ポチ

以前似た事を書いたかもしれないが、「犬のポチ」というのはくどい。
「ポチ」というのは一般的には犬につける名前であることが認識されているから。
それは「魚のハマチ」と言っているようなものである。
と、こうなると以下の反論が生じる事は想像に難くない。
「うちの猫の名はポチだ」
これは「ポチが犬の名前というのは、一般的ではないよ」を示していそうではあるが、その根底にはあくまで「犬はポチ」という思想が確立しており、それに対する反社会的な行動として猫にポチと名付ける。
その流れがありありと見てとれる。
よって、これは犬がポチであることをさらに証明しているほか、完全な反社会的行動でもある。
日本に秘密警察制度がなくて本当に良かった。

ふり

僕はどうしても「見ぬ見てフリ」というものでひとつ何か書こうとしていたようだ。
メモに書いてある。
もちろん「見て見ぬフリ」があるのだったら、「見ぬ見てフリ」というのもある、ということなわけだが、つまるところそれは「知ったかぶり」と思われ、それほど話は広がらない。
じゃあどうしたらいいん?という気にもなるが、例えば「見ぬ見ぬフリ」だったらどうなるかと考えていくと、なかなか奥深く、ちょうどブログ1回分くらいはどうにかなるんじゃないかという今回である。
「見ぬ見ぬフリ」は、「見ないフリというのだから、実は見ている。よって「見て見ぬフリ」とほぼ同じ意味で、違うとすれば見てない風を装う頻度が比較的高いことだ」と思われがちである。
しかし違う。
「いやよいやよも好きのうち」と完全に同義の言葉だ。
なんかの辞書に載ってた。
「見て見てフリ」は何かを凝視しているさまを表していると誤って理解されている事が多いが、違う。
ぶりっこのことだ。
「見て見て」はそのまま、「フリ」は「フリル」に通ずる。
よって、「見て見てフリル」となり、ぶりっこである。
なんかの辞書に載ってた。
なお、類似語に「フリフリ見て」がある。
「見て聞くフリ」
さぼりのことで、ろくなものではない。
僕はよくやる。
ちなみに「見て言い聞くフリ」もあり、これは東照宮のほうのこと。
「見ぬ聞かぬフリ」
テスト前によく行われている詐欺のこと。
「俺全然授業聞いてなかったよー」で良い点を獲得してしまうこと。
ところでこちらにも「見ぬ言わぬ聞かぬフリ」があるとされ、これも東照宮、いわゆる「見ざる、言わざる、聞かざる」のことであるという説もある。
このことはその3猿がその名に反して、実は指の隙間から見て、もごもご言って、聞き耳を立てて聞いているという可能性を示唆している。
この猿たちは当時の教育理念を端的に表したものとされているが、それは全然関係なく、覗き見している猿は猿らしくてよいということを表しているのだという研究家も多い。
なんかの辞書に載ってた。

シュシュ

シュシュというものがわかってくると「ポニーテールとシュシュ」に見られるような「なんとかとシュシュ」が面白くなってくる。
「おばさんとシュシュ」
おそらく手首に付けている。
「事故現場とシュシュ」
花束の代わりに盛られている。
「掃除機とシュシュ」
確実に詰まる代表としての、名指し。
「冗長なケーブルとシュシュ」
まとめるのに便利で、しかもかわいい。
「開けた砂糖袋とシュシュ」
移す容器がない場合。
「香典袋とシュシュ」
香典袋のリボン?のところがシュシュだったら、たぶん怒られる。
「加害者とシュシュ」だと、どうだろう。
これも「おばさん」のやつと同じ。
やはり手首に付いていてもらいたいところだ。
「NASAとシュシュ」
何か特殊で丈夫。宇宙空間にも耐えられるのだろう。
語呂もいい。
「はげとシュシュ」
一見かなり直接的な冗句だが、よく見ると頭皮をマッサージしている感じが出ていて、いい。
語呂もいい。
僕、シュシュのこと全然分かってないかもしれない。

竹馬

よくわからない店がある。
なんとなく入店意欲を削ぐ。
雑貨屋らしいのだが、そんなたたずまいだ。
喫茶店でも行こうかとそこを横切るとき、前にいた二人の会話がなんとなしに耳に入ってきた。
彼女たちはその店頭にでもあったのだろうか。
「竹馬自転車」なる玩具に対して、こう言っていた。
「竹馬自転車ね、確か・・・」
僕はおどろいた。
「竹馬自転車」というのもよくわからないが、何よりも彼女には何かしらの竹馬自転車知識があることを示す「確か」が非常に気になった。
僕にはそれまで、致命的なまでに竹馬自転車についての知識はなかったのである。
そもそも何なんだ、竹馬自転車。
店先にあるのかもしれないが、竹馬自転車に食いつくのも悔しい。
しかしこれでは何ら好転しない。
今後の僕に、何かしらの形でそれが関わってこないとは言えない訳で、「あのとき竹馬自転車について少しでも知識を入れておけば」ということにもなりかねない。
「竹馬自転車ね、確か・・・」
前の女性はそう言ったのである。
つづきを聞き耳たてて、あとをつければいいか。
「竹馬自転車ね、確か竹馬と自転車のジョイント部分にはマー油を注すのよ」
軽く笑みを浮かべてそんなことが聞こえてきたら、知的な女性として恋をしてしまいそうだ。
いや、そもそも竹馬自転車について何かを知っているってだけですごい。
言ってみたいわー、「竹馬自転車ね、確か・・・」。
と、調べてみたところ、モヤさまで扱われていたらしい。
こ、恋が・・・。

見るよろこび

二度見という文化がある。
同じ物を二度も見てしまうほど、それが理解しがたい何かであるということだ。
しかしこの二度見。
後ろに「それ」があったとしたら、それを二度見れば二度見になる。
しかし、前にあったとしたらどうだろう。
最初に目に入ってきたまま。
二度見るという動作にはならないような気がする。
つまるところ最初から目に入っていたものに対して「二度見」に相当する行動をするのは難しい。
見ていないところで「二度見」に値することが起きた場合、それは「一度目:起こった事を確認する」。
一度目と二度目の間に「問題ないと判断」と目線を外す。
そして二度目の際には「もう一度確認せねばならない緊急の事情」が生じるのである。
一方、見ているところで起きた場合では、そのうちの「目線を外す」が必要ないため、そのままのまなざしが二度見分に相当する。
その二度見分が一見「二度見」とは見なされないのである。
見えていたものに対する「二度見」を成立させるためには、どうすればよいのだろうか。
まんがなら目を飛び出させる、ねこなら瞳孔を大小させる、顔を近づける。
いろいろあるが、実際に実行可能なものはそれほど多くない。
まんがではないし、ねこでもない。
顔を近づけると、自分もしくは対象が異性だった場合、どちらかがきゅんとなるだけかもしれない。
どうしても「俺は今二度見分に相当する驚きを受けているんだ」を確実に表現したい場合は、言葉による補足が必要になるだろう。
結論
「二度見分が一見二度見とは見なされない」というのが結構よかった。

長いお別れ

弱肉強食の世界に謙遜というものがあるとすれば、こんな感じだろうか。
「ちょっと食べさせてもらいますよ」
となるともう片方も「胃の方、拝借させていただきます」と一言。
それから「おじゃまします」、「一休みさせていただきます」となるか。
どちらにせよ、謙遜すぎるのも考えものである。
ただ、これは捕食間際の話であって、もっと前から「すいません、追っています、追っています」というのがあるだろうし、「ああ、じらしてすいません。逃げちゃって」が対として存在する。
となると「お腹へらしちゃってすいません」、「そんなにおいしくなくてすいません」てのもあり、いろいろだ。
しかし奇妙なことに、この流れは収束する。
「生きててすいません」
謙遜というよりは逃避である。

はっさくについて

生物のからだのなかにはレセプターというものがあって、それは「なんか来たらなんかする」という仕組みを担う装置らしい。
たとえば、ある物質を分解する細胞には、表面にその物質に対するレセプターがある。
その濃度が高くなるとレセプターがその物質を検出する頻度が高くなり、「その物質が来たら分解酵素を出す」みたいなことの頻度も増し、結果的に程よい濃度に調整する。
確かこんな感じだった気が。
形の似た物質にだまされたりもするが、基本的には生物の恒常性の主たる機能のひとつだろう。
土手を自転車で走っていると、キャッチボールをしている人がいた。
それを見て何となく思い出したのだ。
レセプターの話はどちらかというとキャッチボールというよりは「ピッチャー、キャッチャーの関係」かも知れない。一方的だからだ。
これには「来た物質の形を変えてしまう、酵素みたいな機能もあるやつ」がいたかもしれないが、まあ分からない。
このレセプターは、自分の相方とも言える「その物質」がずっと来なかったらどうなるのだろう。
機能が低下したり、なくなってしまったりするのだろうか。
「夕暮れの広場に一人かまえるキャッチャー。日が沈みかけた頃、とつぜん栗が飛んでくる」
栗をボールと判断した場合、彼は栗を取ってしまう。
2塁にすら投げてしまうかもしれない。
次に考えたのはネットワークの世界だ。
「この内容の情報が来たら、この処理を行う」
そんな動作をする仕組みがある。
これも「ピッチャー、キャッチャーの関係」だろうか。
ボールが来るまでは、じっと待つはずである。
こちらが生物のやつと違うのは、形の似た情報が来たとしても、何もしないところだろう。
もちろん「形の似た情報」の方も処理するようになっていればいいのだが、それなしに「これ、例の情報とは違うんだけど、似てるから処理してよ」はまずできない。
やるなら、少し根源的な方法が必要だ。
「夕暮れの広場に一人かまえるキャッチャー。日が沈みかけた頃、とつぜんはっさくが飛んでくる」
こちらはすぐはっさくを見捨てる。
さっとよける。
取ってもらいたいのなら、まず彼を呼び出し、はっさくもボールみたいなものだという事を教える必要がある。
それにしても「夕暮れの広場に一人かまえるキャッチャー」というのは、なかなかいい。

回転の弾丸

この弾丸は貫通しやすいから、非人道的ではないよ。
そんな話があるのだろうか。
ダムダム弾という、ポップな名称とは裏腹に殺傷能力の高い弾丸がある。
これはあたると変形し、標的にとどまって大きなダメージを与えるとかで、よろしくないとのこと。
ということでスピン、貫通能の高い方が人道的ということに。
なんじゃそりゃというのはさておき、気になるのは「弾丸を回転させようとした人たちの真意」だ。
それはおそらく「弾丸をとどまらせちゃまずいよね」という観点ではなく、いかに相手にダメージを与えるかを模索したことの一つの結果だろう。
もしかしたら使用する側の安全面を考慮した結果というのもあるかもしれない。
どちらにせよ、弾丸と相手に与えるダメージの知見がわかってきてからの、あとづけのような気がする。
それでも弾丸の種類に、人道的と非人道的に分けられるというのだから、へんなところだ。
この弾丸は相手が死んだ事すら気づかないから、非人道的ではないよ。
いつか、これすら「人道的か非人道的かに分けられる」ことになるんじゃないだろうか。

犬がほら 服を着てる

犬に服を着せることが特殊だった時代は日本ではもう終わり、むしろどんな服を着せているのかぐらいの話になっている。
かわいいが、不思議といえば不思議なことである。
うちの猫も毛が薄いので、なんか着せている。
主人の葬式に喪服姿で連れてこられる犬。
しかし度が過ぎているというのもある。
今書いたのが、まさにその典型的な例だ。
犬の喪服を用意し、着させる心理的余裕がある。
そうとらえられてしまう。
ウェットスーツを着せられてサーフボードの先頭に立つ犬。
わからないが、溺れるのではないだろうか。
縁日などで見られる、犬のふうせんに車輪の付いたもの。
ぜんぜん話が違うのだが、僕はこれの意味することがいまいち分からない。
まあ、全体的に度が過ぎてはいけないのだ。
なんとなくだが、「喪服姿で改札に来るハチ公」というのを思いついた。
通りがかりの人はそれを見てこう思うだろう。
「もう死んでるって分かってるやん」

しゃっくり

しゃっくりが「母胎内にいたころの水中生活から、転じて肺呼吸を行うようになる我々の、肺を鍛えるための運動のなごり」だというような記載をどこかで見たような、見ていないような。
真偽は定かでなく、かなりあやしいが、少なくとも味のある話である。
もちろん程度がひどければ問題だが、小さい子がしゃっくりをしているのがいとおしく思えるようだ。
「この子はお腹のなかにいたころのことを思い出している」
一方おじさんがやっていたりしたらなんかいやだ。
「なぜお前が横隔膜をけいれんさせることがあるのか」
今、目の前のおじさんがしゃっくりをしている。
おじさんは夕焼けのふるさとでも思い出していたのだろうか。