二点識別閾

人の能力というものをきわめて大まかにまとめてみると、それは「ふたつのものをひとつではなく、ちゃんとふたつと認識できる能力」であるとは言えないだろうか。
要は「分けられる能力」である。
例えばテーブルの上にある爪やすりと歯ブラシを「分けて認識」できず、ひとつだけ何かが置いてあるように認識してしまった場合、口の中がじゃりじゃりになったり、歯ブラシで爪をこする母を見て子供が怖がったりする。
もっとひどいと何もかんもが全部一緒のものとして見えなくて、なんかエヴァンゲリオンだ。
あるいは手に持った小銭が1枚なのか2枚なのかわからないと、レジでもじもじしてしまうし、銭形平次はグラディウスのダブルのように、特殊な場合を除いて前方への攻撃力が低下してしまう。
両方とも、分けられなければだめだ。
前者は目の分解能が関わっている。
例がでかすぎて何だが、たしか2つの点をどれだけ近づけたら1点に見えちゃうか、みたいなことだったはず。
後者は部位覚というやつが関わっているらしい。
体のある部分を2点で刺激したとき、それが2点からの刺激であると認識できる最小距離で、その敏感さが表されるそうだ。
「二点識別閾(二点弁別閾)」。
これだけだとなんかめんどそうだな、という感じもするが、さきほどの説明が加わってくると、なかなか味わいのあるものになる。
まず、試験の光景がすでに面白い。
もちろんどんなふうにやるのか知らないから想像しかできないが、まず2点を刺激するのは綿棒だろう。
綿棒でいろんなところを2点ぐりぐりするのだ。
プレイである。
また、「俺は綿棒なんかじゃ感じない」という被験者に対しては綿毛が用いられる。
そもそも、その2点に与える「刺激」というのは何なのだろうか。
すごくやる人に左右されるような気のするのは勘違いだろうか。
綿棒をとんとんとん。
まだ2点ですか。
ええ2点です。
じゃあこれは、とんとんとん。
まだ2点ですね。
なごやかムードである。
プロの試験者になると、どこをどう刺激しても1点としてしか認識されない、ウルテクを習得できるかもしれない。
つぼみたいなところをとんとんする。
見た目は足先と頭くらい離れているが、被験者はあまりの気持ちよさに、全身がしびれてしまうのだ。
これが言うところの「二点識別閾突破」である。
ただどうも想像してみると、やるほうもやられるほうもくすぐったい感じがしてしょうがない。
僕は、突破は無理だ。
全身の「二点識別閾」を表した図がある。
「うははもうわっけわかんねえ」とくすぐったさを我慢できずに叫ぶ。
この図の被験者がそうではなかったことが驚きで、ロボかなにかかと思う雪の夜。

髪が伸びてきた。

髪が伸びてきた。
かなりうっとおしいことになっている。
しかし髪を切りに行くのがめんどうくさい。
どうすればいいんだ。
もちろん、いつかは切りに行かねばならない。
昔「僕の髪が肩まで伸びて 君と同じになったら 結婚しよう」みたいな歌があった。
偏見が多分に含まれるが、男がそこまで伸ばすのは相応に長髪が似合う者でなければならないと思う。
そしてそんなにたくさんはいない、その者。
だから僕はこの歌を聴くたびに「女の子のほうは、相手の髪が肩まで伸びたら別れようと言うんじゃないか」と思ってしまうのだ。
逆に「僕の髪が床まで伸びて?」とかだと、それはもう何らかの強い意志が感じられ、願掛けみたいなことになっているだろうから、むしろいい。
どちらにせよ、いつかは切らねばならない。
美容室に電話してみる。
「早くて19時になっちゃいます」
よく言われる「夜に爪を切る事を戒めたのは、暗い中で爪を切る事で怪我をしてしまうからだ」というのが本当ならば、「19時に髪を切る」というのは自殺行為なのだろうか。
以前書いたかもしれないが、散髪中の人はきわめて無防備である。
美容師さん由来の殺意はもちろん、頸動脈を狙うねずみにすら勝てないだろう。
「じゃあ今度にしますわ」
延命。

押し引き

内外から同時にドアを開けようとする動作。
そこで押す力と引く力が等しくなり、「んっんっ」とドアを押し引きする彼らを「ドア越しのダンス」と呼ぼうか。
ガラスなどの「すけすけ部分」がないと向こう側に誰かいるのかもわからず、そもそもタイミングとして同時に開けようとするなんてことはあまり考えない。
しかも片方は「押す引く」を間違っていなくてはならず、「ドア越しのダンス」の難易度は高い。
このダンスの一番美しい終わり方は何だろうか。
ドアの開かないことを不思議に思ったお互いが鍵穴をのぞき、目が合う。
そんな終わり方だったら、僕ならすぐドアを押して相手の目にドアノブ直撃を食らわせて、そのあと終わり方を考えたやつの尻を蹴る。
ドアを引く側だったらすぐ引いて、のぞいたやつを叩く。
そうじゃないだろうが。
そして向こう側が見える鍵穴って、なんだよ。
お互いドアノブを回しすぎてノブがひきちぎれる。
これはなかなかいい。
ドアノブ跡の穴からお互いのぞきこむのも、これなら許せそうだ。
ドアが2つに裂けるのもいい。
なんか防犯にも今後役立てられそうだし、防火構造ですとも言えそうだ。
ドアが裂けてビルくずれるという展開もしみじみして良い。
ドアの開かないことに不信感を持ち、同時に鍵の修理屋さんを呼ぶのもファンタジー。
このとき、どうしてもドア内側にたまたまドアの修理屋さんがいたりすると、願ったりかなったりだ。
両側から修理にかかる修理屋さん。
そして片方が鍵を掛ける動作をするとき、もう片方が開ける動作をしてしまったりするのだ。
なんかすごい。
そのままダンスフロアで踊る二人の映像が流れるのもいい。
腑に落ちないなりに「ああそういうことですか」と妙に納得してしまったりするだろう。
「ああドアがなくなって、隔たりのなくなった二人はやっとダンスが踊れるようになりましたか」と。
二人はドアを開けるのをやめて去るが、ドアノブは両側ともべったべたというのもありだし、必死でドアを押し合う二人の彫像ができてもいい。
「ドアを押し引きするとどちらにも開かない事を、最初に証明した二人」
誰も試した事なかったんである。

繰り返しの理由

昨日からのつづき。
【あらすじ】
人が言葉を繰り返しているときとは。
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例えば前から歩いてきた人が「駐車料金駐車料金駐車料金」と口にしていたら、それはいったいなんなのだろうか。
僕は、人がなんか言葉を繰り返していたとき、それは以下の理由があると思う。
少しの間そのことを忘れないようにする。
なんらかの主張をしている。
歌詞にそうある。
何かの確認。
少しの間そのことを忘れないようにする。
お店に入ったとき、「仏花仏花仏花」と言っている人がいたとしたら、必ずその人は「仏花」を買おうと思っているが忘れそうだ、という人である。
なんらかの主張をしている。
先日も少し触れたが、子供が「ベイブレードベイブレードベイブレード」と叫んでいた場合、それはベイブレードが欲しいという主張と考えて間違いない。
これがもし「少しの間そのことを忘れないようにする」ためだとしたら、その子供は気を緩めるとベイブレードのことを忘れてしまうらしく、だったら忘れてしまえばいいと思うくらいだから、たぶん違う。
歌詞にそうある。
ヤーヤーヤーやららら、チューチュートレインのチューチューはこれにあたり、カテゴリ分けされているように「忘れそうだから口に出しておく」とか「主張」とかとはちょっと違う。
どれも忘れて問題ないものばかりだ。
一方で主張ともとらえられない。
夢で死んだおじいちゃんが賢明に「ヤーヤーヤー」と言っていたらどうだろうか。
それで「お盆のときにはおはぎをお供えしてくれ」ということにでもなるのだろうか。
とりあえず僕がそういった旨の夢を見てしまったら、間髪入れずに「成仏してくれ」と願うだろう。
「お盆のときにはおはぎをお供えしてくれ」

「成仏してくれ」
悲しいことである。
歌詞をそうとらえてはいけないわけだ。
何かの確認。
「鍵鍵鍵」と人が言うとき、それは鍵を探しているか、相手に鍵をかけたかどうか確認を促すシチュエーションである。
あるいは「お化けお化けお化け」はお化けを見た人が恐怖に震えながら発する事で有名だが、それは恐怖と同時にどうにかして相手にそれを伝えようとしているとも言え、内容を確認しているとも言える。
冒頭の「駐車料金駐車料金駐車料金」は、おそらく忘れないように、か確認だろう。
ぎりぎり「駐車料金を毎月手渡しにするくらいなら、銀行から直接経由すればいいじゃないか」という主張ととらえる事もできなくはない。
難しいのが歌詞である。
駐車料金と連呼する歌。
インディーズというものを良く知らないが、インディーズだろうか。
銭ゲバを良く知らないが、銭ゲバの主題歌だろうか。
銭ゲバだと考えると最後のカテゴリ、恐怖とその事実の確認ともとらえられそうだが、いかんせん銭ゲバを良く知らないもので、それが「駐車料金を払えないことで頭を抱えて冷や汗をかく」ような漫画かがわからず。

繰り返し

「トラトラトラ」と聞いてまず最初に感じるのは、歴史上使用されたシーンやその意味合いではない。
繰り返しているな、という感じだ。
他にもこのような「繰り返し」はなかっただろうか。
今思いつくのがなつかし「カメラカメラカメラ」で、カメラ欲しさにだだをこねる子供のようだが、確かフリッパーズギター。
例が少なくて申し訳ないが、とにかく印象には残りやすい「繰り返し」。
だから、記録には残っていないが昔からこのような言葉は生まれてきていたのではないだろうか。
「本能寺本能寺本能寺」
例の事件が起きて数年は、そのことはこう言われていただろう。
「本能寺で誰かが変を起こしたので、慌てて向かっていった武士の様子から、本能寺本能寺本能寺という言葉は生まれた。それ以来、本能寺の変を表す言葉として現在に至っている。」
悪しき介入のせいか、残念ながら現在には至っていないが、まああっただろう「本能寺本能寺本能寺」。
とりあえず「変変変」でなくてよかった。
「熱熱熱」
これは昔からあってかつ今でも残っている、希有な「繰り返し」だ。
何も言わなくても理解されるほどに、誰しも知って、使ってきた事のある言葉。
そして「繰り返し」言葉の持つ貫通力がはんぱない。
「熱熱熱」
みんな何が起きているのかがわかる。
そして鍋敷きを探しにいくのだ。
さて、話はちょい変わるが人が「繰り返し言葉」を口にするのは、どんな理由があってなのだろうか。
今のところ思いつく事。
少しの間そのことを忘れないようにするため
主張
歌詞
確認
うーん話広がらなさそ。
次回。

夕食

僕は怖い話が好きである。
もちろん実際では遠慮派だが、話である分には好きだ。
そして同様に不思議な話も好きである。
こんな話を探し出した。
小学生のときに転校してきた某君。
彼は不思議な少年で、会っていない同級生の夕ご飯を当てるのだそうだ。
そしてより不思議なことに、当時の彼を覚えている人はこの話をしている人以外、いないという点。
不思議である。
ただ、ここではこの話をぐっと不思議にしている「彼はそもそもいたのだろうか」というところではなく、「夕ご飯をあてる」ところに注目してみたい。
例えば朝、出会ったときの「おはよう」の「は」のところで、同級生の歯にあおのりがついていたとする。
これは「夕ご飯の指摘」的中をするうえで大きなヒントになるだろう。
不思議話に水を差すつもりではないが、何らかの夕ご飯ヒントを、人というのは無意識のうちに与えているものなのである。
その学校がお弁当制度だったとして、ある同級生が宅配ピザの何ピースかを持ってきていたら、まず昨晩の夕ご飯は宅配ピザだろう。
舌なめずりばかりしているやつは、十中八九うな丼。
もちろん黄色い舌苔のやつはカレーだったろうし、青いのはブルーハワイだ。
くしゃみをしたときにベビースターみたいな長さの麺が出てきたら夕ご飯はラーメンであるし、もうナポリタンのときは何も書かなくていい。
そして何もヒントがないやつ。
それは家族全員ダイエット中なのか、お茶漬けかである。
このように、どうにか特別な能力がなくても夕ご飯を言い当てることができそうである。
同級生の母親の素行調査を充実させる方法もあるし。
しかし我々はもう一つ、彼自身のことについて考えなければならない。
「彼は自分の家の夕ご飯が何かを前もって知ってしまっていたのだろうか」
夕ご飯の楽しみが半減する彼。
夕ご飯のときに、いまいち元気のない息子が気になる母。
二人の雰囲気がよくわからない父。
この家庭内に「母さん、今日のごはん何!?」という言葉が発せられる事はなかっただろうが、もしあったとしても、それはそれで泣ける話になる。
僕は、泣ける話はそんなに好きじゃない。

順番

まな板の上ではぶたにくを最後に切る。
これについて何か書こうと思っていたのだ。
例えば豆腐ようとぶたにくがあったとすると、果たして本当に豆腐ようが先でいいのか。
あるいは何らかの理由でまな板を切る必要に迫られたとき。
ここは先にぶたにくでもいいのではないだろうか。
しかしそんなことどうこうの前に「まな板の上ではぶたにくを最後に切る」自体が面白くなってきた。
「まな板の上ではぶたにくを最後に切るのじゃ」と言う。
「魔法のほこらへゆくには、海沿いを南に進むのじゃ」
「そしてまな板の上ではぶたにくを最後に切るのじゃ」
または「まな板の上にはぶたにくを最後にすりこむ」と言う。
「漂白剤で殺菌しておいて」
「そしてまな板の上にはぶたにくを最後にすりこむんでおいて」
「まな板の上ではぶたにくを最後に切るのだ?」というのもある。
「まな板の上ではぶたにくを最後に切るのだ?」
「そして世界を闇と恐怖に包み込むのだ?」
とりあえずどうってないことも面白くする、言い方のうまい人になりたい。
今年の目標。

公式

ここで、DA PUMPをORANGE RANGEの公式に当てはめてみると、ダパンプパンプになります。
パンプダパンプになるのではないですか。
それはパンダコパンダの公式です。
今のは全然関係ないが、公式というのはすごい。
何がすごいかって、とにかく「公式に当てはめてみる」だけで、さも答えが出たかのようになるから。
例えばテスト中、自分の分からない問題について、前の人の解答「6」がちらりと見えたとする。
解答へたどり着くための過程は、見えない。
こうなれば誰しもやるだろう。
問題の中にあるものをとにかく入れてみて、そこからなぜか6が導きだされる公式を。
「地点aからbまでの距離700mと車の速度時速50km、観察者のいる高度20mをマクスウェルウェルの公式に当てはめてみると、りんごは6個となる」
何も書かないよりはいい。
りんごは6個もあるらしいし。

ふん死

いつだったか。
何かの本を読んだときに「ふん死」というやつを知った。
本当の意味はどんななのかは知らないが、なんかすごく怖い。
ふんってなんなんだ。
なんとも破裂感がしてしようがない。
僕がぱっとイメージしたのは、やっとこ仕事を終えて家に帰って、ふーっと息を吐きながら椅子に座る瞬間、爆発する。
それがふん死だ。
基本的に、「ふん死」という言葉の破裂感からは、僕のイメージは逃れられない。
歩いていて突然爆発する。
ふん死だ。
うたい終わってポーズを決めた瞬間に爆発する。
これもふん死だ。
僕はぜったいにふん死したくない。
だからちゃんと調べた。
世の中にはさまざまなふん死のあることがわかった。
そして目をひいたのがyahoo辞書での「野球で、ランナーが惜しいところでアウトになること」というもの。
「本塁突入むなしくふん死する」」
爆発するほうのふん死も、悪くないなと思った。

わるいやつ

こないだ考えた「外人さんに教えたいギャグ」というものに、こういうのがある。
「ワタシノ コドモハ ヒザコゾウデス」
しかし周りに手軽な外人さんはいない。
ここで誤解されたくないのが、このギャグを「ある異国の母国語使用から出る排他的劣等感を笑おう」というものでは決してないというところだ。そして僕は何を言っているのか。
まあとにかく、決してない。
正直なところ、僕が「ワタシノ コドモハ ヒザコゾウデス」という外国人に出会ったら、その頭の良さとセンスにおののき失禁するだろう。
それは明らかに演出だ。
例えば日本なら「日本語をそんな風にずらして話す外国人、という自分」をこの外国人は演出しているのだ。
すごい。
脱糞ものだ。
そしてひじを指差したりしてしまうのである。
もう、いたれりつくせりである。
この外人さんは、目の前の日本人に対して最高のおもてなしをしているのである。
ああ、失禁と脱糞が一緒に来てしまったとき、それをなんと表現するべきなのだろうか。
なんとなく「失糞禁脱」とすると、なんだか聖人だか70年代アイドル的な感じをもよおすが、また「もよおす」ってのがどうも。
ここでは「失禁と脱糞が一緒に来てしまったとき」のことを「自由」としよう。
ひじを指差す外国人のまえで、僕は自由だ。
僕は何を言っているのか。
今日は何を言っているのかと思うことが、ひたすら多い。