らくがきエクステンション

らくがきを拡張してみよう。
その、なんとなくな悪っぽさに着目すると、こうなる。
らくがき

ネクロノミコン
一方、無邪気な感じに着目すると、こうなる。
らくがき

かくれんぼの隠れ場に土管をチョイス
ちなみにらくがきがネクロノミコンにまで拡張するには、以下の経緯がある。
らくがき

ぬりつぶし

らくがお

かおぬりつぶし

四肢を押さえてのらくがお

文書偽造

筆圧による傷

聖痕っぽい傷あと

とくに聖痕でないことを説明するときに生じる、何らかのストレス

不満や憎悪

「俺流のネクロノミコン、作ってみるか」

ネクロノミコン
以上をまとめて。
らくがきを拡張してみると、
「いじめられっこに追われて土管に隠れたら、そこにあった俺流ネクロノミコン」となり、なんかの導入部になりました。
わかりましたか?。

締まらない別れ

中島みゆきの「わかれうた」を聞いてみたところ、気になる歌詞があった。
というか、いきなり冒頭付近なのだが、なにやら「みちに倒れて誰かの名前を、呼び続けたことがありますか」という旨の歌詞。
悲哀である。
しかし、歌というものが持つ風情やおもむきを無視して、考えてみる。
「みちに倒れて誰かの名前を、呼び続けたことがありますか」
恋しい人が去ってしまったのだろうか。
ただ、気になるのがこの場合「去った人、戻りにくい」である。
もし去った人の気持ちが変わり、「もう一度やりなおすか」と心機一転戻ろうとしたとき、「そんなこと」になっていたら。
ミュージカルである。
素通りするしかないような気がする。
そこで「みちに倒れて誰かの名前を、呼び続ける人」にかまってしまったら、周囲に名前がばれてしまうし。
いや、名前がばれるくらいならいい。
相手は倒れているのである。
どうしても「相手を傷つけまくった○○」という構図が、名前を呼び続けられることで生じてしまう。
そこに満を持しての登場と、あいなってしまうのである。
どうしても周囲の目というものを意識せずにはいられないじゃあないですか。
一方、「そんなこと」になっている側にも問題がありそうだ。
「みちに倒れて誰かの名前を、呼び続けてしまう」ことが、愛想を尽かされる要因のひとつであることを認識すべきである。
「みちに倒れて」もだめだし、「呼び続ける」のもだめだ。
ミュージカルすぎる。
さらに、去った人が戻ってきちゃったときのことを考えると、おちおち「みちに倒れて誰かの名前を、呼び続けてしまう」ことなんてできないとも言える。
呼び続けていたら戻ってきた。
「おいおい戻ってきたよ・・・」
内心そう思うことうけあいである。
今回はずいぶんひどい内容。
しかし大丈夫。
「みちに倒れて誰かの名前を、呼び続けてしまう」ことなんてそうそうないから。
そしてこれを頭の中でやる分には一向にかまわないことだってのは、多少心得ているから。

エアーズの攻防

今テレビでやっていた、高所での人間模様が目についた。
簡単だ。
高所が得意な人と、苦手な人の模様である。
超苦手ではないが、確実に得意ではない僕の見解からすると、高所の苦手な人が見せる動向に、他意はない。
いかにして高所から逃げるか、下に下がっていくことを望むか。
これだけである。
一方の得意側の動向は、ちょっと変な気がする。
高いところで優位なことといったら、僕は景色しか思いつかない。
ところが、特にテレビだからだろうか、高所得意側には「高所苦手側に対する、得意側としての誇り」みたいなものが見え隠れするのである。
ジャンプしその場所を揺らす。
必要以上に下を覗き込む。
手すりによりかかる。
これらの「やんちゃ行為」は実は、得意不得意にかかる行為ではない。
しかし得意側には不得意側に対する誇りがあるため、やってしまうのだ。
小銭を探している。
近所の人が歩いている。
展望台の手すりに、金箔がついている。
こういう理由があれば、誇りどうこうに関わらず得意側、不得意側ともに先ほどの「やんちゃ行為」に理解が示せるはずだ。
しかしそんな理由はないため、片や誇り、片や理解不能なやんちゃ行為として、互いの溝を深める要因となってしまう。
高所において、彼らが本当の意味で手をつなぎ合うことはないのである。

両手いっぱいの星

庭に植えてあるきゅうりか何かの葉に、テントウムシが引っ付いているのを見つけた。
それは確かジュウニヤホシテントウ。
アブラムシをばくばく食べるお仲間のテントウムシとは違い、こいつらは葉っぱを食う。
いわゆる害虫枠の昆虫である。
幼少期、僕はこれを両手いっぱいに集めて遊んでいた。
映画「となりのトトロ」では、メイちゃんがすすわたりというやつを捕まえ「とった!!」と叫ぶシーンがある。
映画を見た方ならわかると思うが、あれはすすわたり的には「とった!!」ではなく「殺った!!」である。
要は、明らかにつぶしている感じ。
僕はジュウニヤホシテントウを両手いっぱいに集めた。
しかしそれは、殺るためではなかった。
なんとなく、植えてある野菜なんかに悪さをするんだという認識はあったが、ただ単にたくさんテントウムシを集めることが、生きる上での重要項目上位だっただけなのである。
僕は手頃な保母さんに手の中を見せて微妙な表情を獲得したのち、満足げにテントウムシを放っただろう。
今は無理だ。
テントウムシを両手いっぱいに持つことなんて。
手のひらが黄色い汁に侵されるなんて。
現状、生きる上での重要項目上位に「テントウムシを両手いっぱいに持つ」はないのである。
そして、それほど勢力拡大していないこの虫をどうこうする項目もない。
我が家のジュウニヤホシテントウは今のところ、安泰である。

しんきゅう

針灸師の進級試験という「おイタ」があるとする。
このとき、これで終わらせてしまったら確実に人間としてめんどうくさい方面のレッテルを貼られることになる。
だから、多少無理をしてでも何かを加えて、「サイコーだよ」や「お、うまいな」、「なんだいつもひょうきんだなお前」、「はいはい」くらいにまでは持っていきたいものである。
針灸師の進級試験、凝りに凝ってる
どうかと思うような付け足しだ。
でもやらないよりはましだろう。
針灸師の進級試験、針すなお
もう、関係しているもの(この場合、針)を含む何かを付け足すのでも、まあいい。
ただ、なにげに「もっと何かすごいことがギャグとなっているのではないか」と思わせる効果があったりする。
針灸師の進級試験会場、のろしが目印
ここまでくるとちょっといいかもしれない。
もぐさの臭いでもわかるんじゃないか。
そんな気にさせる。
針灸師の進級試験日、4月9日(シンキュー)
針灸師を目指すものを不安にさせる試験側団体の所行だ。
シンキューと読ませるのも難しいし。
針灸師の進級試験に、肩かちかちのやつを複数用意する
針を通らせないやつを用意しておき、試験の難度をあげる魂胆。
誰にメリットがあるのかは知らない。

変更して送る。

昨日、ちょうど「ききい ききい」などと打っているときに、家ねこのキキが帰ってきたのです。
彼がさっさと帰ってきていたなら、昨日のブログ内容はきゅうりの浅漬けか何かの話題になっていたため、その点いいやつです。
そしてブログ書きあとにすぐ帰ってくるなど、不思議系動物の代表格、ネコの面目躍如といったところでしょうか。
では今日は、昨日でも起こった、「一部番組内容を変更してお送りいたしました」というものについてでも考えてみる。
基本的に、報道に緊急を要する場合に見られるものではないだろうか「一部番組内容を変更してお送りいたしました」。
例えば災害だ。
災害はあらゆる人に平等に起きる可能性があり、そのことを把握するのはきわめて重要。
「緊急を要する、かい」がある。
また、多くの人が被害を受けてしまった犯罪や国政の大規模な変革など、急いで報告したいものはまだまだたくさんある。
これらを見る限り、「一部番組内容を変更してお送りいたしました」が見られるのは、ニュースである。
となると気になるのが、「サスペンスドラマにおける「一部番組内容を変更してお送りいたしました」」などの、一見変更することなんてなさそうなメンツが、変更されちゃったときのことである。
こんなのはどうだろう。
ある役者さんが、ある事件の重要参考人となってしまった。
そしてドラマには、一瞬だけ彼彼女が出演しているシーンがある。
僕はよくわからないが、とにかく上記シチュエーションが、番組放送の是非としてどうなるかが微妙だったのである。
出演している時間は短いが、それでも確実に視聴者にはばれてしまう。
事件のことを考え、放送を取りやめるか。
しかしそうすると2時間、空いてしまう。
しかたない。
わんにゃんを放送するか。
しかしどうだ。
出演は一瞬じゃないか。
しかもドラマにおけるキーパーソンでもない。
そこだけどうにか、どうにかできないものだろうか。
そうして生まれたのが「意味ありげに立ち去る男のシーン→冬空と札幌の時計台のシーン」みたいなことになるのである。
もちろんここでは「事件の重要なポイントに北海道が関わる」のが大前提であって、もちろん鳥取なら砂丘が、静岡なら茶畑が、ガラパゴスならひなたぼっこするウミイグアナが、ちょいカット登場するはずだ。
とまあ、適当に話してまいりましたが、この手のは「ドラえもん」「サザエさん」あたりならかなり夢広がるはずなので、みんなで夢広げといて。
ちなみに僕としては「北斗の拳」で「一部番組内容を変更してお送りいたしました」なんて出てきたら、けっこうグッとくる。
以上です。

このあいだ、ねこが出るなどと書いていたわけですが、これから僕はねこを探しに行かなくてはなりません。
キキはおそらく数ヶ月であろうノラ期を経て、連れてこられたとき「シャムネコじゃね?」と言われていたが大きくなるにつれて明らかにシャムではなさそうな模様の出てきた、いじめがいのある雄ねこだ。
その生い立ち、どうにもいじめやすい上目遣いが災いし、少々気の小さいねこになってしまった。
そいつが、ひっくり返りながらも窓を開け、脱出をはかるのである。
それほど我が家がいやなのだろうか。
いやならいいさ。
出て行くがいいさ。
お前よりもかわいいねこはたくさんいるんだ。
知っているか、こねこって。え?。
とはいえ探さない訳にはいかない。
小声ながらも名前を呼びながらそこらを徘徊せねばならない。
ききい
ききい
僕はねこを探しているのです。

笑っていられるのも今のうち。

足下でうねっている電源ケーブルのたぐいをみるたびに、なんで全部黒い色なんだろうと思う。
カラフルにしておけば、それぞれ線を抜くときなど区別をしたいとき、かなり便利だと思うのだが、まあなんらかの理由で黒いのだろう。
例えば、安いとか、リーズナブルとか、だ。
今日、掃除をしました。
部屋が汚かったのです。
節分のときの豆があるのです。
そして今、節分の豆はきちんと袋に集められて、本棚に飾られています。
何かの拍子でその袋が倒れたりしたら、開封な口から瞬く間に大豆たちが飛び出してくるという、リスクのある収納方法です。
ただ、ずいぶん昔のものだというのに、それらはねばねばすることもなく、なかなかどうして清潔感のある乾燥系です。
来年で使用したら、より鬼を防ぐ力がありそうではありませんか。

速度規制

前にも書いたかもしれない。
人にとって、時間は有限である。
だから、それほど有効でない時間の使い方はしたくないし、そんなことに注目した番組もやっているようだ。
しかしそれがわかっていたとしても、「はやくない」ほうがいいものもある。
そんなことをいうと、多くの人はまず「おばあちゃん」を連想するだろう。
素早いおばあちゃんはいやだし、一方それが時間の経過のことであったとして、やはり「はやくない」ほうがいい。
「熟成」
これも「はやくない」ほうがいい。
お酒だとしたら、超音波でもあてるのだろうか。
カレーだとしたら、熟カレーだろうか。
はやいこと。
でも、なんとなく「熟成」の完璧な感じが劣っている。
それはそれでいいのだが、別口で「はやくない熟成」も取っておいてほしいと思う。
「あたまをなでなでする」
これもだ。
せっかくの称賛が、はやくては台無しだ。
しかも、ぞんざいな感じがする。
「はい褒めてあげるよー、はい、次は誰ー」
できるかぎりゆっくりとなでてあげなくては、その意味も薄れる。
「あたまをなでなでする」ことに「はやさ」が関わってくるとしたら、それは「はやく会って、あたまをなでてもらいたい」というようなはやさの種類であるべきで、「けむりが出るくらいはやく?」の「はやさ」ではないのである。
あたまをなでる行為をスピードアップしてはならない。
それでも「あたまをすごいスピードでなでまわしてもらいたい」という人がいるとしたら、少し待て。
「人の頭をすごいスピードでなでる」には、相応の姿勢をとる必要があり、しかも「すごいスピードで手を振り回している」そのところに、来てもらわなければならない。
準備が必要なのである。

神鳴り

なんだか綾瀬はるかの出ているCMは、ざんねんな感じのものが多い気がする。
これは関係ないが今、雷がすごくなっている。
僕は日ごろより「かみなりよりも火事のほうが怖い」と考えているため、個人的には「地震雷火事親父」ではなく「地震火事雷親父」であり、親父はもっとがんばってもらいたい。
ただ、今は雷こわい。
雷は、遠めで起きている分には、かなり派手な演出も幸いして、人気の自然イベントだろう。
誰しも稲妻が空をつんざくシーンに心躍らせた記憶があるだろう。
しかしそれが近いとなると、事態は変わる。
家のなかですら。
安全だとは思っていても、その轟音ともなう雨量に、思春期特有の行き場のない感情、声にならない叫び、そして恋。
まとめて不安みたいなものを感じずにはいられない。
ただ一方で、やっぱりイベントのような楽しみもあることにはあるのだ。
そういえば昔、そんな状況の中、サンボという猫が外出中であることが判明したことがある。
外は嵐なので、縁の下にでもいるだろうと考えられたが、それでも玄関で待ってはいないかと確認して回ったところ、ある小窓にへばりついている濡れ雑巾を発見した。
サンボはずぶぬれになりつつも家に入りたい一心で、濡れ雑巾になっていたのである。
濡れ雑巾を入れてあげると、彼女はニャーと鳴いてカルカンのある場所へ急いだ。
これを見るかぎり、猫にイベントは存在せず、人生の楽しみがひとつ少ないといえる。
さらに、いえねこにとっては地震も火事も親父にも楽しめる要素はない。
だいぶ損をしている。
そして、誰が何のために鳴らしているのかによっては、その損は少し被害の大きいものになるだろう。