僕らが旅に出る理由・2

バドミントンに興じる子供たちを見るのは、2回目になる。
1回目は公民館。
今はバス停ひろば前で。
駅から出て、7時間くらい歩きっぱなしだった。
僕は、マジックミラーを探していた。
初めて京都に来たとき、寺めぐりをしたのだが、少し道に迷った。
迷いに迷って、まぁ今現在も迷っているようなものだが、途方にくれて、道端で立ち尽くしたとき。
目の前にマジックミラーがあった。
僕の立ち止まった場所は、ちょうどY字路のようになっていて、そのミラーは僕と、その背後の分岐を写していた。
ちょうど「お前、どっちに行くんだ?」と言っているような風に見えた。
その後、特にそれがなんらかの暗示ということでもなく、地図を見たり、地図を広げたり、逆さにしたりしてみて、どうにか生還したのだった。
そのときのミラーを探している。
おおよその見当をつけたのだが、いかんせん道に迷ったときのことなので、そこを直接目指すことはできない。あくまでそこら辺を歩いてみるのみだ。
歩いていると、まず閑静な田畑街に出た。
息が白い。
山に囲まれたそこは、一面に田んぼが広がっていた。
ところどころに、切り開かれた際の余りのように、少量の杉が群生している。
近づこうとしたら、そこにいたカラスが騒ぎ出した。
彼らの休み場のようだ。
さらに歩いていくと、子供たちが川辺に集まって何かしている。
近づく道すがら、ザリガニのかけらが点々としていることに気付く。
このあたりで、かすかな記憶の中に「マジックミラー、田んぼじゃなかった」が浮かび上がった。
僕は住宅の多そうなほうへ向かうことにした。
僕は、この一日は「昔通ったところを、も一度見てみる」に終始する魂胆だった。
旅先が初めてのところか、2回目のところか。
旅の重きがけっこう違う。
前と変わっていないのか、それとも変わってしまったのか。
それを確認する楽しみが増える。
もちろん、確認の結果、むしろ見なかったほうがよかったかも、ということも多い。
だから、僕は探し歩きつつも、見つからなくてもいいやという安楽な気持ちだ。
日本庭園風の家の前を通る。
その、大きな岩を横切る瞬間、コウガイビルを見つけた。
その、鈍く光る細長い胴体と庭園が、すばらしく似合わない。
しかたがない。
くたびれながらも歩いていくと、公民館らしきところで子供たちがバドミントンをしていた。
小雨の振るなか、元気なことだ。
結局、この辺には目的物がなさそうなので、いったん大通り沿いに出る。
遠目に、さっきのザリガニ釣りの子供たちはいなくなったのが見えた。
気付かなかったが、もう夕方なのだ。
新幹線の時間がある。
バス停を探すことにした僕が次に見つけたのは、バドミントンに興じる子供たちだった。
なんなんだ。
今、京都は、バドミントンなのか。
バスは来ない。
結局、ミラーは見つからなかった。
また、機会があれば探そうか。
だが、わかったこともあった。
京都は今、バドミントンがスパークしていることと、
観光名所にあるトロッコ列車を、純粋な交通手段として計算してはいけないってこと。

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