クリスマスケーキ

クリスマスケーキは、クリスマスが過ぎるとただのケーキになると思われがちだが、そうではない。
ケーキ以下になるのだ。
ではなぜ「以下」なのかというと、飾りのせいである。
「merry christmas」的な飾りが、12月25日を境に、負に働きだす。
このときの、飾りの「クリスマスっぽさ」は、どうにも「祭りのあと」の悲しい感じが出てしまっていたり、その華やかさが辛かったり、じゃあ来年のクリスマスを指しているものと思い込もうとしても、そのときケーキは土になっていることは想像に難くなかったりし、頑張っても価値はゼロ以下になってしまうのだ。
みんな、そのことをよく知っている。
店頭の売り子さんは、24日から全力のはずだ。

ダミー欲

欲がありすぎるってのも困るけど、無欲っていうのも、困る。
何が困るかって、そんな人に何かをあげなくてはならないとき。
何をあげればいいのか、わからないのだ。
無欲であることは、ほぼ無趣味であることと、言い換えることができる。
趣味くらいあれば、それに関連したプレゼントができるものを!!。
あいつめ!!。
ぎりぎり延長コードが届かなくなれ!!。
と、こういうとき、人はたいてい「王様のアイディア」的なものに走る。
よって、無欲な人には、そういったアイテムが集まりやすい。
無欲な人。
それでいいのか。
そもそも、何をあげればいいかなんてことで、相手を困らすんじゃない。
ということで、大人のたしなみ。
ダミー欲の登場である。
「いやじゃないけど、そんな興味もない」
そんな欲を、日ごろからちょくちょく出していくのだ。
「かえるを集めている」
非常に有用なダミー欲であると思う。
友人は、よろこんでかえるの形をした鉛筆削りをくれるだろう。
かえるはダミー欲である以上、それほど興味はないわけだが、かえるのおかげで友人の手を必要以上に煩わせることもなく、自分も鉛筆削りに困ることがなくなった点で、それは素敵なことである。
もちろんダミー欲は、無欲な方だけでなく、欲欲な方にもオススメしたい。
安価に達成できるダミー欲を利用することで、相手に無理をさせない。
そんなこともできる。
大人である。
ただ、あまりにこのダミー欲に頼りすぎると、それはダミーでなくなる可能性もあり、その時は注意したい。
ダミー時代が長ければ長いほど、度が過ぎる欲になりがちだからだ。

すき焼き

今ちょうど、テレビですき焼きのことを言っていた。
ぶっちゃけ中井正広のブラックバラエティで12月21日の放送。
ここで僕が、タイムトラベラーであることが判明してしまったわけだが、それよりも重要なのが「すき焼きの卵の件」についてだ。
みんな、すき焼きを食べるときのあの、生卵が好きらしい。
うちの家族も、みんなそれだ。
しかしどうしてか。
僕はあの、生卵習慣がない。
なぜ、生卵ですき焼きをコーティングする必要があるのか、それもわからない。
きついのか。
割り下がきついのか。
なら、割り下の改善を目指すべきではないか。
肉か。
肉が、ダイレクトすぎるのか。
なら、肉を網戸で包んでみてはどうか。
生卵か。
逆に、生卵がどうしても必要なのか。
なら、付けるがいいさ。
俺は、認めないがな!!。
と、こう考えると、生卵の意義は、生卵が貴重だったころの、ぜいたくっぷりをあらわしたもの、くらいにしか見出せないのである。

ゆるす

「許しているんだから、許される」
こう思っている人は多いのではないか。
例えば、電車内で迷惑行為を働く人は、この考え方を持っているに違いない。
無意識かもしれないが「俺は許しているんだから、俺の迷惑行為は許されるはずだ」と。
ということで、ここで彼が何を許しているかということについて、考えてみる。
僕が1番に思いつくのが「特急電車がホームをすれすれに通過する」ことだ。
慣れていたり、気にならないという人もいるだろうが、そんな人でも、実はあの通過。「許している」。
あの質量のものがあの速度で走っているのは、結構すごいことだ。
危険。
でも、特急は急いで目的地に行かなくてはならない。
仕方がないから、人はその危険を「許した」のだ。
次に思いつくのが「キャベツの葉、すぐ腐る」ことだ。
人はそう聞いて、こう言う。
「それって、自然の摂理じゃない」
でも、内心は腐らないでほしいと思っている。
だから、無意識に「許している」のだ。
最後に、思いつくのが「もち、金網に付く」ことだ。
あれも、しょうがないことであると、人々は口にする。
しかし、本当は付いてほしくない。
後がめんどくさい。
そう思っている。
その兼ね合いの結果、とりあえず「許している」のだ。
以上のように、人は生きていく中で、許さなければならないものを多く持っている。
一方、許される行為はそれよりも数少ない。
数が合わないため、どうしても許される行為のレベルが低くなるのも、仕方ないだろう。
思うに、上に挙げた3つの事柄を「許す」と、もれなく「ホッチキスの置き場所を間違える」くらいのことが「許される」。
このくらいだ。

おなじみ哀歌

テレビで、どこかの高校の、ある部活動が紹介されていた場合、その内容を「どうせ、部員が足りないんだろ」と考えるのは、軽率である。
単純な部活紹介であったり、いいキャラの部員紹介であったりすることの方が多いのだ。
しかし私は「部員足らないの件」の方を考えてしまう傾向にある。
「部員が足りていませんが、部長ともども、頑張っています。」
部活動の紹介をしている番組を見ると、最終的には部員不足で締めくくるのではないかと考えてしまうのだ。
これは、古い小学校を紹介する番組についても、同様である。
廃校だ。
「いつも子供たちを守り続けてきたこの学校も、今年限りで廃校となります。」
古い小学校の話題と言えば、これなのだ。
確かに悲しいことで、そのことをどうこう言うつもりはないのだが、私が気にするのは「古い小学校の特集=廃校」の関係ができてしまっていることだ。
たまには「古い小学校ですが、校舎を一新。まだまだ続きまーす。」というのはないのだろうか。
それじゃ、特集にならんのか・・・。

チョウチョ、蜜に飽きるの巻

【あらすじ】
なんということか。
チョウチョが、蜜に飽きてしまった。
しかし、彼らの口は、だいぶ蜜を吸う用に特化している。
どうしよう・・・。
=========
・・・どうにもなりませんでした。
空腹だが、とにかく蜜に飽きてしまった彼らが最初に試したのは、果物でした。
ストローのような口を果物に突き刺し、中の空洞部分に詰まったやつを食べようとしたのです。
しかし、突き刺さりません。
イチゴや熟した無花果などのやわらかい果実ですら、文字通り歯が立ちません。
果樹園は、まるで落ち葉が敷き詰められたような情景となりました。
ここで世界中の2割のチョウチョが死にました。
残ったチョウチョたちが向かったのは、焼肉屋でした。
もちろん肉は食べられないが、いいにおいを口で吸い続ければ、空腹くらいは満たせるのではないかと思ったからです。
彼らは焼肉屋の出入り口や換気孔に殺到しました。
・・・だめでした。
ここで、ほとんどのチョウチョが犠牲になりました。
あるものは自動ドアにひかれ、あるものは熱風に躍らされ燻製に。
阿鼻叫喚でした。
最後のチョウチョの死体が見つかったのは、レンゲソウの花の上でした。
彼らが蜜の偉大さを再認識できたのは喜ばしいことですが、少々遅すぎたのです。
=========
「先生。チョウチョが全部死んでしまっているとしたら、僕らの見る、あのひらひら飛ぶ生き物はなんなのですか?」
「本質的で、重要な質問だと思います。あれは、うそです。」
「うそだったんですか。」
「そうです。うそです。」
「この世の中、うそがずいぶん飛んでいますね。」
「ええ、気を付けましょうね。」

虫食いりんご

何かの格言的な、何か。
「虫のかじった跡のあるりんごは、見た目が悪い。でも、虫が食べてしまうくらい、おいしいりんごなのです。」
ここで重要なのは、虫の味覚である。
「たで食う虫もすきずき」ということわざもあるわけで、やつらの味覚は、アヤシイ。
ただ、それは人間中心に考えている場合であって、我々がアヤシイと思っている食物を、彼らはおいしくいただいているに違いない。
ところで、彼らの「くち」は、その種類によってずいぶん変わる。
チョウチョはストローのような口だし、カブトムシはブラシのようだ。
バッチリ食物を噛み砕くヤツもいれば、口のないやつもいる。
だから「ある虫は、ある特定の食物しか食べられない」ということが起こる。
チョウチョは液状の蜜。カブトムシも、そのブラシでこそぎおとせるものしかダメだ。
…虫よ。
咀嚼の方向でまとめておけば、よかったのにー。
咀嚼の方向で。
そんなこんなで次回。
チョウチョ、蜜に飽きるの巻。

いちょうの葉

最近すこぶる忙しい上にネタを大量に考えねばならぬという苦行。
真夜中に帰り迎えるのは猫が一匹。
モモ言うそれはもう朝が来たのかと、餌を貰おうと居間へ走るが悲しいかなそこにあるのは老いた犬のみである。
僕は風呂に入りながらネタも考えずだらりとのび。
恐ろしいことに朝、夜とものを食わぬことも多く、普通なら自らの体温を発生させるために必要な熱量を生み出すだけで、その体自体が消滅するところだが幸いそれには至らず、忙しいときは風邪でもひいて休みたいなんて言うけれど、体が消滅した日には忙しいことはなくなるが同様に何もなくなるわけで都合が悪い。
日がいつ落ちるかも知らず、葉がいつ色づいたのかも知らぬなら、落葉に目を奪われることなどないのも仕方なく、せいぜい車の窓越しにいちょうの葉がひらり。
まもまく、2番線に電車が参ります。
窓越しに見えるのは、落葉を知らぬものばかり。

釣り人のバケツ2

昨日からのつづき。
【あらすじ】
海辺付近での大型取引を摘発するべく、ある刑事が釣り人に変装した。
しかし、なんらかの理由で張り込みが発覚してしまい、摘発は失敗。
刑事はおこられた。
理由1
疑似餌がピーポくん人形。
理由2
釣り針に、餌を付ける気配が全く見られない。
理由3
着信音が、発砲音。
理由4
一緒に来ている息子らしき人物が、どうみても父親と同年代だ。
理由5
アナゴを警棒のように扱う。
理由6
釣り糸がふれると、なぜか自分の腰あたりを探り出す。
理由7
警察のにおいがする。
理由8
警察のにおいのするセンスの服を着ている。
理由9
ケータイに手錠のキーホルダー。
理由10
トランシーバーがでかい。
・・・いつの時代の、だ・・・。

釣り人のバケツ

釣り人の横にバケツがあったなら、それを覗いてみたくなるのはしょうがないことだ。
しかし、なぜそうしたくなるのかをちゃんと考えると、案外わからないのではないだろうか。
いやわかるね。
魚だね。
魚が釣れているかどうか、気になるものね。
とはいえ、バケツと言うものは懐が深いものだから、魚以外も入れることが出来る。
以前、長ぐつを釣りあげることについて書いたが、釣り人の横のバケツに長ぐつが入っていたら、さぞ楽しいことだろう。
「おーい。ここに、まんががいるぞ!!。」
写メとる。
また、ゼニガメが2匹入っているのも、いい。
ペットなのだ。
お風呂場の遊び道具、ねじ動力のイルカが浮いているのも、捨てがたい。
誰が遊ぶんだ、誰が。
おそらく、釣りに飽きた釣り人本人だろう。
ここにきて、思うことがある。
よく刑事ドラマなどで、変装した刑事が張り込むシーンがある。
ここで、ある刑事が釣り人に変装したとしよう。
犯人「おいおい、あいつ見ろよ。刑事だってバレバレじゃねぇか。」
こういうのを、明日。