
「前略 自転車泥棒様へ」
これはこわい。
略した経緯を考えるだけでも怖いが、おそらくは怒りが言語を超えるか、見るに耐えない文面になってしまうから、略したのだろう。
「前略 ち?ずふぉんでゅさんへ」
一見、あだ名だかオフ会だかでの、ひとこまのように見える。
しかしよく考えてみると、「ち?ずふぉんでゅ」というのはあまり聞かれない。
ゆえに、「ち?ずふぉんでゅ」さんのことを知らない人にとっては、「前略」された部分は本来必要なのである。
おそらく略された部分には「ち?ずふぉんでゅ」さんが「ち?ずふぉんでゅ」たる要因が含まれているのだろう。
「ああそれじゃしょうがねえ。ち?ずふぉんでゅだ」
納得の理由である。
しかし、そこを略した。
これは「わたしはあなたのことをすごくよく知っています」を表している。
「前略 だめでした」
とかく我々は「略した部分を聞かせてごらん。だめだった原因がわかるかも知れないよ」と考えがちだ。
しかしこの文面から手に取るようにわかるのは、あきらめだけである。
あきらめているものに原因を示すのは、息の根を止めるのに等しい。
ともかくだめだったのである。
「前略 明日午前8:00までに伺います」
お金を返さないやつが悪い。

ひねるな

カニバリズムとすねかじりをひねった話は多い。
落語だったか。
この考え方でいうと、「ほぞをかむ」は何リズムが当てはまるのだろう。
それは「でべそ至上主義」だ。
でべそ至上主義とほぞをかむをひねった話はあまり聞かない。
「でべそ至上主義が広まらないよ?」

「なんで主張者の俺はでべそで生まれてこなかったんだ」

「後悔」

「ほぞをかむ」
僕はでべそに対して、何ら優劣の印象を持たない。
それはそもそも見た事ないからかもしれないし、原初的にどうでもよくない?という考えがあるからかもしれない。
それでもでべそについて一般的なイメージがあるところを見ると、原因は漫画の1コマか何かだろう。
それは明らかに、へそと思われる部分がでっぱっており、子供ながら奇妙に見えた。
しかしぎりぎり「いちじく?」と思わせる何かは、実際に見ていなかったでべその代替として、十分だった。
ほぼびわだったそれは、場合によっては命の危険もある病気である。
しかし、漫画がブラックジャックじゃなかったためか、でべそは単におとぼけキャラを引き立てる秀逸パーツだったのだ。
ここまでむりくり考えて、どうにか「でべそ至上主義」という言葉に懐古という意味を持たせる事ができた気がする。
だがその瞬間、結局でべそはどうでもよくなり、「懐古至上主義」のようなものになってしまうのだった。
懐古至上主義と養蚕をひねった話を聴いた事があるとしても、基本スルーの予定。

子供らしさ

「子供らしさ」というものがちゃんと定義されるとしたら、どんな例があればいいだろう。
「鼻の頭に絆創膏」
「食べながら寝る」
「雲のわたあめを夢見る」
「小遣いをせびる」
「白線の上を歩きたがる」
「後ろ向きでよく歩く」
こう挙げてみると、確かに子供らしいなという点以外に「子供にも幅がある」ことに気づかされる。
そもそも、いわゆる「子供」がどのくらいの年齢を示しているか不明だが、例えば中学3年生女子が「鼻の頭に絆創膏」だと、もちろん本来の用途なら問題ないことではあるが、そこはかとなく「そういうキャラ」の存在を感じずにはいられない。
小学4年生が「食べながら寝る」と、「子供らしい」というよりは心配になる。
中高生が「雲のわたあめを夢見る」を本気でやっていたら、理科の授業をちゃんと聴いていなかったことになる。
保育園児が「小遣いをせびる」と、この子前世の記憶あるんじゃないかと心配になる。
高校生が「白線の上を歩きたがる」のは異性に見てもらいたいだけであるし、立ち上がれたばかりの幼児が「後ろ向きでよく歩く」ようなら、すみやかにそれを補正、必要なら補助具の使用も検討する必要がありそうだ。
これらを包括しなくてはいけないので、「子供らしさ」はひどく濃厚である。

カリスマ

「はじめてのカリスマ」
誰しも誰かのカリスマになりたいと思っていることでしょう。
母さんおれ、カリスマになったよ。
私も明日からカリスマの仲間入りだわ。
では、これからカリスマになる方法を勉強してみましょう。
1.ごはんを食べない。
これは「カリスマと呼ばれたい事をしている間は、ごはんを食べるのも忘れる」ということを演出するために必要なことです。
その一見真摯な態度が、他人にカリスマであることを認識させます。
しかし意外なことに、カリスマはごはんを食べます。ごはんとカリスマにはなんら反比例する要素はないのです。
ここではあくまで「ごはんを食べない風」をよそおい、実際は食べましょう。
ごはんは毎日3回程度が好ましいですが、暴飲暴食はさけましょう。
程度がすぎると「あいつはカリスマだが、ごはんはすごく食べる」などと言われてしまい、カリスマが何となく薄まります。
2.意味ありげなオリジナル口癖を持つ
このことで手練、先駆者的なイメージを周りの人に植え付けます。
オリジナル口癖自体はそれほど難しくないですが、「意味ありげ」の部分には少々の熟練が必要です。
意味ありげなオリジナル口癖の例
「人間の指は、5本しかないからな」
「右を見れば右が見えると思っているんだから」
3.誰かに「カリスマ」と呼んでもらう。
ここまでやってきたとしても、最終的には「カリスマ」と呼んでもらわなくてはカリスマになれたとは言えません。
しかしながら、今回の方法は暫定かつ迅速さを重視した方法であるため、万が一ですが誰からもカリスマと呼ばれないことがあります。
このときは以下のような対応をしてみましょう。
「えーと、カ行の最初のやつってなんだっけ?」を4回ほど繰り返す。
「マスリカを逆から読んでみましょう」と言う。
「仮住まい」をしてみる。
自分がその世界のパイオニアであると言う、嘘を言ってみる。
いろいろと嘘を言ってみる。
誰かにカリスマと呼ばれたら、必ず「いやーそんなあ」と言いましょう。
誕生です。

ヘッドバンキング

携帯電話バッテリーの減りが早い。
だから用無きときは無闇に画面を出さないようにしている。
しかしそんなときに限って、何らかの着信である。
着信を受けたケータイは、力を振り絞って健気に震えるのだった。
僕は、着信時のケータイ挙動にどんな設定が可能か、よく知らない。
着信用に設定したメロディーが流れる。
バイブレーション。
このくらいしか知らないが、他にも何かないだろうか。
要は消費電力の少ないモードにしたいのである。
何もお知らせしてくれないモードもあるのだろうか。
しかしそれはさすがに機能を殺し過ぎのような気もする。
「バイブレーション:なおバイブレーション作動時に本体を振ると、バイブレーションを抑え、結果消費電力も抑えます」
こんな説明文が取説になかっただろうか。
「バイブレーションが作動したら、それをすぐに切るほうがいいじゃないか」
それもそうだ。
となると、さっきとは違う文言を取説から探さなくてはだめだ。
「バイブレーション:なおバイブレーション作動時に本体を振ると、バイブレーションを抑えつつ、しかも充電します」
振ることで充電できるケータイがあったとする。
そのケータイをバッテリーの切れそうな状態で使用するシーンを考えてみると、一種ノリノリの状態であるとも言え、そのせつなさに胸が苦しくなる。

ここどこ

人間の面白さとは、移動距離に比例する。
そんなことを書いた本があったように思う。
異論はないが、その質にも注目したいところ。
人生の総移動距離の大半がルーチンな行動によるものだったら、それを随時加算してもよいか。
よくない。
見飽きた風景のなかの通勤通学は、それほど濃厚でない。
それを目指すなら、けっこう神経を澄まし続ける必要がある。
一方で「総移動距離の大半を反復横跳びに費やしました」だと、これはかなり面白い。
彼の通った学校の体育館は床を補修している。
ところでそうなると、ルーチンじゃない行動というのはどうすればいいのだろうか。
旅行してみる。
いつもとは違う駅で降りてみる。
電柱に番号をふってみる。
いずれも新鮮さというものがひとつのキーワードになっている。
しかし、僕はこれらがルーチンじゃないとは、どうしても思えない。
旅行してみる。
どこに旅行したかは、たいがいの人は分かってしまっているのだ。
新鮮じゃない。
いつもとは違う駅で降りてみる。
これもしかり。
電柱に番号をふってみる。
思うに、既にふられている。
空港についたとたんに全身剛毛になるとか、駅から出ると無重力とか、電柱のかわりに中学生が電線を持っているとか、そんな非日常は得られない。
「ここどこ?」という気分すら味わえないだろう。
せいぜい「ウズベキスタンだけれど、これからどうしようか」ぐらいだ。
「何かは分かっちゃってる」のであり、それは新鮮さは薄く。
こんなときは、久しぶりなRPGを一本引っ張りだすのがいいかもしれない。
少々のデータロード後、すぐさま「ここどこ?」を体感できる。
どこにラスボスがいるのか。
そもそもどうやったらそこまで行けるのか。
ストーリー上、ここはどこだ。
飛空挺、どこ。
ゲームの定石も覚えてないから、かなりちぐはぐな行動しかできないはずだ。
それは面白いか。
もちろん面白くないのである。

折り紙

折り紙の本が、すべて文章で構成されていたらどうだろう。
図解なら明快な「折り鶴」も、文章ではわかりずらく、読み解く意思も薄れていくだろう。
どこをどのくらい折るかでも、もう読み疲れてしまうだろうから。
ということで「文章のみの折り紙の本」で重要なのは、ひとときの休息を与えてくれるだろう「コラム」。
折り紙に関するコラム。
それはおそらく数十ページ毎ごとに現れ、メンタルローテーションでへばった読者をやさしくいたわってくれるはずだ。
「折り紙の歴史」
これは外せない。
折り紙はエジプトで誕生した。
ミイラをどのように包むかを純化、作法として確立したダプト氏が発案者とされます。
包ませたら一番と名高い氏は晩年、「ダプト式低露出法」を発明。
これがほぼ「かぶとむし」の折り方であるため、折り紙通は「かぶとむし」を「ダプト」と呼んだりします。
あなたもこの本を読んで、かぶとむしのことをダプトと呼べるようになりましょう。
こんなコラム。
「折り紙発!! 事件あらかると」
メモ帳に折り紙を折った跡!!
妻の知らなかった折れスジから、浮気が発覚!!
夫、折り合いをつけるため、妻に折れた!!
世界最古の折り紙の本が、折られちゃった大事件!!
科学分野だけじゃない折り紙の発想!!
折り鶴をほぐしてまた折り鶴を作ることによる、秀逸ひまつぶし1選!!
こんなコラムも。
そして文章のみの折り紙本に色を付ける、抱腹絶倒折り紙話。
合コンで、伝えたいことをメモに書いて、それを「せみ」で。
昔のトイレットペーパー風に、折り紙を置くことでトイレタイムも充実する。
遊んだ折り目のせいで、カルテ開示に踏み出せない。
紙飛行機にした離婚届が、すっと窓口へ。
どう開けようとしてもお札が破けてしまうような、祝儀袋の包み方。
迷惑だなコラム。
しかも気になるのは、そもそも折り紙に抱腹絶倒を求めているのかという点だ。
図があったって、そうそう折り紙で抱腹絶倒にはならない。
「たのしいおりがみ」
もくじ
1 いのち の折り方
2 まえばり の折り方
3 ひつぎ の折り方
4 はるさめ の折り方
5 てにもつ の折り方
このくらいで、ちょい気になるくらいだ。

予備

「007」が何を表しているのかというと、どうやら「スパイは1000人弱まで」ということなのだろう。
調べていないので恐縮なのだが、「000」は別格の人につけられるだろうから、実質999人。
この考えは、10人目である。
10人目で、正しいかどうか分かる。
「0010」。
これが困る。
「00」は接頭語のようなものだったのか。
そう考えられても仕方がない10人目だ。
接頭語だとしたら。
それは数あるもののなかでも最初のほうになりました。
いわばエリートです。
そう思わせる効果があるのではないだろうか。
最終的に7人までしかスパイになれないとして、そのなかでの「007」。
本来は末っ子なのだが、「00」のおかげで、かなり初期に就職した手練である感がお手軽に演出できているのである。
しかし、やはり数が多くなると、その感じも薄れる。
「007942」
7942は管理者ハンドルネームの一部であるが、それにしてもここまでくると手練感は薄れる。
むしろ100000を待たずして、これ以上増えませんという感じの方が出ている。
もしくは何かの管理番号である。
これではいけない。
少々かっこわるくなることを覚悟しても、「00」を接頭語として考えるのはやめるべきだ。
ということで、こうなりました。
「スパイ794.2」
端数である。
端数はいけない。