久しぶりにジョギングをしたら次の日、体中が痛いこと痛いこと。
骨にとげが生えたらこんな感じになるんじゃないだろうか。
それでも暇には勝てず、自転車でどこかに行こうか。
しかしその自転車がつらい。
痛い。
今日が試合じゃなくてよかった。
試合をするような何かをしていないのだが、とにかくよかった。
それでも自転車をこぎ、特に行き先を決めるわけでもなくふらふらと走り出す。
痛い。
太ももの、こことここが特に痛い。
今日がアグレッシブな祭りじゃなくてよかった。
近所の祭りに参加したこともないんだが、とにかくよかった。
神社。
よくわからない神社についた。
ここはどこなんだ。
神社へ行くためには100億万段くらいある階段を上らなくちゃいけないようだ。
足が痛いなあ。
少なくとも今日、僕が変形ロボじゃなくてよかった。
今日にかぎっては変形できないから、とにかくよかった。
骨にとげ生えてるから、攻撃力は高くなってんだけど。
月: 2011年4月
靴下模様の空飛び猫
以前からちょくちょく書いているが、飼い猫がよく靴下をくわえて持ってきて鳴くんである。
聞くところによると、猫なりに「持ってきたったぞ」と獲物を与える母親風な意味もあるんだとか。
となると猫飼いがまっさきに考えるのが「お金を持ってきてくれればいいのにねー」なのだが、それはあまりに現金というもの。
「カルカン」
パックに入ったカルカンを持ってきたら、それはかわいいだろう。
人間側としては「あけて」と解釈する事ができ、それはいつもはつっけんどんな猫が甘えている証拠だから。
しかしかわいさの面で行くと、これもなかなかだ。
「ペディグリーチャム」
まちがっちゃったのー?とだっこしてあげたくなる事うけあいである。
と、この流れ、だ。
この流れだとどうしてリモコンやなくしていたペンダント、勇気、領収書などになっていくことは明白だ。
それはいやだ。
しかしそれ以外はどうだと考えてみても、いまいち思いつかない。
逆に新鮮なのが「ねずみ」だ。
なんとなく昭和の風を感じながら、「猫とねずみ」の絶対的相性のよさを噛み締める事ができる。
「流れぼし」はどうだろう。
完全に童話、CMの感じで少々気持ち悪いが、見た感じはいい。
ただ、現在屋根の上に登るのが好きな猫はどのくらいいるだろう?。
「丸まったアルミホイル」は?。
ちょっと悪意があるな。
「小石」
ある意味、もっとも心配で、怖いものである。
どんな意味があるのか分からない。
転がして遊んでいたものなのだろうか。
きばの間に挟まってしまったのだろうか。
小石を一つずつ持ってきて嫌いな風呂を埋め尽くそうとでもいうのだろうか。
猫も胃石が必要なのだろうか。
無能の猫だろうか。
猫に無能はないか。
めがねがおにあい。
目があまりよくないのだが、近視だとか遠視だとかの意味をちゃんと知らない。
近視が「近くが見えない」、遠視が「遠くが見えない」で、X視が「人の疾患が見える」だっけか。
な!!。
な!!。
溶かす訳には行かない話。
カレーの中に当然という顔をして御座るジャガイモにそれほど文句もないが、何となく思うのは「各家庭におけるカレーの違いのほとんどは、ジャガイモの大きさなのではないか」ということだ。
よく家庭別カレーの違いについて話の盛り上がる事がある。
しかし考えてみると、石臼の調子からスパイスの調合などといった、料理をする事を自慢げに話す独身男性のような家庭はあまりなのではないか。
それはカレーの違いがメーカーの出すルー種別に絞られていることを示す。
となると違いというのはそのルーの種類と、せいぜい具についてくらいなのだ。
ルーといえばバーモントカレーだ。
数多くの他メーカーが新ルーを開発し続けてきたが、いまだその牙城がくずされたということを聞かない。
もうバーモント州の人に申し訳ない気持ちになるくらい、日本人にとってバーモントはカレーなのである。
そうなると、もう具だよ違いは。
僕は、初めてキャンプを経験する子供たちが一番驚く事といったら「自分の家とは違うサイズに切られたジャガイモ」そのものなのではないか、と考えている。
そして差異のある認識上のジャガイモ片と目の前のジャガイモ片。
どちらが正解なのかがわからないため、その驚きを隠そうとする。
うちのはもっと大きい。
大きく切るよ。
そういったところからストレスが発生、人格形成などに支障をきたすから、カレーに入れるジャガイモ片の大きさは妥当な線を前もって調べておき、それを家庭でのデフォルトとする。
そのくらいしないと、こんなくだらない話がなりたたないわけでして。
共鳴は産道を伝って
去年のおおみそかも、夜中に川沿いの神社へ様子を見に行ってきた。
「様子を見に行った」というのは的を得ていて、財布すら持っていってないから、おみくじをすることも賽銭を入れる事もなく「おー並んでいるな」と感心するだけなんである。
事実、賽銭箱の前にはなかなか長い列ができていて、この列の長さが長いほど不況だったりするのかもしれないなどと考え。
しかしみんな楽しそうだ。
夜中に出歩き、しかも神社の明るさやたき火が放つ明滅が新鮮なのだろう。
ぼくだってそういうがあるからこうして自転車で寒い中をわざわざうろうろしているわけだし。
そう遠くないところから鐘の音が聞こえてくる。
近くにお寺があり、そこはおおみそか「お坊さんの手ほどきで自由に鐘ついていいよ」運動が行われているのだ。
さっそく様子を見に行った。
自転車でそこへ向かう途中、そこでも列ができていることに気づいた。
鐘をつく列だ。
この列は、ちょっと腑に落ちない。
おみくじ、賽銭が何かしらメリットがありそうなのに対して、「鐘をつく」システムにそういったものは一見なさそうだから。
たまたま「鐘あいてます」などと貼り紙のしてある鐘があったりしたらつくかもしれないが、わざわざ並ぶかな、と思ったのだ。
鐘とつつき棒?の間にアロンアルファをつけておいての実験だとしたら、少し気にもなるか。
しかしそれでも並びはしないだろう。
前の人の結果を見ればいいのだ。
鐘とつつき棒?の間にアロンアルファをつけておいての実験と見せかけておいて、ただアロンアルファのチューブを思いっきりつぶしてみようということなら、少し気にもなるか。
しかしかなり離れたところで見物できればよい。
トマトをつぶすという、日本版トマト祭りというのを考えてみた。
しかしおおみそかに、鐘でやるすじあいは、トマトにも寺にもない。
これならかなり興味が引かれそうだというのを今考えてみると「ハンバーグの生地を下に置いた状態で鐘をつくと、味が良くなる」とか「鐘の下に置いたメトロノームがぴたっと止まる」とか、そういうのがいい。
そういったものがない、ただ鐘をつくのもなあ。
ところが考えてみると鐘をつくというのは一般的な人生においてそんなにあるものじゃなく、興味が出るのは仕方ない。
しかも、おおみそかだから出歩いてみたとしても実はそれほどアミューズメントに富んだところはないので、鐘でもつついてみようかと並ぶ気にもなるのである。
そしてもちろん、以前どこかで僕も鐘をついているわけで、しかも驚くべき事に、その鐘には貼り紙はなかったはず。
僕は反省し、この寺の水路にいるカワニナを探そうと小道に入る。
水がない。
道徳の証拠
「おかあさん。今日はわざわざお越しいただいてすいませんね」
「いいえそれは。ところで御用はどんなことなんでしょうか」
「うちの子が何かしましたでしょうか。学級崩壊のきっかけとか・・・?」
「いえいえ。そういうことではないんです。ただ少し気になる事がありまして」
「と、いいますと?」
「この間道徳の時間で「目標とする人」というのを生徒たちに書いてもらったんです」
「ええ」
「確かに、この年でちゃんとその人の名を挙げる事ができるのはすごくいいんですが」
「うちの子、誰を書いたんですか」
「目標の人、MIBなんですよ」
「MIB?」
「黒服の男で、映画にもなっています」
「詳細は省きますがオカルト事件のときに現れるとされていて、正体がわからない人たちだそうです。印象も残らないのだとか」
「そんな人が」
「そんな人が目標なんだというんです。ちょっと気になりましてね」
「はあ」
「何か心当たりありませんか、おかあさん」
「いいえ。ただ、わたしが言うのもなんですけど、本当に手のかからない子なんですよ」
「・・・ええ」
「だから、どこにいても何をしていても心配せずに済むといいますか、気にならないといいますか」
「・・・」
「ちょっと、心当たりはありませんね」
「・・・わかりました。とりあえず本日はもう結構です」
「あ、そうだ。今日帰ったらかずひろ君に宿題をわざと忘れるのはやめなさいと言っておいてください」
「彼は定期的に宿題を忘れるんですが、どうもわざとっぽいので」
「あら。だってよ、かずひろ」
「着々!!」
みつけだそう super treasure
♪みつけだそう super treasure
作詞 nimbus7942
作曲 nimbus7942
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♪朝日がいつもと変わらず 俺のほほを照らし出す
♪そっと なぜるかのように
♪人はなぜ 光を追い求めて生きるのか
♪たとえ 手が届かないものだとしても
♪みつけだそう からあげクン1個増量期間のスケジュール
♪ほら 道ばたに花が咲いているよ
♪みつけだそう ミッツ マングローブの女の部分
♪日が 落ちて暗くなる前に
♪get you
♪生ける屍たちの 駅へと続く行進なのさ
♪あの たどたどしい足取りの男は
♪屍だから 希望もないが夢もない
♪あると すれば昨日の酒の残り
♪みつけだそう ノースリーブにアームウォーマーの女が示す生肩の可能性
♪愚民 政治混沌の世界
♪みつけだそう サラダに混入したらしい 虫
♪日が 落ちて暗くなる前に
♪みつけだそう 遠足前の保険証
♪道ばたの 花が誰かに摘まれている
♪みつけだそう 早く虫
♪夕飯が 冷える前に
♪get you
延長コード先に咲く一輪
以前も書いた気がするが、この机上を見るだけでうんざりしてしまうコードの量。
いやだ。
しかし充電器などは片付けてしまうと、それはそれで面倒なわけで、どうにもコード地獄からは抜け出せないようだ。
今、コードにびっしりアブラムシがついていたらどうだろうと思いついた。
なかなかいろいろ使えそうなイメージのような気がする。
見た事があるのだ。
庭のバラ、若芽にアブラムシが足の踏み場もないくらいにみっちりついていたことを。
と、こういうときに「足の踏み場もない」を使用してもいいのだろうか。
まず気になるのは「足の踏み場もなくしているものが、けっこう踏んでしまってもいい」という今回のシチュエーション。
無益な殺生は好まないが、この場合のアブラムシは除去したい対象だ。
できないが、指でついーっとしなくてはバラがやられてしまうから。
それに話題の環境自体が足の大きさに届かないという点も気になる。
「バラの若芽に足の踏み場がない」とくれば「そうだよね」で終わってしまう。
そこにアブラムシがいようがいまいが踏み場の面積が増えるということはないから。
あれ、何の話だったか。
コードだ。
コードとくれば掃除機のあれだ。
今では少なくなってきたかもしれないが、あのしゅるしゅるとした動きに逸話はつきない。
確かグフのヒートロッドは、掃除機コードの巻き取りシステムが応用されていたはずだ。
あのしゅるーっとしたやつで、ガンダムをやるんだ、グフは。
そういえばヒートロッドには節があった。
それはなんとなく髪の毛のキューティクルを彷彿とさせる。
髪の毛にびっしりアブラムシがついている感じもいいなと思ったけど、ちょっと気持ち悪すぎる。
それにこうくると、髪の毛がコードの人を考えなくちゃいけない。
でもそれはトランスフォーマーか電脳少女か初音ミクか。
たぶん全部間違ってるけど、そういう人のコードをちゃんとコンセントに差してあげればすごく頭の回転が早くなるだろうし、なんだかフリスクのCMっぽい。
もっとシンプルに、コンセントを差すとコード先にバラが咲くってのもいいな。
机上、一花繚乱。
エコ人生論
風の強い日に気になる事と言ったら「回転する看板」。
時として武具ともなり得るその回転速度は、目を見張るものがある。
しかしもうひとつ気になる事ができた。
「両面の絵柄」だ。
「回転する看板」は、片方ずつ違う内容を描く。
勝手にそう考えていた。
回転によって両面が動的に切り替わるわけだから、より情報をのせる意味があるだろう。
それならば違うものを書くでしょう?。
ところがこないだ見た回転看板は、両面同じ事が書いてあった。
なぜなんだ。
納得がいかない。
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おしらせ
なんか今考えた、回転看板を使った教訓ばなし
「回転看板には3種類ある。人間も同じだ」
「両面おんなじ事を書いているやつは、逆境に立たされたときでも動揺せず、普段通りのことができるやつだ」
「片面ずつ違う事を書いているやつは、そういうときにころころ態度を変えるから信用できない」
「でも、例えば片面にめがね、もう片方に人の顔を書いていた場合」
「回転する事でひとつの絵になる、なんてやつには注目した方がいい」
「ピンチのときに頼りになるやつというのは、こういうやつのことを言うのだ」
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あ、あのカギ屋は信用できるんじゃないか。
納得。
いつまでん
その本屋からエスカレーターを降りていくと、目の前には子供服売り場があった。
子供は成長するのが早いから、新しい服を次々に買うのは気が引ける。
そんな話を思い出した。
しかし考えてみると、大人と子供の時間の流れ方は同じじゃないだろう。
「そんな子供に、いつまでお下がりを着せておく気?」
と、このフレーズが唐突に考えだされたので、困っているのだ。
子供服のことをずっと考えていたわけではない。
どちらかというと「コーヒーを飲んでいてむせて、口からはいたのがキーボードの上にこぼれて、そのコーヒーには砂糖を入れていたっけ?」ということくらいだった、考えていたこと。
ただ、むせただけ。
しかし出るんだ口から、よくコーヒーが。
さっさと手で押さえるなり向きを変えるなり、ティッシュを取るなりするべきだったのに、思いのほか体が言う事を効かない。
効かないというよりは、どちらかというと「むせる事」が思いのほか大変なこと。
思いのほかコーヒーが口からはき出されること。
思いのほかそれに驚きを感じている自分がいること。
予想外の出来事のせいで体が動かない。
そんな感じ。
「キーボードが乾いたとき、砂糖のべたつきでキー押しの感じがどっこいしょになっちゃう」とあせる一方で「あーあべとべとになるわー。でもいいや、なるがいいさね」とどこかやけくそにもなる。
そのやけくそ感が「そんな子供に、いつまでお下がりを着せておく気?」という謎コピーを生み出したのか。
いいんだ。
いつまでもお下がりでいいじゃないか。
それよりもキーボードのべとべとのが重要でしょう?。
キーボードを干す。
べとべとは避けられないだろうが。
そして午後5時。
日もくれたのに干されたままのキーボードが言うわけだ。
いつまで干しておく気?
ごめんなさい。