昔、ニュース23という完全に23時から始まりそうなニュースがやっていて、そのコーナーのひとつに「異論、反論、オブジェクション」という、セブンイレブンがいい気分になりそうなやつがあった。
それに対しては全く何も思うところはないのだが、ちまたではよく「明らかに許諾できないような意見であったとしても、ただ反論に終始するのではなく、一度その意見を認めた上で、それよりいい方法があるという形で反論した方がいい」
「確かにその方法もいいですよね」
「でも、こっちの方がよくありません?」
こんな流れのやつ。
確かに相手の意見を尊重する感じがするが、どうもめんどくさい。
ロバ「俺、一番上に乗ってみたい」
犬、猫、にわとり「!!」
ブレーメンの音楽隊、発足はじまって以来の危機である。
このときに「確かに、ロバがにわとりよりも上っていうのもいいですよね」と誰か言えるのだろうか。
あの四本足の巨躯を、あろうことが二本を翼に費やしてしまったにわとりが支えるというのだ。
さらにその重みを、猫だか犬だかが耐える事になる。
さすがロバ。
中世ヨーロッパでは馬と比べてあほとされていただけある。
今考えた限りだと、かろうじてこれか。
「確かに、ロバがにわとりよりも上っていうのもいいですよね」
「でもそれって、ただ凶暴なロバが動物達を踏み殺した図になりません?」
これでロバが、現状が最善である事に気づいてくれればいいのだが。
月: 2013年1月
リンケージ、口癖。
最近の僕の口癖は、話はじめに「変な話」と付加してしまうというもの。
「変な話、お酒飲みながら物食べると太りますよね」
「変な話、冬って寒いじゃないですか」
「変な話、諸行無常の響き、あるよねー」
これは、結構な数の人が口癖になっているような気がする。
そして、その理由はこれから話す事に自信がなかったり、見当違いの事なのではないかと感じているときっぽい。
だが、僕の場合は少し違う、と勝手に考えている。
この口癖が出てしまう時、相手からはいつも「変な話じゃないのに、なんでそう言うの?」と突っ込まれてしまうのだが、これについては反論があるのだ。
すなわち、僕が「変な話」というのは、これから変な話をすることを自覚しているときである。
そして僕が自覚している「変な話」とは、人が何かを話はじめることの行為自体だ。
そもそも何かを話しはじめること自体が変だと思っているため、たいがいの話はじめには「変な話」を付けざるを得ない。
そしてその内容がネオテニーだったりカニバリズムだったり曲がるストローの話だったりそれっぽく嘘を話したりするのだから、これはもう二重に「変な話」と断っておくべきで、ちゃんとそうしている僕は偉い。
リンケージ、某。
中学生というのはどんな時代であっても、「そこそこ社会性を持ち合わせた人々が一堂に会する」、はじめての環境ではないだろうか。
故にここで奇妙な知識や習性を獲得してしまうと、客観的にはそれが間違っていると感じていても、それに固執してしまう。
そんな困ったことが起きやすいところでもある。
僕は中学2年生のとき、インテリな友人から「どんな固有名詞にでも「(某)なにがし」を付ければ特定を免れる」ということを聞いた。
何だその免罪符みたいな発想は。
そう思いながらも、これを「もちろんみんな分かっているが、体裁上は隠してますよということにしたい」というものも含有していると考えればまあ面白いかな、と今でもよく使ってしまう。
「池田某さんって「端的にいうと」ってのが口癖だよね。ぜんぜん端的じゃないけど」
「某鈴木さんのカバンから、大量の生米が押収された」
このような場合、教室や職場に池田さんや鈴木さんが一人しかいなかったとしても、あくまで「池田姓の誰か」「鈴木姓の誰か」、もしかしたらただ、「誰か」なのである。
便利である。
明日にでも試してみるといいよ。
リンケージ、鼻先。
手塚治虫の漫画をみていると、登場人物にほぼ自身だろう、という感じの漫画家が出ていたりする。
そのメタっぷりは古くさくもちょっと好きなのだが、とにかく目立つのは、この「漫画家」のキャラクタの鼻先からふき出ている何か。
機会があれば確認していただきたい。
手塚漫画で手塚治虫自身を投影しているキャラクタの鼻先を。
なんかふき出しているから。
脂質や角質なのだろうか。
そうなると、ふき出す描画にするだろうか。
鼻の穴なのだろうか。
しかしふき出す描画は鼻の穴から出ているようには見えないああなんで僕のPCは「鼻の穴」で「花野アナ」に変換されるんだ。
確かにそうそう「鼻の穴」についてどうこう打つ機会は少ないだろうが何だってアナウンサーのことだと思うんだ。
この世の全ての人が女子アナのことを考えているなんて思ったら大間違いだ。
女子アナがどこかの球団の誰某と結婚したっていい。
女子アナがなぜ「女性アナ」と呼ばれないのかなんてのも、どうだっていい。
というか「花野アナ」っていう女性のアナウンサーはそもそもいるのか。
というか結構僕、女子アナの事、考えているのか。
リンケージ、透明。
またしても猫が増え、大変だ。
子猫なので部屋の中を自由にさせている一方、他の部屋には行かせられないので、出入り口のところに金網上の小さい扉を設置した。
これで何が困るかというと、夜遅くに帰って灯りをつけずに廊下を歩く時、この扉の事を忘れているとぶつかってしまう。
小さいから被害はないのだが、恐ろしく大きな音を立てるので、寝ている人を起こしてしまうのだ。
世界中のガラス業界にとって、西暦というのはいかにガラスを透明に近づけるかの歴史であるという。
ということは定かではないが、少なくとも透明を目指してがんばってきました、というのはあるだろう。
それはなぜかと尋ねたら、誰かなにか僕の納得できる回答を返してくれるだろうか。
最近のガラスの透明さは、業界のみんなががんばってくれたせいか。
鳩を衝突させ、人の鼻先を衝突させ、物を食っている人をよく観察できる。
要はガラスの「存在感のなさ」がハンパない。
むしろ模様を付けて、ここにガラスがありますよをアピールする始末である。
もちろん、先ほどの問いの回答のひとつに「内外を遮断した上で、内が見たい、外が見たいという願望を実現するため」というものがあるのだろうが、それにしてもあまりに透明で存在感がないと不安になるケースがあるのも確かである。
一旦、自動ドアが開いていると思ってのドーン、を経験してしまうと、しばらくは「目の前にガラスがあるかどうか」を確認するため、恐る恐る手をかざしながらの入店になってしまうことがある。
これはちょうど、冒頭の金網の扉を警戒して僕が家に帰ってきたときの動作とそっくりなので、どうも「透明」「存在感のない」ということと「暗闇」というのは、人間にとっては同じようなものなのだろう。
リンケージ、叫ばれながら。
最近の「リンケージ」とタイトルに付いている回は、その前日に出たあるキーワードについて何か書く。
そんな手抜きで行っている。
昨日、「叫ばれながらそこを押される」という旨の一文を書いた時、なかなか「叫ばれながら」何かを「される」、あるいは「する」。
そんなことはあまりないな、と思った。
徳永英明の歌に「輝きながら」というのがあったが、これも「輝かれながら」だと、え、一体誰が僕のためにと思ったり、いつも二番目でどうこう、と別の意味でいい歌になりそうだ。
一方で「叫ばれながら」は、自身が怪物であったり地縛霊であるならばいいのだが、そうでない場合はちょっと困ってしまう。
要は、「叫ばれながら」は「叫ばれながら、光線銃で狙われる」「叫ばれながらも、街を破壊する」や「叫ばれながら、お札を向けられる」「叫ばれながらも、半透明具合を調整する」などがしっくりし、あまりいいイメージはない。
受け身になっただけのはずなのだが、受け身状態になじみがないというだけで、こんな違和感。
ただ、よく考えてみると「叫ばれながらも、卒倒した女の子の介抱を指示する」など、ロックスターのようないいイメージも取り上げる事ができることに気づく。
このような二面性というのは、ちょうど「輝かれながら」。
月を彷彿とさせる、と早急にまとめたがるのは、ちょっと今が7月14日でテレビでやってる「モンスターズインク」を見るのに忙しいから。
リンケージ、やる気。
「やる気スイッチ」のコマーシャルは実際のターゲットについてはともかく、かなり印象づけられる点ではCFとして成功している。
他のところとは違うところを見せたいのか。
多少ずらした感じの塾のCFは、なんかいろいろ大変なんだろうな、と少子化を危ぶんでみたり、空を見上げてみたり、小鳥とお話をしたり。
いろいろと憂鬱にさせる。
うちの猫には、結構全身は白いのだが顔に不均一な灰色の模様の入った、残念な猫がいる。
その猫の腹の、ちょうどへそっぽい部分には灰色の模様がやはりあり、悲しいかな彼は人間に捕まると腹をさらされ、いつも「やる気スイッチ!!」と叫ばれながらそこを押されてしまうのだった。
彼は、おびえて隠れて生活している。
さて、確かCFでは、「やる気スイッチ」はいわゆる「トグルスイッチ」で、ONとOFFを交互に切り替えられるものだった気がする。
普通に考えれば、やる気は一度ONにしたらそれを維持。
スイッチは一度押したら戻ってこないような、そんなボタン形式がいいのではないか。
そう思ったのだが、やはりそれは「OFFも必要」という至極当然な話もあるだろう。
となるとトグルの方が優れているか。
そういえばトグルには「今がONなのかOFFなのか、明瞭」という利点もある。
先ほどの猫は「やる気スイッチ」がただの模様なものだから押したかどうだか永遠に分からず、永遠に押されてしまうことを考えても、トグルがいい。
リンケージ、脳。
ある教室で、英語教師の米国人女性がこんな話をしてくれたのを思い出した。
(注:気持ち悪いところあり)
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わたし、地元の駅でこんな体験をしたわ。
いつものように地下鉄に乗って帰ってきて、階段を上がっていったとき。
何か調子の悪そうな。
そう、酔っているような男の人が階段を降りてきたのよね。
ふらついている彼を横切ったと同時に、彼は階段を踏み外してしまったの。
私は慌てて振り返って彼を介抱しようと思ったんだけど、一目見てそれがほとんど意味がないことなのかもしれないことを理解したわ。
彼は頭の打ち所が悪かったみたいで、大脳がきれいに出てしまって、階段にころんと転がっていたんですもの。
=====
と、こんな感じだ。
もちろん他意はなく、仕方のない事故だ。
もしかしたら創作ですらあるかもしれないのだが、それにしてもやはり後味は悪い。
ただ当時、何よりも疑問が先に生じた。
なぜ彼女は授業にこんな内容の話を採用したのだろうか。
今考えてみると、私たちは英語の授業にあまり興味がなかった。
それは彼女の授業のやり方どうこうではなく、ただやる気というものが欠落していた。
だから授業はいつも静かで、彼女の大きな話し声だけが部屋を満たしていた。
やる気がなくて申し訳ない。
そして思う。
人に興味を抱かせなくてはいけないというのは、誰だって頭の痛いことなのだ。
リンケージ、白子。
僕には苦手な食材があって、それは干しぶどう。
以前書いたと思うが、何をフレッシュなフルーツを干しているのか、という気分になる。
一方で、「本気を出したらもちろん食べられるけど、まあ今はまだそういう状態じゃないから」という食材もある。
それが「なまこ」「ほや」に代表される「人が食べているぶんにはいいが、自分はいいです」系のもの。
僕にとってそのなかには「白子」も含まれている。
確か「美味しんぼ」だったか。
白子と子羊の脳が似たようなものだ、としていたのは。
食えるものは食えるだけでありがたいため、それについて本来、とやかく言う事ではない。
しかしそういう考えを持ってしても、双方甲乙付けがたい「自分はいいです」系。
中から何が出てくるかは分からないが、とにかく何かは出てくるんだろうと想像できるハリとツヤを持ち、そして生物の中にあるとは思えない白さ。
以前、居酒屋で面と向かってみたものの、結局は口に運ぶ事はできなかった。
食材の話だから同物同治の話をしてもいいかも知れないが、何か今回は流れが良くない。
「干しぶどう、白子」
ほら。
リンケージ、シロアリ。
残念な事に「シロアリが得意な人」という人を僕は見た事がなく、それはその容貌や「わんさか感」、そもそも虫だという、理由に事欠かないこと。
そして有名な「家の木材部分を食い荒らす」という、彼らが体内で木材の成分を分解できる細菌を持っているからこそ行える気持ち悪い性質も、原因になるだろう。
昔、家を荒らされた事があってもなくても、嫌い。
今、ちょうど家を荒らされてる人だって、嫌い。
家を荒らされてはいないと思うが、今目の前をシロアリが歩いているっていう人だって、嫌い。
人はシロアリの事を嫌いなのだ。
それでも僕は思う。
幾人かは「シロアリの女王のお腹部分に食欲がわいた人がいるのではないか」と。
タンパク源として虫を昔から採用していた人たちはもちろんいいのだが、そうではない、例えば日本の虫を常食としない地域。
そんなところの人たちでも、いると思うのだ。
あの、大変な事になっている女王アリのお腹がうまそうに見えた人が。
僕は触る事すらできないだろうが、想像はできる。
その人たちは、おそらくその味を「白子」っぽいのと考えているのではないか。
「森の白子」と呼ばれる日は来るのだろうか、シロアリの女王。
いや、彼らはもう人間のすみかに進出していた事を忘れていた。
「家の白子」と呼ばれる日が来るのだろうか、シロアリの女王。
そっちの方は、冷蔵庫の方で十分なのだが。